The storm from the future vol.001

マイナス二百度の衝撃波。
刻々と忍び寄る未来からの影。
ある日広告マンが運命に引きりこまれて、
日本の未来が変わる・・・。
無血クーデター計画の行方は・・・。
日本の未来は彼らに託すしか道はないのか・・

「未来からの嵐(あらすじ)」

爽やかな秋風が銀座の街角に舞い降りる頃某国では同時多発テロが発生する。緒真留光夫が亡くなってちょうど二年を過ぎようとしていた。年商八百億円・業界でも十位に位置する北斗広告社を舞台に、一人のクリエイターの死をきっかけにさまざまな事件が巻き起こる。その背後には得体のしれない妖怪が刻々と迫ろうとしていた。二年前の社内クーデター事件が一応鎮静化した。何事もなかったかのように仁科広嗣はじめクリエイターたちは黙々と広告づくりに余念がない。が、だれもがその沈静化が現実のものとなったとは信じてはいない。
瀬川早雲は北斗の創業者で持ち前のバイタリティーでわずか四十年余で業界のベストテンの仲間入りをする。バブル経済への私的な深入りとワンマン経営。白鳥銀行や外資系の広告会社セブン・センスとの密約。先妻の早すぎる死別と多くの愛人の存在。だれも止められない純粋不倫愛。そして政官界への果てしない癒着がやがて北斗広告社と早雲自身の未来を奈落の底に追い込むことになる。その裏には大手の星加物産の影もちらつく。
そして、彼らの背後には国家的な野望をもつ集団の存在が消えてはあらわれ、あらわれては消えていく。
主人公は広告制作マン仁科広嗣。神田春雄・緒真留光夫・安西朋美がもり立てる。
話は北斗広告社での二年前の緒真留光夫の死と早雲のワンマン経営批判組のクーデター発覚時期の半年前から始まる。
光夫は自分の死期と妻貴子の早雲との不倫関係を知りながら知らぬふりをしている。一度おおやけに確かめてみようと神田の友人の江川に調べてもらう。妻だけの素行調査だけのつもりが思わぬ情報が入ってしまう。
光夫も部下の安西朋美の不倫で妊娠させてしまう。光夫の死の何ヶ月か前に極秘裏のうちに出産。安西側の判断で名は知らされていない。副社長の娘婿瀬川利道は北斗の調査部門の指揮をとっており私物化していた。早雲のワンマン体制に対抗・早急な改革を迫るためでもあった。そこからの情報は下手な警察や公安よりもはるか上をいき、CIAなみの国際的な調査・スパイ活動もやっているから江川の情報などの比ではない。八十人程の大所帯だ。だが、早雲も負けてはいない。対抗措置として政官界に先手を打ち始める。
利道は国家的な野望が北斗を抜きにして考えることができない。計画的に無血の軍事クーデターを意図しているが北斗の社員は知る由もない。
利道の陸軍の皇道派であった父が226事件の青年将校の下で決起したが、彼らは実質的に軍を支配していた統制派にはばまれ失敗におわる。叛乱軍は1400人いたがほとんどが、陛下の御諌めを無視すれば逆賊となる恐怖心から降伏し首謀者らは処刑される。  利道はあらゆる手を使って、政権交代を唱える政党に政治献金を早雲に黙って献金し使途不明金を隠れみのに毎年、北斗が内密にやっているバックマージンシステムを逆利用しその資金を横領する。
北斗の資金がむしりとられる事になる。
北斗での社内クーデターは早雲に先回りされ失敗に終わった。利通は北斗を追われたのち尾上が後を任される。利道は妻の法子とともに北海道の富良野でひっそりと過ごしていた。利通を慕っていた尾上は勝手に早雲の実態を世間に全て公表した。早雲を失脚させ会社更生法を申請させた。北斗は消滅した。
一方、安西一族は、北斗の社員をすべて受け入れる事になる。ふところの大きな安西の最高責任者は大物感が漂う。安西はすっかり落ち込んでいた利通を納得のいくまで説得する。利道は以前は安西一族の一員でもあった。利通が以前安西に反旗をひるがえしたことがある。この国の運命を左右するほどの安西の真意がなかなか見えてこないいらだち。ゆっくりと進む壮大な安西のプランに業を煮やしていたからだ。性急過ぎる性格のため三十代で抜け出していた。一回り大きくなった利通は安西に説き伏せられ再び戻ってくる。
安西側は永年のプランが挫折するのを憂慮していた。利道のそれまでの行動を細心の注意をはらって監視もしていたのだ。
安西が日本や全地球的規模での改革のためようやくクーデターを決起する。
Xデーが刻々と近づいてくる。模索した中で新たな時代が始まろうとしていた。仁科は安西に見込まれ、朋美と歩むことになる。

第一章 嵐の予感

第二章 シークレットファイル

第三章 キャスティングボート

第四章 パスワードをさがせ

第五章 クロスゲーム

第六章 デッドロック&
リターンマッチ

第七章 ネクストワールド
<本編>

一 嵐の予感

銀座界隈では、いつもの穏やかな秋を迎えていた。世界を震撼させた同時多発テロが某国で起こった。国内外の報道機関は二十四時間体制を敷いている。緒真留光夫が亡くなってちょうど三年目を迎えた時だった。急進改革派の失脚の後、また新たな火種が発生しているようにも見える。表向き社内の風も今は幾分穏やかになっているようであった。だが北斗広告社の業績は日を追うごとに下降の一途をたどっている。
制作スタッフはここ三日間企画案制作のため不眠不休状態にある。普段の意識も限りなく無感覚に近くなっていた。それに追い撃ちをかけるように歴史的な事件が全世界を駆け巡る。誰もがTVにくぎ付けになっていて制作案のメインコピーもまったく煮詰まっていない。広告の仕事を獲るためのコンペティション(キャンペーン企画提案合戦)を前にしてこの状況では勝ち目はないに等しい。確かにそういう空気が漂っていた。
この日も銀座通りのはなやかさを尻目にいつもの怒鳴り声が窓の外に飛びまわる。
「おい。仁科。例の撮影の承諾取ったのか?何だこれ写真に文字を貼ったただけじゃん。あ、キャッチコピーが差別表現になってる。これじゃ抗議が来るぞ。コンペにも不利だ。広告は弱い人の味方だってこと忘れんなよ」「え、うそ・・・そんな・・・」
「発想だけじゃダメっていつも言ってるじゃん。それにまだ三案しか進んでねえぞ。七案っていってんだろ、七案って。キャッチコピーがコンセプトに全然かみあってないし、リードコピーはもっと遊びの要素がないと。これじゃ受けるわけねぇよ。肝心の本文も足りないし・・・」
「あとのコピーはどうした?」
「あ、いっけねぇ。
メールのテキストファイル消しちゃった」「消しちゃっただと?」
「消えちゃった・・・・」
「じゃあ、佐久間にまた送ってもらえ。バツとしてキャッチフレーズ百本追加・・・」
「そんな器用なやつじゃないっすよ」
「そんなことたぁねぇよ。あとこれ、なんだよ。モデルのズームアップはだめだよ。芸能プロとの約束だ。肖像権忘れたのか?しかしせっかく美人タレント使ってんのに、もったいないなぁ。これじゃホラーじゃん。ゾンビのポスターでもあるまいし。五百万払ってんだよ五百万。うちの女の子でも使ったほうがまだマシだぜ。そうだろ?」
「でも美人社員があまり・・・」
「いないよな。やっぱり・・・」
「ピント暈せば何とか・・・」
「それもそうだな。やっぱり無理か・・・」 二人で苦笑いをする。
「でも写真はちゃんとスタジオで撮ったんだろうな。カメラマン誰?」
「荒木ちゃん」
「やっぱりな・・・」
「何か問題が・・・」
「ピンポーンだ・・・」
「そんな風には・・・・」
「お前には知るわけないよ」
「いいと思うけどな・・・・」
「仁科がここに来る前。
やっちまったんだよ」
「何を?」
「フェチ写真」
「どこで?」
「渋谷で」
「なんのフェチ?」
「俺に言わせんのか?アイツに聞け」
「言いませんから・・・」
「・・・・・・・・・」
「戦場の友でしょ・・・・」
神田は耳打ちで
「女の子のお尻・・・」
「それだけ?」
「巨乳フェチ」
「もっとあるでしょ?」
「有閑マダムのうなじ・・・」
「で、どれくらい入ってたんですか?」
「一年。余罪も結構あったしな。本人はまじめに写真作家めざしたんだろうけど」
「いまは改心・・・」
「そう、少しはな。でもちょっと感性がな」「改心というよりは関心・・・・」
「言うじゃねぇか。ところで何で撮った?」「もちろん、最新のデジカメで。三百万円のスタジオ用。八百万画素・・・・」
「デジカメ?カメみたいなドジかい?ポジでなきゃだめだよ。パソコンばっかに頼っちゃいかんよ。本番はちゃんと撮れよ」
「コンペ取ったら、そうします」
「お、取ったつもり。偉いねぇ・・・」
「じゃぁ、佐久間に連絡を・・・」
「ちょっと待った。アイツに言っとけ。作家気取りもいいけどな。純文みたいなこといつまでもやってんじゃねぇって。それでよくメシが食えてきたよな、と俺が言ってたって。ちゃんとメールで打っとけよ・・・」
「はい、はい・・・」
「あ、そうだ。こんなことしてる場合じゃ」 コピーの早川薫が血相変えてやって来る。「あー、すげぇや。ぶつかっちゃったよ。ぶつかっちゃった。ほら。大変。ビルが二つなくなっちゃった・・・」
「ヤジちゃん、あのさ、今はとにかく時間がねぇんだよ、時間がさ。テロのニュース観るのもいいけど。可哀想だけどな・・・・・・あ、ほんとだ」
「ね・・・」
「でも早いとこやっちまおうよヤジちゃん。今度のコンペこそゲットなんだ。いいコピーたのむよ。ほんとに。外注に頼んだコピーに色つけたってすぐバレるよ。ディレクションだけじゃぁ・・・。前のように思い切って書いてみなよ。緒真留が見てるぞ・・・」
早川は生粋のヤジ馬オヤジだ。誰もが持っている人の不幸を嘆きながら面白くみる秘密の本能だ。本当は真面目そうなのだが、本来の自分になりきれない。あの事件以来。
「神田・・・」
気さくさを装う早川の眼が潤んでいる。
「先輩。佐久間がいないよ・・・」
仁科に珍しく泣きが入る。
「わかった、わかった、わかったよ。よし、こうなりゃ、仁科、悪いけどおまえこれからヤジちゃんとコピー案を一緒に考えてくれ。 企画部の山田と亜紀チャン。そうだ、なんてったけ・・・マーケティング調査のいづみチャンもだ。彼らにもう一度コンセプトの再確認だ。サムネール(企画全体図)も書いてもらってくれ。時間もないから同時進行といこうや。朋ちゃんにはレイアウトデザインやってもらってくれ。分かるだろ。彼女おまえのいうことならなんでも聞いてくれるぜ。みんなもう知ってるんだぜ。癒してあげな。
ともかく前みたいにさ。俺たちでやってみようぜ。俺もレイアウト手伝うから・・・」 仁科は嬉しそうに声をかける。
「朋ちゃん、ちょっと・・・・・」
「フェチおじさんもすぐ呼んでくれ・・・」「営業の大宰部長もすぐ・・・」
「AV制作の安藤部長はどこ行ってんだろ。ホラー写真を美人女優にムーフィングしてもらってと。これでイメージビデオは完成」
早川と仁科がお腹をかかえて笑う。
「先輩、VA(ビデオオーディオ)でしょ?アダルト・ビデオじゃないんだから。クライアントが内緒でくれよってうちの女の子に言ったらしいっすよ・・・」
「わるい。わるい。
じゃ、ついでに作ってみる?」
「神田さん。いい加減にしろ・・・」
朋美が尻を叩く。スタッフは人海戦術だ。 制作室はいつもの混乱を取り戻している。 光夫の後を引き継いだCCD(チーフ・クリエイティブ・ディレクター)の神田春雄は仁科とあの事件の後、ナーバスな日々を繰り返している。
以前のような人当たりのいい性格は鳴りを潜めてしまった。二年前のことを早く忘れたいかのように自分自身をいじめようとしているからだ。無の境地といえば聞こえはいいが彼も心の中が繊細な証拠だ。
「そう言えば今日はヤツの命日だな」
「そうっすね・・・」
仁科の眼も神田と同様眠れる獅子だ。虎視眈々と洞窟の中から廻りを見渡している。彼らのハイテンションがスタッフたちに時折襲いかかる。妙に落ち込んでいる雰囲気でもないし、かといって何かを企んでいる様子でもない。また一波乱ありそうな気配だけは何となくただよっている。
次週のライバル会社五社とのコンペティション(ふだんはコンペと言う)を控えてスタッフたちは苛立っている。
いまではIT社会の基盤が整って企業や個人・ほとんどの家庭ではパーソナルコンピューターが普及している。広告業界は以前花形産業と言われてきていたが、今ではその位置になんとかぶら下がっている状況下にある。 九十年代の中頃からだ。広告の制作環境も本格的にデジタル化の波が押し寄せる。
米国のMS社とA社のOS合戦はシェアのちがいこそあれ、広告への影響力は大きい。彼らが未来を魅力ある社会に導いていくことは間違いない。広告の仕事を受注するには、自由競争入札合戦が不可欠だ。いわゆるコンペというものだ。それを勝ち取らないとキャンペーンの広告全般の仕事はその代理店には回ってこない。もし回ってきても、お付き合い程度のものだ。プライドは傷つく。
近頃はありきたりな表現や提案ではコンペでは勝利できない。パソコンやDVD・CDROM・PDF・イメージビデオ・パネル・それにハッタリ的・奇抜な発想で広告主を説得しなければならない。
担当者でもなかにはデジタルの一から十まで知り尽くしており、表現のノウハウも熟知しているところが多い。よって、代理店としては企画・発想・マネジメント・有効な制作提案が命綱となる。コンペがとれなければ仕事は回ってこない。プレゼンテーション会議(プレゼンともいう)はコンペを勝ち取ってからの話しだ。
だが、いざ広告を作り始めるとなると、いろいろな問題をクリアしなければならない。広告の表現をめぐる環境は難しくなるばかりだ。どういう広告であれ、人種・職業・身分・用語・動物愛護・同和・精神的、身体的条件等の差別的表現は全世界的にご法度だ。  広告制作者は基本的に社会的弱者の立場にたちながら広告の表現にたずさわらなければならない。心身ともに結構な労力を要する。一見華やかそうに見えるこの業界は過酷な世界でもある。現実的には社会的な規制でがんじがらめなのだ。差別用語・著作権・肖像権・使用権・商標登録の確認・膨大なネーミングの確認作業・公正取引委員会・・・考えただけでも頭が痛くなる。それゆえ、クリエイターたちは斬新なアイデアやオリジナリティな作品ができ上がると充実感が倍化する。
今回の広告主はNリアルインターナショナルという外資系の企業だ。練馬区内での壮大な環境プロジェクトの広告費は総額三十億円を優に越える。落札に勝利して広告主のキャンペーン一式を獲得すれば関係スタッフは鼻高々となる。が、負ければそのためにかかった調査や企画、制作費は限りなくゼロに近くなる。そして否応なしに生き地獄の日々をおくることになる。せっかくの企画案もボツとなり、外注先にはその制作に関わった費用は払えなくなる。払っても雀の涙で泣いてもらうしかない。制作・企画部門の存亡にも影響する事も時としてはあるのだ。
仁科広嗣は、神田の気持ちが痛いほど分かる。それに自分の身の振り方も視野にいれて行かなければならない事情も抱えていた。 仁科のオフイスは銀座一丁目の中央道り沿いにあり、二十五階建てのビルである。広嗣は神田の直属の部下で二年半程前にCDになったばかりである。まだ自社ビルではない。大手の白鳥銀行の建物を借りている。近くには元映画館の跡地に新しく建てられた洒落たホテルや高級専門店が軒を連ねる。
北斗広告社は年商八百億円の大手の広告代理店である。創業は昭和三十七年で日本の広告業界では上位十番目程のランクに位置している。世界では三十位くらいだろうか。
D社、H社は相変わらず業界の中でもステイタス的な存在である。あと数年で上位十社は北斗を除いて東証一部に上場することが予定されている。創業者の瀬川草雲はかなり焦っているふしがある。北斗は明らかに上位の代理店に対して後塵を拝していたからだ。
わずか四十年程でここまで北斗広告社を大きく成長させた瀬川は徹底したワンマン経営者である。資本金は五億円。社員は八百人程で広告主は主には不動産・証券・スポーツイベント・金融関係で全体の約八割を占める。スタッフ構成も九十年代はじめのバブル経済の頃とあまり変っていない。営業が約六十%を占め、制作要員は二十五%、調査・マーケティング・企画・セールスプロモーション・経理等が十五%という構成である。フリーから始まりアルバイト、嘱託社員、派遣社員、プロダクションなどの外部協力会社は約二千社を数える。優秀なフリーのクリエイターやプランナーも控えている。また労働組合は存在していない。経営意識のない社員は来るに及ばずということらしい。瀬川のその卓越した先見の明と政官界・元軍人・実業界とのつながりの深さも北斗広告社の右肩上がりの成長に大いに貢献しているようだ。福井出身の苦学生が業界三位のY通信社を三十代で抜け出し築地にあるそば屋の八畳のアパートの一室から始める。
その後、南方戦線の復員(といっても戦前は大本営の諜報関係に秀でた元軍人)を側近に置く。右翼系の新聞社関係の実力者を顧問弁護士におき、大手の銀行や財閥系商社の後ろ盾を確実なものにして足場を固めた。会社の業績は政府の住宅政策や金融政策の充実化に比例して伸びている。しかし、九十年前後のバブル経済での巨額な負債が瀬川の肩に重くのしかかっていた。業界の中では五、六年位前から経営不安が噂されている。不思議なのは側近以外経営の実態がまったく知らされていなかったことだ。上場どころではなくなっていたのである。
世紀末を間近に控えこの国の経済環境はいっこうによくならない。政府の金融対策や官公庁のリストラクチャリングの推進もままならず、省庁再編成では逆に焼け太りとなり中央・地方の官公庁の組織と人員のスリム化に大ナタをふるう政治家も出ようともしない。官民は依然として優遇され、庶民はいつも苦い汁を飲まされている。
毎年何十兆円もの巨額の国債が増発され続け、発行がゼロという目標も藻屑と消えている。財政の赤字が増え続けている。そのつけは二十一世紀の子供たちに容赦なく際限なく回されていく。老政治家たちのあとは野となれという軽率な心理はバカには出来ない。本能的にみれば不自然とは言えなくもない。特に若者たちの大半は彼らを野放しにしているのは不思議な気もする。昔からのこの国のシステムが彼らを守っているだけのことだ。
湾岸戦争以来ジャパンマネーの多くがテロにあった某国への国債に向けられ見せかけの好景気を演出させられている。その国への日本の資本流出は約七十兆円にものぼり、そのうちの五十兆円近くはその国の国債引き受けに回されている。貯蓄率が限りなくゼロにちかいその大国では高金利での虚栄の富が謳歌されているのだ。膨大な軍事予算に裏打ちされた軍事力は世界の隅々にまで食い込んでいる。極端な話だが、十年で一回の大きな戦争でも起きないかぎり彼らの国体の維持は困難な様にもみえる。物や雇用の新陳代謝作用も表にあらわせない重要なポイントである事は間違いない。
メジャーという国際石油資本との共同世界戦略や産軍一体となった経済政策至上主義は冷戦後の彼らの行動をみればはっきりと確認することが出来る。たとえばパレスチナ問題が一向に解決されないことだ。戦後十分な協議の期間のないまま彼らは強引にイスラエルの建国を実現させたが、現在においては事実そのつけが廻されている。明るい材料は見当たらない。
現政権での日本の構造改革が無事成功すれば、彼らの行動は間違いなく予測できる。日本が立ち直ればドルの流出は避けられない。偽善的に演出された十年間の好景気の真実が露呈されることになる。彼らにとって死活問題になるのは避けられない。
今その国では、多発テロによって戦時下の我が国の翼賛報道とナショナリズムの愛国心という状況では酷似している。一時期、日本が某国の国債をユーロ圏にシフトするという噂がその国の焦りを誘ったことがある。高金利時代に貸し出したその資金はおそらく何倍にもなるだろう。彼らには返済するパワーは持ち合わせてはいない。際限のない消費社会を作り上げて世界のマネーの中心ということを演出し続けていかなければならない。京都議定書どころではないのだ。全世界の二十%を超える個人資産千四百兆円は日本人の永年にわたる汗の結晶というべきもので、そのパワーは見方を変えれば兵器にもなりうる。
ODA(政府開発援助)は全世界に年に一兆六千億円もの巨額な支援をしている。
そのODAには政府系と外務省系の二つのルートがある。相互の利権は必ず生まれる。資金の一部は中国にも向けられ累積の援助額は七兆円にもなる。軍事評論家たちの間ではその資金は日本に向けられた核ミサイルや戦費調達にも使われているという懐疑的な味方をする人も数多くいる。
それに、第二のODAと揶揄される、あの湾岸戦争時の一兆五千億円もの支援はなにもクウェートの感謝がなくても負い目を感じることではなかった。日本人は根拠のない自信喪失を抱いているだけだ。彼らのエゴイズムに翻弄されているだけなのだ。その国のやり方を反面教師とみるならばその効用は計り知れない。日本をカラ元気でもいいから上手に世論を操作すればいいのだ。
何か明るい事柄をうそでもいいからどんどん報道し、ばら色の未来を演出する。あらゆるマイナス要素を排除しポジティブな刺激策を大衆に公開する。小さな政府をめざしつつ国のシステムを一新する。人々の気持ちが和らぎ景気も良くなる。
一部での米国の格付会社の発表する数値は当てならないという見方もあながち無視するわけにはいかない。バブルの後遺症対策の遅れも否定は出来ないが、マクロ的に見るならば日本は先行き悲観することもない。格付けの発表の裏には国家的な思惑も考えておかなければならない。
視点を別の角度からみた場合、動かしようのない事実があるからだ。
・日本は諸外国からの借金はないこと。
・日本の財政赤字は顕著だが、その倍以上あ る世界の二十%を超える個人資産があるこ とを忘れてはいけないこと。
・不良債権は国内の問題で処理が可能である こと。後は改革する指導者の資質次第だ。・貿易収支は依然として黒字を維持しており 外貨準備高も豊富であること。
・政官界の赤字体質はシステムを一新すれば 解決することができること。
・日本の国債の格付はムーディーズの判断で は簡単に決められないこと。ODA等の途 上国への支援体制は国の経済力がなければ 出来るものではない。
・アメリカン・スタンダードの正当化志向は 彼らにとっては唯一の命綱であること。  格付調査機関の各国への圧力は水面下では 米国政府の野望と深くリンクしていること を忘れてはいけない。
軍事力や産学一体となった国力をバックボーンにおいた彼らの思惑は予定通り進んでいるようにもみえる。
評論家・有識者という立場の人は、本来オピニオンリーダーとなるべき責任があるのだが、自慰的発言や無責任な発想で庶民の気持ちをあおっている。アナキズムが横行しているその傾向は庶民の過激な自己防衛に走らせてもいる。一歩間違えれば日本の崩壊への布石となりえるのだ。
北斗広告社の人件費や制作費は年々はね上がっている。おまけに前年度の経常利益は三割も減っていた。社員の待遇は入社時とは大して変わっていない。将来を見越しての組織の再構築の動きもある。
優秀なクリエイターたちは雪なだれ式に退職していく状況にもある。脂の乗りきった三十代から四十代のスタッフは業界内では引っ張りだこの様子である。
しかし早雲は何としても新世紀までに売り上げ高を一千億円に乗せたいという思惑があった。会社の組織は旧態依然としている。取扱い高が伸びない。ここ十年でのITデジタルコンテンツの遅れを取り戻そうと社員の焦りも顕著になっている。上層部の設備投資計画は無策に近い。ライバルの代理店にも大きく水をあけられ、高利益のキャンペーンも他社に続々と奪われていくことになる。次第にバブル経済以後十年間の無策のつけが回ってきたかたちだ。経営陣の高飛車な立ち回りや派閥争いもある時期から顕著になっている。 広告主が他の代理店に鞍替えしていることやライバル会社との連携が希薄化していることは、以外と封建的な一面をのぞかせる業界では特に致命的でもある。
仁科はバブルの絶頂期に入社している。いつのまにか三十五歳になり業界に入って十年になる。市ケ谷のマンションを借りている。まだ独身である。
白い時計台が晩鐘の音色を解き放つ。柳通りでは爽風を肩で切りながら歩いている淑女達の群れが、街角からの微風を受けている。ブランドに包まれた粋な服装と脚線の数々が光彩を解き放つ。それらは危険な紳士達の目の記憶に焼きこまれる。彼女たちは、流行色の衣類で体を靡かせる。白桃色の大腿部を心地よく披露する。多くの微香をふりまく彼女たちの足音の群れ。それはこの街の華やかさを守り続けていくのに不可欠な存在だと仁科には思えた。
仁科はあの事件以来ここ二年ほど憔悴していた。緒真留光夫の死と北斗の将来についてである。光夫の死は表向きは過労死といういわば病死ということではあったが、妻の貴子は果敢に早雲にくってかかる。当初はお互い穏便であった。しばらくして双方は激しく対立する。なぜなら貴子は北斗の誠意を過大に期待しすぎたことにあった。早雲の誠意の少なさも原因であったのかもしれない。わずかな保険金と遺族への補助を合わせても二年分の生活費にしかならない。彼女は少なくても小学生二人が大学を卒業して一人前になるまでの額を期待していたからだ。光夫の労災問題も絡み、貴子は弁護士をたてて、瀬川と法廷で争うがあえなく敗北する。仁科は、神田から緒真留の亡くなった場所が職場や家庭ではなく認定されにくい某ホテル一室であったこと、そのとき不倫の事実も明るみにでてしまったこと(この事実は隠匿されたが)、企業の機密事項の漏洩にからんでいたことが裁判では不利になった。
だが、マスコミのこの表面的な情報の中身には不審な点が多いことも業界での一致した見方だ。その後、貴子の羽振りの良さが目に余るようになっていたからだ。真相は不明だがどこかで事件の情報が操作されていることだけは間違いない。
広嗣の創造だがその出来事の奥には、誰もが知ってはならないバリアが存在していたと感じていた。神田もそう読んでいるに違いなかった。
「しかたないよ。お互い派手にやっちまったからさ・・・」
神田は少しふてくされ気味に言い放つ。いまだに光夫の不自然な死には不快をあらわにしているのだ。それと利道に担がれて早雲との戦いに挑み緒戦では負けていたからだ。今ではすっかり敗戦の将多くを語らずの心境でもある。彼の眼が少し潤んでいるのが仁科の目に入る。仁科もその配下で動いていたので恐縮する毎日なのだ。
当時、緒真留光夫は四十歳を迎えたばかりで神田も同年齢であった。お互い親密な間柄でもあった。神田は北斗の生え抜き社員であるが、光夫は実家が京都の老舗旅館で最大手D社の役員のお気に入りであったことから大学卒業と同時に縁故入社となる。五年でD社をやめ北斗に入った。
仁科は、光夫が生前につかんでいたある重要情報を神田も共有していたという噂をよく耳にしていた。仁科自身も彼らの動きに翻弄される運命にあった。
北斗には制作局の下に二十もの制作室がある。神田は現在第一制作室をとりしきっている。光夫の後を引き継いだCCDということになる。
神田は仁科にとって都下にあるS美大の先輩である。軽はずみに噂を口を出すという雰囲気でもない。というのも、光夫の隠された遺志を鋭く感じるときがあるからである。京都H大の仏文出の光夫は思想的には左翼系に入る。神田は当初彼とはソリが合わなかったが、次第に光夫の破天荒な性格に引かれていったようだ。
一方、妻の貴子は神戸の芦屋で生まれた。名門貿易会社の一人娘で、学生結婚当初は親からの勘当を言い渡されているようだ。
早雲の目に留まったのは北斗の謝恩パーティー招かれた時だ。

・・・・・・・・・・・

二年前の事件の半年前、緒真留光夫はいつものように厭世を装っていた。だが、その眼はいつも獲物をとらえようとする精悍さと不安があった。そのムードは母性本能をくすぐる魅力もあった。夕刻部下のデザイナーと某ホテルで密会していた。
安西朋美の姿態はいやがうえにもホテルマン達の視姦を誘う。彼らは仕事柄お客に対しては誠実を装うが、心の底ではきっと朋美のワンピースからはみ出しそうな胸の谷間に顔を埋めている。ゆっくり歩いても揺れ動く胸のムーブメントは男の欲情にしっかりと威嚇しているのだ。
築地のMホテルの一室ではオレンジの照明が二つのシルエットの交錯を演出している。 朋美は出産して三ヶ月目だ。一年間産休という名目で休職していた。この日復帰したばかりだ。
「ひさしぶりだな・・・」
「知らせなくてごめんね・・・」
「なにが・・・」
「子供のこと」
「・・・・」
「貴子さんまだ気づいてない?」
「わからん。神田だけだ。こうなったら完璧にとぼけるしかないだろう」
「わたしがんばって育てる。私の病院だからだいじょぶ」
「ごめんな。朋・・・」
「もういいのよ・・・」
安西朋美は第一制作室の光夫の下でデザイナーをしていたが、お互いにいつのまにか魔がさしていたのだ。光夫の厭世的なニヒリズムと優しさにひかれた朋美はある意味では常識がないように思われていたが、実によく我を通す。
朋美は仁科にも気を引かれてもいるそぶりを時折光夫に無意識にあらわにする。
不倫出産で女児のシングルマザーとなったわけだが、朋美はいたって気丈だ。子の名は光夫にも知らされていない。安西側も静観している。
田園調布の実家は安西インターナショナルグループの総本山で世界的な総合商社とシンクタンクを構えている。総資産は五百兆円・総売り上げ四十兆円の未来志向型の企業である。独立国家をつくれるほどの潤沢な資金と優秀な人材の宝庫は今に始まったことではない。創業時の情報は不鮮明のままだ。
私立の総合病院と幼稚園から大学院までの学校法人も経営している。多くのITやバイオテクノロジー・宇宙理論の研究機関を世界各地に擁している。
それに独自のハウスエージェンシーも北斗とほぼ同時期に設けている。
創業者は安西龍太郎、八十歳。星加物産の創業者・星加相次郎と安西は旧知の仲だ。
星加にとって龍太郎は戦時中の命の恩人でもある。お互いに頂点に近いところまで登り詰めてくるのには苦労している。相次郎は、水面下で安西の捨て石になるつもりだ。安西は良識派の大物だが、一旦事を構えたらあとには引かない。三国志でいうと曹操の風情だ。乱世の雄を彷彿させる。相次郎はそう自覚している。どこまでもついていくつもりだ。安西は何も言わない。
安西エージェンシーという広告会社は上場はしていないのだが規模的にはD社に匹敵する。表向きの業務内容はとは裏腹に実際の企業活動は実態がつかめていない。二重三重のセキリュティが施されていてマスコミには絶対漏れることはない。広告業は本業ではないといって安西側では深謀的経営によりD社にはかなりの気遣いをしている。広告業界のナンバーワンのポジションもあっさり譲っていたのだ。朋美には生活に一切不安はない。それに話しのわかる一族でもあったが、当然彼らにも世間体もあることだから情報は表ざたにはならない。朋美は光夫に安西ファミリーのことは一切知らせていないが、光夫もいまに思えば軽率の感は拭えない。安西は不気味に静観している。
光夫は異常なフェチ嗜好家では名が通っていた。白鳥銀行の矢島と知りあってからだ。それも常識をこえていた。気に入った女がいれば手当たり次第に手をつける。朋美もそのうちの一人だが、彼らに限れば純愛の情が優先していた。朋美は痩身気味だが準ミス日本にもなった程の美形である。色白で百七十二センチの背丈もあり、女性にしては大きい。特徴を上げれば、極度の胸の発達とチャーミングな瞳だろうか。しっかりした脚線。からだ全体がバランスがとれている。男ならだれでも支配したいとおもうだろう。光夫はひと目で彼女の奴隷に甘んじることになる。 部屋の薄明かりが二人の妖艶な影を壁に映し出す。プルシャンブルーのその影は行為の限りをし尽くしている二人の軌跡を、都会の喧噪のなかに記憶させようとしている。ローズ色のウォーターベッドが激しく揺れ動く。シルエットの形が目まぐるしく交錯する。下からのびた大きな手が騎乗位の朋美の巨大な双丘を掴んだ。二つの丘が交互に光夫の顔面を攻撃する。それに負けまいと光夫の顔面は果てしなく白い乳汁の滴をとらえようとしている。出産後二ヶ月が過ぎて前にも増して乳房が一段と巨大化している。乳首の先端を刺激しながら激しくそれを揺り動かす。オルガムスの限界が始まろうとしていた。朋美の体位の向きが変った。朋美は手をついてうつ伏せになる。その後ろから光夫のからだの中心が激しく前後に往復する。そのまま後ろに移動してまた抱きかかえる。豊かな双丘の先端から壁に向かって甘味のある乳汁が噴水の様に勢いよく飛び散る。光夫はそれをやさしく飲みほぐした。
二時間ものシークレットタイムが過ぎた。 朝もやが部屋を徘徊する。ベルボーイが食事を運んでくる。以前からの顔見知りだ。光夫はチップを渡す。彼らのなかに間者がいないとも限らない。最近は慎重になっている。朋美はそう感じていた。乳汁の香りがまだ部屋の中を歩いている。ベルボーイはうすうす気づいているに違いない。そういう眼をしていた。
朋美は
「次から場所変えましょ」
「そうだな。社長のいきがかかっているからなこのホテルは」
二人は抱擁しながらシャワーを浴びる。
光夫は朋美の流れるような瞳としなやかな情感に好感を抱いている。もちろん女としても愛している。単なる不倫感情を越えている。 光夫はふだんでは厭世的な不良少年だが、吉祥寺の家庭に戻れば模範的な夫の姿に変身する。二人の子供たちにも良き父親だ。妻には時折肩をもみ、掃除洗濯なんのその。
長女の直美と次女絵美の家庭教師役にも余念が無い。まだ二人とも小学生で近所の評判も悪くない。
光夫の多重人格は今に始まったことではない。幼少のころの家庭環境にルーツがある。京都の生家は大きな旅館で兄弟は光夫以外実家を出る。幼少のころ早死にした父と母はかなりの確執があったらしい。残された母とは大学を出るまで一緒に暮らしたがその間でなにかあったのか。後に実母でない事がわかる。少年期の光夫にとってはショックである。 日曜日の朝、神田は最新のMACで企画のサムネイルを作っていた。途中で緒真留からのメールがはいる。
『神田へ。休みのところ悪いな。今日夕方会えるか。吉祥寺の例の喫茶店でまってるよ。バッグも持ってきてくれないか。至急メールたのむ』
「なんだ。携帯に電話すればいいのに」
神田は以前から光夫の不自然な行動に疑問をもっていた。
築地の自宅から出て東京駅で中央線快速にに乗る。吉祥寺の風景は以前と変わらない。「おれと同じか・・・・」
夕刻六時、喫茶ラルフにブラウンのサングラスをかけた光夫があらわれた。いつもの彼とは違う雰囲気に神田は戸惑っていた。
「よっ」
「あぁ」
挨拶嫌いはお互い様のようである。いつもは光夫とは何となく世界情勢の話しからはじまるのが挨拶代わりとなっている。今日は前置きはナシだ。
「コーヒー、ブレンドくれる。
緒真留、おまえ何にする?」
「レスカ」
「今日は急にどうしたんだ」
「わりぃ。とにかくこれを受け取ってくれ」「なんだこれ、カラーチップじゃん」
「あぁ」
カラーチップとは広告のチラシやパンフレットなどを印刷するときに業者に色指定として渡すカラー見本である。
パソコンやTVの色はRGBカラー(加法混色)といわれる。
R(赤)・G(緑)・B(青)は自然の色に近い。ホームページでみる色も同じだ。
それに対して印刷物の色はCMYKカラー(減法混色)の表示となる。
シアンC(青)・マゼンタM(赤)・イエローY(黄)・ブラックK(黒)のインクを数値で掛け合わせる。自然の色に限りなくマッチさせる疑似色のことである。例えば、原色のグリーンを印刷する場合シアンC100%とイエローY100%を掛け合わせると自動的にインクが調整する。ゆえにCMYKカラー色はRGB色に近づこうとする。
ここ十年の間に広告の制作や出版関係は、DTP(いわゆるディスクトッププリンティング)という完全デジタル環境へと移行している。実際、コンペ。プレゼン、印刷物全般、ホームページ、ネット広告などはMACやWINDOWS等のパソコンでの制作が前提でないと話しが進まない。高齢の広告制作者にとってはパソコンが使えないと相手にされない時代になっている。もうしばらくするとデジタルの慢性化が顕著になり、ITは当たり前の時代がくる。そして、しなやかな感性は再びきっと自然や人間回帰を求めるようになる。分かり切ったことだ。神田や仁科はそう思っていた。
光夫は喫茶店に入った途端誰かの影を感じていた。相当防衛心が働いたらしい。
分厚い何百枚のカラーチップの束にCD│ROMが挟まっている。
「なにこれ。なんか挟まってるぞ。緒真留、どういうことだ・・・」
「帰ったら後で開いてみてくれ」
「・・・・・・・」
「あの国は何で景気がいいんだろな。きっと日本の国家予算程の金を借りてるからだろうな。湾岸以来日本をうまく利用してる」
光夫の近頃のナショナリズムへの傾斜に神田はとまどっていた。
「おまえ、おかしいぞ。ここんとこ。ちょっとふてくされ気味だぜ。どうした」
このとき光夫の胸中は、だれも知るべくもない。話題をしきりに変えたいらしい。
「いつもじゃん」
「そうじゃなくってさ。なに隠してる。ヤバそうなことか・・・・・」
「なにも隠してないよ。
帰ってから、みればわかるさ」
「そうか・・・・」
神田はそれ以上聞くのをやめた。そのときふと何かの視線を感じていたからだ。光夫の額から大粒の汗が流れていた。神田は何となくかれが相づちを打っているのがわかった。光夫の持ってきた物を袋にそっと入れ、別のバッグにしまう。休日だというのに狭い店内は混みあっている。二人は近くの井の頭公園のベンチへ足を向けた。
「ここならいいか」
「そうこなくっちゃ。その前におまえにひとつ聞いときたいことがあるんだ」
「なんだ」
「朋ちゃんのことだ。奥さんまだ気付いてないんだろうな。仁科も心配してたぜ」
「あいつも・・・か。おまえ次第だな」
「それはないだろう。信用しろよ」
「じゃ。だいじょぶだろう」
「おれの女房。早苗ってんだが、おやじの寿司、手伝ってるだろ。最近客にD社のやつが多いらしい。そこでおまえの噂が出てきてるというんだ。なんの話かわからん。そういえば、おまえ最初そこにいたんだっけな」
「・・・・・・・」
「最近会ってないけど、貴子さん、いい奥さんじゃねぇか。何が不満だ。子供もかわいいし。うちにはもう種がないからなぁ」
「神田・・・・・」
「緒真留、どうした」
「朋のことはちゃんと考えているさ」
「それはわかってるさ。おれの幼なじみで、江川ってのがいるだろ。とんでもないやつ。ほら、俺の寿司屋でおまえに喧嘩売ったやつだよ・・・・・」
「ああ、たしかそうだったな」
「以前、おまえが奥さんのこと調べて欲しいと言ってただろ。あいつ、ほんとの事いうと興信所を兼ねた法律事務所にいるんだ。それで引き受けてもらったよ。調査費は立て替えておくからあとで頼むと言ってたぜ」
「わかった。で、めぼしは・・・・」
光夫はすでに、貴子のことは以前すでに知っていたふしがある。自分の残された時間もだ。
「まだだ。相手のガードが堅すぎるそうだ」「そっか。よろしくたのむ」
「わかった。でも高くつくぞ」
話しが本題にもどった。
「さっきの件の話しだが・・・・」
「そうだったな」
「さ、聞こうか」
「ごめん・・・・やっぱりうちでみてくれ」「やはり光夫のようすが変だ。
「・・・・・」
はっきりしない光夫に神田は腑に落ちないようすだ。
(ったく。あいついったい何考えてんだろ。そうだ、仁科にみてもらおう)
神田は徹底したアナログ志向の制作マンである。メールの事は一応許容範囲らしいが。パソコンをバカにしているというか相手にしてないというか、とにかくその場その場の感性を大切にする。一見ガサツに見えるが、それとは裏腹にナイーブな創造力と統率力には非凡なものがある。業界の中では仁科と同様一目置かれている。現に、二人はA新聞社の広告賞のノミネートには常連客でもある。
仁科が神田に気に入られている理由は言わなくてもわかるだろう。仁科が容赦しない物事への対応力と豊かな感受性をもち自分にはないフレキシブルな世界観を持っていることだ。神田の羨む心を派生させていたことは確かである。広嗣のやさしいまなざしが突然標的をとらえたライオンの様な目つきになる。しかも顔立ちは眼をいくぶん大きくした坂本龍馬にも一見似ている。神田と緒真留を足して二で割ったようなものだろうか。社内はもちろん業界にも彼の純粋愛志向にはファンも多いようだ。趣味でエッセーの本を出したばかりだが、二十万部は売れていた。とにかく年上である神田や緒真留の目からみても認めざるを得ない。このときは光夫とは蜜月を迎えていた安西朋美も、以前から仁科には好意を持っていたふしがある。お互い出会ったタイミングの違いもあるが、しかし、男女の状況は複雑で奥が深すぎる。この先どうなるのかは誰にもわからないものだ。運命とはそういうものだ。
仁科はその店で、神田を携帯で呼び出したが受信不能で所在地がわからない。メールにも一応伝言しておいたが。
(先輩どこ行ってるんだろ。あした事務所に来たら大変だというのに)
その日の市ケ谷駅の夕暮れ時。なぜか私服姿の女子中学生たちが回りを占拠している。親子と入学式と思われる光景が仁科の目にとまった。小学校一年時から目標にされる程のプロテスタント系の人気校だ。中学入試の競争が激しいので六年間塾通いの子もいる。一点差を争うハイレベルな少女バトルなのだ。 明治の初期にキリスト教長老派の米国人女性によって創設された日本風アメリカン・スクールだ。真新しい校章バッジもしている。化粧や服装・持ち物はすべて自由で生徒たちの自主性を強く重んじている校風のようでもある。実際は着のみ着のままの普段着で地味な服装だ。高校生ともなれば大学生並みの着こなしを好む。少女たちは別の意味でのエリート意識が強い。男勝りの乙女達は他校の男子学生に敬遠されがちだ。ディベートをやれば必ず少女たちに負かされるからだ。男は相手にしないと見られてはいるが、少女たちは内心優しい子が多い。携帯電話や学生らしくないものは自発的に所持していない。
大半は東大や六大学に進学するが中には六年後にNGOやボランティア関係の仕事につく子もいる。徹底した聖書教育の影響もあるからだろう。パンフの内容で分かる。仁科の妹の友人もそこのOGなので妙に親近感が湧いてくる。
仁科は最近、エッセーの本も出している。麹町で実家が書店をやっているので店内のお客はだいたい顔なじみだ。何組かの親子に軽く会釈を交わされる。

神田は吉祥寺から自宅に戻っていた。
「親父、ちょっと握ってくんねえか」
「春じゃねえか。今日はネタが高えぞ」
「上等じゃねえか。身体で払うからさ」
「ってやんでぇ。そんな汚ねぇもん、こっちから願い下げだよ。ま、とにかく喰え。
今日は顔色よくねえな。どうした・・・」
「ああ、そうみえるか。風邪かもね」
「病院なんかいったって直んねえぞ。みてみろ。おれなんか生まれてから行ったことなんかねぇからな。ま、とにかく養生養生」
カラ元気でもいつもにぎやかな父である。「ごちそう」
「はやく休め」
春雄は二階の書斎にもどる。光夫から受け取ったファイルはまだ開ける気持ちにはならない。以前江川準から入った情報をまとめた極秘ノートを手にしている。早雲に関するものだ。
(・貴子と社長瀬川早雲との不倫関係。
三年は続いているらしい。愛人が五人。 ・北斗と星加物産との組織的なバックマー  ジンルートシステムの存在。
政官界との贈収賄相関図。
・TV視聴率のデータ改ざんと間引き。
・北斗の制作部門の再考。)
直感だが春雄はこのほかにもまだあるような気がしていた。江川にみせてもらった報告書のなかに気になる黒塗りの箇所が何行かあったが。江川はどういうわけか明かそうとはしない。これよりすごいものがあると江川が顔をこわばらせていたことを神田は思い返した。江川が知っている事をすでに光夫は掴んでいたと睨んでいる。神田は初めのうちは貴子の素行を光夫から極秘に依頼されただけなのだが、なぜか瀬川早雲に辿り着いたところから知ってはいけないことまで知ることになってしまったようだ。まいったな。今はどうすればいいのか右往左往している自分に無力を感じる神田であった。とにかく仁科に相談しよう。あいつなら・・・。光夫にもはっきり聞けば分かることだ。
いつものようにMACのノートパソコンに電源を入れた。最新OSのヴァージョンアップをしたばかりだ。
メールの送受信を確かめる。
仁科からの連絡であった。なんだろう。
送り返す。
『Re:
仁科、なんだ。何があった。至急メール送信されたし』
もっとましな受け答えができないものかと神田は苦笑する。メールソフトにエラーがでる。ストレスが溜まる。携帯にも電波が届かないところにいるようようだ。しばらく、スコッチのロックで咽を潤す。シャワーを浴びた後、再びMACに電源を入れた。メールが三通。仁科からのではなかった。メールマガジンのサービス送信だ。(しょうがない。あす聞くか)

顔がこわばっている光夫は神田が怒って帰っていったことは自分でも悪いと感じてはいた。
『これでいいさ・・・』
これ以上神田に迷惑はかけるわけにはいかないと自戒している。
それにしても妻貴子の放蕩には光夫も疲れ切っていた。光夫も言える立場ではないが大学の同窓会と言ってはいたが本当かどうか。直美も絵美も心配してるというのに。
「パパ、ママはいつ帰ってくるの?」
「今日は遅くなるよ、たぶん・・・」
といいながら光夫は社内での噂と他の代理店での妻の浮き名が気になっていた。夜になっても帰ってこない。
「ファミレスでも行くか」
子供たちもその方が少しはましだと笑い飛ばす。
その時貴子は銀座七丁目の第八ホテルのロビーでくつろいでいた。大きめのサングラスに花柄のドレスをまとっている。早雲に逢うのも何ヶ月ぶりか。あれからもう、三年になる。
カウンターとは顔見知りである。暗黙の了解が部屋の鍵に乗り移る。貴子はいくぶんほっとする。すこしは後ろめたさの良心がのこってはいたがもう遅かった。ここまできたからには、進むしかない。
貴子を虜にする早雲の魅力はどこにあるのだろうか。自問自答しながら思い巡らせていた。あの七十五歳にしては信じられないほどのあの肉体。華麗なテクニック。やさしいささやき。経済力。野心。他の女たちも彼に引かれるのもわからないではない。
光夫とのセックスレスも絵美の出産以来続いている。早雲には五十代のころ先代夫人を病気で亡くしている。いまでは貴子を含め五人の女が取り囲む。間にもうけた子は十人にも上る。生活や愛情はこれまで平等を通してきているようだった。貴子と関係を持つまではそうであった。
あれ以来、他の四人の女達の結束が堅くなったようだ。バランスが崩れたのだ。遺産相続への彼女たちの思惑がジェラシーで埋め尽くされている。貴子にはそう思えた。
屋上のスイートルームに入った。貴子と早雲専用の部屋だ。だれも入れない。およそ百坪はあるだろう。四十畳のリビング。部屋は五室ある。大理石仕様のバスルーム。十畳はある。貴子のいない時は金髪の若い美女がよく来るようだ。モデルらしい。名はあえて聞かないことにしている。包容力のある女とみられたいからだ。だが、今日は早雲といっしょにくるらしい。それで、貴子はくるときから妙に落ち着かなかったのである。
コッコッとノックの音がする。
早雲と女があらわれた。彼女も事のいきさつを知っているらしく日本語もうまい。身元は早雲しか知らない。
早雲は派手な旅行客の変装をしていた。五十歳代にはみえる。光夫も案外変っていたが格がちがう。年がいもなくちゃめっ気があてしかもダンディーとくる。見かけはいい。たしかにもてるわけだ。
「ハウ ドゥユドゥ。ナイスミーチュー。
ハジメマシテ」
「しばらくだったな」
「ええ。そうね」
早雲には貴子の控えめな清楚さがいたって気に入っていた。男の欲情をそそるのだ。
「ワタシ、リンダ・クラーク。
ヨロシクネ」
「貴子です」
名前しかいえない事情もある。
元大学講師ののリンダはハーバード出のインテリである。いまは高級クラブでダンサーをしているらしい。なぜこのようなところにいるか貴子には理解できない。早雲にはなぜか彼女のいいなりになるところがある。わけがありそうだ。早雲と同じ百八十センチ丈のグラマラスな肢体は貴子の比ではない。
貴子とリンダは早雲の差し出したジンフィーズを飲みほした。気がつくとリンダの眩しい肢体は、腰のくびきまで伸びた金髪といっしょに貴子の身体をしっかりと突いていた。貴子の身体の中がとろけだしてくる。二人の眼の奥底から炎がともった。意識がぼやけている。リンダと貴子は激しく目配せをする。 早雲はさきにシャワーを浴びて大型のをウォーターベッドで横になり遠くの海を眺めている。リンダは貴子のドレスをはぎ取る。貴子のジョーンブリアンの肌は三十代半ばにしては若い。脚線美はリンダのしなやかさとは違う存在感があった。白と薄桃色の裸体が交錯している。
リンダはその薬には、かなりなれているようだった。
「ビヤクヨ」
「媚薬?」
「ソウ」
二人でシャワー室にはいった。
「おねがい、ゆるして」
「ダイジョブ。ダイジョブヨ タカコ」
リンダも貴子も理性はすでになかった。貴子は思いきりリンダの胸を揉みしだいた。マシュマロのような感覚。リンダは貴子の中心に指を構えた。貴子の張りつめた柔らかな声がリンダをつつむ。広いバスルームで二人は横になった。気持ちの良いシャワーが四方から祝福している。
早雲は二人の餌食になっていた。両手と両足をヒモで縛られた。早雲が望んだことだったのだ。貴子は今何をしようとしているのかわからない。普通の自分にはもどれない。いやこれが普通の自分なのかもと言えなくはない。不安だった。
「オーッ」
早雲の悲鳴がとどろく。リンダのムチが大男の胸板を急襲した。そして、腕や足。モニュメントはその都度大きく揺れ影を誘う。
リンダのサディズムは増幅している。早雲のマゾヒズムも加速している。貴子は早雲の弱い一面をみて安心している自分が怖くなっていた。
ものすごい音がルームにひびきわたる。
早雲は失神状態にいた。そのモニュメントは見事な超高層ビルの高さを誇示している。 合体は突然リンダの郷愁を誘った。じっとそれを見つめながら生まれ故郷の摩天楼の街並みを思い出している。二十歳の頃のフィアンセとの突然の別れがそうさせているのか。いまでもあの湾岸戦争への憎悪がそうさせるのか。なぜ志願したの・・・・マイケルとの死別がリンダの未来をすっかり変えてしまっていたのだ。熱気が広いルームの隅々までゆきわたる。それぞれの肌の色が美しい。リンダのパール色の肢体と腰のくびきまで伸びた金髪。貴子の淡い薄桃色の肌。くり色の髪。大男の小麦色のたくましい身体とモニュメント。リンダの胸が貴子の恥丘と背中を駆け巡る。美しい日本人女性へのコンプレックスがリンダを襲った。ときおり解き放たれる高貴な香りがたまらないのだ。貴子はリンダに逆襲する。早雲のモニュメントによじ登り身体の真ん中にそれを迎えた。リンダが倒そうとしても反動で元どおりになる。もう一度というのでしかたなく貴子はポジションを譲る。早雲はこの二人の天使たちのいたずらには平気のようであった。過激な老人の力は度を越えている。
いつの間にか朝になり、貴子はリンダがいないことに気がついた。正気にもどったようだ。わけは分からないが、去っていったようだ。早雲を問い詰めるのはよすことにした。 早雲が起きた。
「あーっよく寝た。君、起きてたのか」
「ええ」
「こんどはごめんな。リンダもしつこくってね。あやまる」
「いいのよ。わたしこそ。自分のこといつの間にか・・・・・・」
貴子は少し気弱になった早雲を徐々に愛し始めていた。光夫とは全然ちがう男の色気と野心と。
「それでいいんだよ。ガマンすることはないんだ」
早雲は貴子をやさしく抱擁した。
「貴子。大事にするよ」
「早雲さん・・・・」
二人はシャワーを浴びて着替えた。
ボーイが運んできた食事をしながら大男は話をつづけた。
「ところで。大事な話があるんだ」
ビジネスの世界の精悍な顔つきになった。「君のだんながいろいろと調べてるらしいが何か知っているか・・・・」
「何を調べてるのかしら」
「こちらも逆に調査しているんだが、娘婿が調査部門を私物化してるもんだからなかなか応じてくれないんだ」
「早雲さんでもだめですか」
「実は知られては困ることがあるんだ。貴子にはなんでも言える。不思議だな。いままでこんな事はなかったのに。前の家内にもな。それで、君には悪かったが、私の他の女達に協力してもらっている。私には信頼できるものがいない。久保も秋沢も拾ってもらった恩を最近忘れかけている。あいつらも最近、物忘れがはげしいときてる。それにだ、彼らはもう年には勝てそうもない。近々引退してもらうつもりだ。もう頼れるのは矢島だけだ。どうだ、ひとつ助けてくれないか。社運がかかっているんだ。多額の負債もあるし。なにかれと逢って話を聞きだしてもらうだけでいいんだ。彼はパスワードの全てを握っている男だ。副社長のデータの事も知っているかも知れない。先手を打てる。彼も情報通のひとりだからね。なに、心配することはない。少し変わったところがあるが、君には指一本触れさせはしない。意外と彼は紳士だ・・・」 早雲はこの一年前矢島と大内を通してセブン・センスと突然業務提携をしている。その時から彼はリンダ・クラークと意気投合してしまう。それと内密で会長から資金の提供を受けている。何に使ったかは分からない。
セブン・センスは水面下で米国政府首脳から安西関係の情報を求められていた時期と重なる。
早雲の多額の負債は五大銀行のひとつである白鳥銀行からの約一千億円のことである。 セブン・センスからは百億円だ。
頭取の矢島幸三とは旧友ということで無担保で借りたらしい。その資金の流れは依然不明だ。星加が介在しているという雑誌社のスクープもある。状況証拠しかないが。ワンマン体質であるがゆえに社の経理操作も把握しているはずであったがいつの間にか側近が勝手に取り仕切っている。
早雲は意外と誠実な男らしい。清き川では魚はいきていけない。それまで汚れ役は早雲の持ち味であると政界や官庁の間では定評があったことは事実だ。絶対情報が漏れなかったからである。はたして、だれと手を組んでやっているのか、その対策費にでも使ったのか、調整費として使われたのか、国外で使われたのかはわからない。
早雲の心配の種はつきない。側近の久保が管理している極秘ファイルを何者かに漏らしていたからだ。それもトップ・シークレットだ。矢島は全てを把握しているが絶対流れることはない。幸い第三者は三重のパスワードを知らないと開示できないようになっているのでそう簡単には見ることはできない。
緒真留光夫に何かあると直感した早雲は、四人の愛人に私的な捜査を依頼していた。もちろん極秘にだ。そのチーフ役に結城美穂子という女がいる。早雲にとっては半信半疑の秘書だ。神田春男や仁科広嗣、そして黒幕の首謀者ともいえる早雲の娘婿である瀬川利道がターゲットに入っていた。
「私に何が・・・・・」
「無理とはいわないよ。出来る範囲でいい。とにかく会ってくれ。矢島にあるものを貰ってきて欲しい。重要書類だ・・・」
早雲の困り果てた様子は貴子の小脳を刺激する。どうしてだろうと探るがどうしようもないのだ。
「しばらく考えさせて」
「頼りにしてるよ」
「ところで・・・・。これまでに集めた情報によると光夫君もう危ないらしい。あと六ヶ月だそうだ。そっちの方も、そろそろ考えて欲しい。君のためにも。いや私のためでもあるが。君にはすべて譲るつもりだ。子供たちにも。いまからこんなことを言っては人間が疑われるかもしれんが、その時は、ひとつ芝居をうってくれ」
「・・・・・・・」
貴子は押し黙っている。
「すまん」
「いえ、いいのよ。ほんとのこというと私の気持ちは決まっているから」
「そうか」
しばらく静寂の時が流れた。
「私、もう帰らないと・・・・」
「車を手配しよう。私も社に戻らないと。これから全社員に言わなきゃならんことがあるものだから」
貴子と早雲は目立たないように、別々にホテルをあとにした。
朝陽と心地よい春風が銀座通りを我先にと闊歩する。
神田は光夫から前日受け取ったファイルをノートブックパソコンと一緒にバッグにいれ家を出る。早く仁科に開けてもらうためだ。だが、社内では見ないほうがいいだろう。危険も感じている。緒真留は今日は、来ないだろう。コンペをとったので札幌でプレゼンがあるからだ。戻るのは二、三日後になる。あと副社長の利道からの知らせもある。
「ちょぉっす・・・・」
「先輩、昨日はどうしました?全然つかまらない。まいりましたよ」
「わりぃ、わりぃ」
「先輩、掲示板見ましたか?」
「いや・・・一体どうしたんだ?」
掲示板にはA2大の凝ったレイアウトで、早雲からの知らせであった。

「全社員に告ぐ。
近々我社の組織及び人員構成を 左記の様に全面的に見直す事とする。
一、社長室直轄の下に新たに次の組織を設   けることとする
●特別秘書室
●特別調査室
●特別財務室
●特別営業統括室
●特別人材採用室
二、子会社の北斗物産を社長室の直属とす   る。また、その配下に四社を創設する 三、次の関連会社を本社から独立させるこ   ととする。
●北斗メデイア
●北斗プリンティング
●北斗アドテック
●北斗企画
●北斗出版
●北斗総研
四、現在の一から二十制作室を全面的に廃   止する。
ディレクタールームを設け各二人まで   の制作管理者をおくこととする。よっ   て、その他のクリエイターは全て北斗   アドテックに移行し嘱託扱いとする。   また、
支店の制作者も嘱託とする。
右記の理由により営業の外部への制作   依頼を直接業務とする。
五、総務部、経理部、管理部は廃止する
六、左記に示す国内、国外の支店を社長室   直轄とする。
●ニューヨーク支社
●シドニー支社
●パリ支社
●札幌支社
●仙台支社
●鎌倉支社
●新潟支社
●名古屋支社
●大阪支社
●広島支社
●九州支社
●沖縄支社
なお、詳細については後日諸君に通知する              以上
代表取締役会長兼社長 瀬川早雲」
ロビーがざわついている。
「どういうことだ・・・・」
神田と仁科はあんぐりと口を開けたまま制作室にはいる。瀬川利道副社長は知っているのだろうか。
仁科に予感が走った。
ロビーでのざわめきがだんだんと強くなってくる。
「やっぱり江川の言ってたとおりだ・・・」「わたしにはさっぱり・・・」
みんなの声が胸に詰まる。
確かに布石は以前からあったような気がしている。広嗣はそう感じていた。神田もそうだろう。光夫はプレゼンで北海道にいっているがどう思っているだろうか。
他の制作ルームのクリエーターたちもなにがなんだか分からず、気がめいっている。
制作担当者のほとんどが本社から消えることになるからだ。彼らは一年単位での契約社員で年俸制である。これまでは成績が悪くても契約が毎年自動的に更新されていた。正社員は一割程である。光夫、神田、仁科、朋美たちは複数年での契約社員で、立場があいまいであった。北斗の制作マンたちは全て弱い立場にある。何かあったら副社長の利道に取り入るしか道はない。
だが例外的に縁故やクライアント紹介の社員は契約であっても社長は絶対手が出すことはできない広告屋の掟があった。広告主をつなぎ止めておくための極めてオーソドックスな方策だ。電波媒体のほとんどを握っているD社では創業以来完璧な極秘のマニュアルが存在する。徹底した広告主からの縁故採用なのだ。官・民は問わない。人事担当者たちは水面下では縁故の中でもいくつものグレード別に分けている。ABCDEFGHI部類といった具合だ。最高位Aの部類はやはり現政権での与党大物クラスの子息や令嬢。次のBの部類は大広告主の経営者の親族。また、各部類の中でもさらに細分化されている。北斗広告社では、まだそこまでの柔軟性はない。経営状態の悪化でそれどころではなくなってきていたのだ。だが、今度の早雲の緊急発表には事情がありそうであった。
噂によると今回の騒動の原因は早雲自身の多額な累積債務があるが、メインバンクの白鳥銀行では会長の矢島が他の役員を押さえ込んでいる。星加がバックにいる以上は、資金的に倒産はありえない。しかし他の銀行は厳しく取り立てを迫っていた。各政治団体や官庁からの膨大な裏献金の依頼の多さからもある程度は経営への圧迫は推察することはできる。また、広告主の北斗から他の代理店への鞍替えが顕著に進んでいることも事実だ。その歯止めは当分かかりそうもない。
裏経済社会の躍動性はとらえどころのない世界といわれている。国家経済に匹敵するアングラマネーの存在とその実態を眼にしたものならば世の中の良識や常識ははすべて消滅するだろう。九十年代前後のバブル社会ではだれもが不動産投資や株式投資などのマネーゲームに目を奪われていた。ひた向きで地道な考え方は確かに忘れ去られていたような気もする。二十世紀の最後の十年間は貴重な好機でもあったのだが、結局だれもが活かせないまま新世紀を迎えてしまっていた。

二 シークレットファイル

「とにかく、詳しい情報がいるな」
「副社長から家にメールとどいてました」
「よし、あとで返事を出そう。緒真留が戻ったらいつものところに行くって返事を出しておいてくれ。ただし会社のメールはだめだ。サーバに記憶されたらまずいからな」
「わかりました」
夕方になった。外注プロダクション社長の桑田信二がモデルルームのDVDビデオを納入する。少し笑みを浮かべている。
「どうです。コンペは取れてます?パイの奪い合いだからこれから代理店さんも大変だよね。景気も悪いし。他の業界みたいに談合できないから大変だよね。ワークシェアリングでもしないと・・・・・」
神田は以前から桑田とは生理的にあわないようだ。いつもの高慢な態度とふるまいは早雲の後ろ盾があるからなのか。
「ま、社長によろしく・・・」
神田はいつになく無言だった。
仁科がかわりに礼をいう。
「桑田さんどうもね。助かったよ。
今度呑みにいこうや」
桑田は仁科にたいしては神田とは明らかにちがう態度を装う。
桑田も苦笑しながら手を振った。
「先輩どうしたんすか?」
「いや、なにも・・・」
「とにかくメシにでもいきましょ」
二人は五丁目のビアレストランに向かった。銀座界隈も夕刻にもなると真昼の光景とは全く違うものへと変貌する。高級クラブのママたちや上品な香水を風に乗せて闊歩する夜の聖女たち、そしてこの街を盛り上げるおびただしい大人のサロン群が主役となる。
仁科はいつの間にかこのナルシズムな喧噪感とストイックなたたずまいが好きになっていた。
人々を引きつける賑やかなこの街の雰囲気は長閑な番町界隈とは一線を画している。
二人は食事を終えた後神田の家に向かう。仁科は光夫から受け取ったデータファイルを開くことにした。CD—ROMに入っているPDFファイルを直接開いてみる。閲覧ソフトを起動してそのアイコンをダブルクリックしてみた。
PDFというのは。パソコンの機種やOS・アプリケーションソフトの違いやフォントの違に関係なく電子的なファイルとして行き来ができる画期的なクロスプラットフォームのデータファイルのことだ。ポータブル・ドキュメント・フォーマットの略である。
アイコンをクリックしたあと、パスワードを要求してきた。
「先輩、パスワードは?」
「ぱ、ぱすわーど?」
「やだな、パスワードですよ」
「・・・・そんなこと、緒真留はなんともいってなかったぞ・・・」
「ないんだ・・・・」
「ダメか?」
「じゃぁ、ちゃんと明日聞いておいてくださいよ。今日私が一応預かっていきますから。家でちょっと考えてみます」
「わるいな・・・・」
仁科は銀座一丁目駅から有楽町線で自宅へ向かった。何人かの女の視線が気になる。無意識にバッグを電車の上の棚に置く。ほんの少しの間眠ってしまったようだ。地下鉄のアナウンスで目を覚ます。麹町に着いた。かなり疲れているような気もする。
さっそく降りようとして、上のバッグを取ろうとした時にはすでに感触がない。
仁科は焦った。
「まさか・・・」
その、まさかだ。置き引きにあったのだ。うかつだった。
(神田さんに何て言おう。コピーしておけばよかったのに)
すでに遅い。
仁科は駅で紛失届を出しておいたが、おそらくもうだめだろうとあきらめる。
ぼう然とした仁科は市ケ谷の駅の回りでうろたえていた。
翌日の朝、仁科は事務所に行くのをためらっていた。そんな状態では行けるわけがなかったからだ。朝刊をエントランスまで取りに行ったとき、見知らぬ三十代半ばくらいの女が立っていた。仁科とは、以前面識があったような会釈をする。意外と上品な女だ。笑みを浮かべながら近寄ってくる。ラベンダーの香水の香りが仁科を包む。
「あの・・・・・」
「はい」
「仁科さんでしょうか?」
「そうですが」
「このバッグ、おたくの?」
「あっ」
「改札の近くの路上で落ちていたので。悪いとは思ったんですが、持ち主のお名前が分からなかったので中を開けさせていただきました。手帳にお名前と住所があったので直接お届けしようと思って・・・・」
「ありがとう」
仁科はワラにもすがる思いで前日から一夜を過ごしていたのだ。バッグを覗く。
「あっ・・」(CD│ROMがない・・・)「どうしました?」
「・・・・・・・」
仁科の目の前がまた暗くなった。
「なにか・・・・」
「いや。別に。だいじょぶ・・・・」
「よかった・・・・でも、あなたのこと知ってるわよ。最近エッセイの本出したでしょ。写真も載ってたし。わたし、ファンなのよ」「そうですか・・・それはどうも」
仁科はファイルの事がずっと気になって気になって足が地に着かない。
(しょうがない。先輩にあやまろうか。
言うしかないか、やっぱり。)
仁科は腹をくくった。ただ、その女には礼はしないといけない。
「今度、あなたにお礼といっては何ですが、どこかでお食事いかがですか?」
「いえ、そんなのいいんですのよ」
「でも・・・」
社交辞令的なものの言い方は相手を硬化させるものだ。
「・・・・・・・・・」
「ご迷惑だったらいいんです」
「そうですか。私はそんなつもりでは。でも携帯の番号だけお教えしておきますわ」
「すみません・・・・」
このとき、仁科はこの女が後にある事件のキャスティングボートを握っているとは夢にも思っていない。

仁科は翌日早めに出社した。
神田はファイルについて何か聞いて来るだろう。なぜか気持ちが落ち着かない。
(どうしたものかな。やっぱりうそはつけないし・・・・)
緒真留が北海道から予定を切り上げて来ているらしかった。
(さっきの女どこかで見たような。でも、思い出せない。気のせいかも知れないしな)
神田が叫んでいた。九時を回っていた。
「仁科。光夫が・・・・・・」
救急車が到着している。光夫が運ばれているところだ。
「仁科くん・・・・」
「どうした?朋ちゃん」
「光夫さんが、急に叫んで倒れたのよ」
朋美が思いきり仁科にすがる。柔らかな優しい胸の隆起が仁科の背中と合体する。あのあまりにも目立つ肢体。もっと目立たない様に着こなしを工夫すればいいのに・・・・と何気なく朋美の事を勝手に心配している。
「なに、だいじょぶさ。意識はあるんだろ」「うん」
神田が息を切らせて駆け寄ってきた。
「仁科、頼みがある。明日、悪いがおれの代理で星加のプレゼン出てくれないか。なに、ただ顔をだせばいいだけなんだよ。御膳立てはしてある。適当にうなづいてくれればいいんだよ。彼らとは十分打ち合わせはやってあるから・・・」
「はあ、でも・・・・コンセプトと企画案には一応眼を通さないと・・・・・」
「わかった。資料は机の上に置いてある。たのむよ。おまえなら出来るさ。俺、これから緒真留の様子見に行くから。親父の具合もよくないし。」
(仁科、出来レースで取ったコンペだから今日のプレゼンはすこし我慢すればなんということはないんだ。心配すんな)
神田は明らかに自分が風邪で体調が良くないのを隠していた。イレギュラーで事を構えるのはCDとしての腕の見せ所だ、と良いほうに判断すればそうともとれる。いい機会でもある。もちろん神田は仮病ではないが。
仁科は神田の代理では荷が重いと思ったがCDになったプライドもある。腹をすえて引き受けることにした。
「わかりました。緒真留先輩にもよろしく」 神田は例のPDFファイルどころではないらしい。
聖路加病院でようやく意識が戻った光夫は担当医がいる安西大学病院に移される。貴子も神田から知らせをうけて病院へ向かう。
神田はここ何日風邪をこじらせたらしい。とりあえず光夫が心配なので急ぎタクシーで安西大学病院に向かう。
(すげぇ病院だな)
病院の受付ロビーはかなり混雑している。病棟まではかなり歩く。
(おれも見てもらおうかな。看護婦さんも奇麗だし・・・)
神田は思わず鼻の下が長くなる。
やっと、光夫の病室に入る。落ち込んでいる様子だ。
「よっ」
「神田か・・・・」
「もういいのか?」
「あぁ・・・たぶんな。」
「相変わらずだな」
「そう言うなよ。でもありがとうな、来てくれて。でもお前も具合よくなさそうじゃん。汗かいて・・・。可愛い子多いよ。また増えたみたいだ。観てもらえよ」
「じゃ、行ってくるか・・・・」
「ま、それはそうと副社長なんか言ってなかったか?」
「仁科がメール受け取ってるらしいが」
「聞いといてくれないか・・・」
「わかった」
「あいつおまえの代理でだいじょぶなのか?CDになってもまだ日が浅いし、別の奴に替えたら。それにまだ未知の部分が多すぎる。我が強すぎて危険じゃねぇか」
「あぁ。それは心配ない」
「心配ないって・・・・おまえ・・・・
まさか今回もあの手か・・・・」
「そうさ。おまえも人のこといえねぇだろ。だれが出ても同じさ」
「同じだな。確かに・・・・」
「仁科もそれなりに考えるさ。プライドはかなり傷つくだろうけどな。問題は仁科がその後どう対処するかだ。あいつを試す意味でも今回はいいチャンスかも知れんしな」
「あぁ、そうかもな・・・・・」
二人の間に虚無感が漂う。
しばらく、世界情勢について意見が飛び交う。一時間が過ぎた。
「・・・しかし。そこまでやるとはな。そこと社長とは長い付きあいだし株も持ってるしなぁ。俺たちは飼い犬と同じってわけか」
「神田、他のルーム長たちはまだ気づいてねぇだろうな・・・」
「そう、思いたいな・・・」
「副社長の出方次第ってとこかな。おれも早いとこ、ここからずらからなくっちゃ。おそらく今度、例のところでおち逢うと思うが」「そうだな。あっ、仁科も連れてくぞ」
「仁科か。まっ、いいだろ」
「だいじょぶだって・・・」
「・・・・・・・・」
光夫はこのころ猜疑心がピークに達していた。何かの影におびえていたふしがある。
神田は光夫と話す時間が増えていくにつれ仁科の事が気になり始めていた。光夫には心配ないとはいったが、事前に綿密な打合せもしていないし、神田のなかには後ろめたさもつのってくる。適当な言い訳がとっさに出てくる必要があった。
「そろそろ、おれ、おやじの具合が良くないから帰る」
「そうか・・・ありがとうな」
神田が足早に帰ろうとしたとき、貴子が入ってきた。
「神田さんわざわざありがとう」
神田は彼女がしらないうちに変身しているのを感じた。
貴子は最近光夫への気持ちが希薄になり、自分への懐疑心すら存在していないことに気がついていた。あるのは諦念の空気だけである。担当医から光夫はあと半年と言われていたが本人には告知はするなといわれている。 本人はうすうす気づいているはずだ。脳の奥に腫瘍があり全身に転移し始めているというのだ。彼女だけしかしらない早雲との不倫愛。あの得体のしれない前夜のできごとは日頃の平常心も、すっかり受け入れてくれている。記憶が身体も身も心地よく支配しているのだろう。
光夫には、自分の気持ちを伝えるにはあまりにもタイミングが悪い。まだ、どこかで、ピュアな自分と自虐的な自分が引っ張りあっている。美しい打算は当然貴子の生き甲斐でもあった。将来への子供たちへの不安がそれを増幅させていたのかもしれない。もう少し待って時期がきたら間髪を入れずに打ち明ける腹積もりなのだ。それに、現実的に社交辞令的な夫婦生活の存在も軽視できなくなっていたからだ。貴子もこれからは偽善的な自分とは決別するつもりでいる。
光夫には、適当にいつものことばをまき散らす作業を繰り返す。
「光夫、だいじょぶ。すぐ良くなるから、しばらくはゆっくりしたほうがいいって」
「そうする」
光夫と貴子は互いに眼は極力まっすぐと合わせないことにしている。いつ自分の良心に叱責の嵐がやってくるか怖いからだ。二人は五度程視線を別の方向にずらしている。よそよそしい夫婦であることは無意識に伝わってくる。誰の目にも留まるはずだ。
光夫にとって今回の入院は四回目となる。たいした病気ではないと自分に言い聞かせているが、彼自身も馬鹿ではない。すでにわかっていたのだ。単なる疲れではない。仕事のやり過ぎ。そういうのは男としてのいいわけにすぎない。女性はいつも生きていくことにたいして、その防衛本能には非常に敏感だ。いざとなったら男たちを壊滅させるのもやぶさかではないという、有史以来そういう資格を備えていたのだ。以前、光夫は仁科や神田たちとそういう議論をたたかわせたこともある。誰もが他愛のないことだというが。   そして、だれもが知っていそうなことなのだが女の過激力・包容力・想像力・努力・親切力・生活力・防衛力は侮るべきではない。 畏敬の念を抱くべき母なる大地は女性の強い後ろ盾となり、彼女達をたくましく進化させてきているのだ。未来においては男たちは無力と化し、彼女らの手のひらで生きる屍となる。
実際、光夫は貴子の不倫は以前から感づいていた。体裁よくいえば無理をしてでも夫婦生活を長く続けてきたのは貴子の選択肢を広くさせておきたかったためだ。
妻の第二のライフステージのおぜん立てをしようという光夫のつつましい気持ちがあったからに違いない。悪く言えば、自分勝手な部分も確かにあるのだが、心の隅にまだ貴子への愛情が存在している唯一の証拠にもとれる。貴子をつなぎ止めておこうとする勝手な小心さにも腹が立っているようにも見える。 しばらく時が過ぎた。
「わたしもういかないと・・・・・」
光夫は妻が何故帰るのかは聞きはしない。わかりきったことを聞くのは悪魔の世界では当然ともいえるルール違反なのだ。凛とした罰の受け入れからは逃れることは出来ないのだ。
「わざわざ、ありがとう、貴」
「じゃぁ・・・・」
(ごめんね。私決めたの・・・・)
冷たい笑みを浮かべながら足早に病室を後にした。
(早雲によろしくな・・・)
二人は表向きの会話と本音の独り言が共存している。光夫が生きているかぎりはその無機質な世界は存在する。
また、光夫は眠りについた。
プレゼンの翌日になった。光夫が鳥のさえずりと共に目を覚ますと、怪しい影が襲ってきた。
光夫は必死に身構えた。
「緒真留先輩・・・」
「仁科・・・・か。どうした。顔色が良くないぞ。昨日のプレゼンどうだった?」
「はぁ、まぁ・・・・・」
「はぁ、まぁじゃ、わからねぇだろ」
どちらが病人なのかわからない。
仁科はもとより光夫や神田もプレゼンの背後に早雲の影がちらついていることに気がつきはじめていたのだ。
「実をいうと、途中で切り上げました。ご期待に添えなかったかも・・・」
「わかった。もういいよ。おまえは代理でよくやってくれたよ。神田もああいうやつだからな。ちかごろアイツはおまえにはおんぶに抱っこだからなぁ・・・・」
(仁科は前日、星加でのプレゼン発表会を終えたとはいえ、自分に納得がいかないようでもあった。たとえ、裏で早雲が操っていたとしても気にしないようにはしている。仁科はその光景を光夫に報告する)

その日、仁科は神田の代理CCDでプレゼン会議に出席するため、北斗の担当営業部長・AE五人・コピーライター三人・デザイナー三人・アートディレクター三人・プランナー二人の総勢十七人を引き連れクライアントに向かった。
六本木の交差点を渡ると地上三十階建ての星加物産本社がある。資本金が五〇〇〇億円と国内では一、二を争う総合商社である。全世界に網の目のようにネットワークを張り巡らせている。取扱高は優に十五兆円にも上り裏取引も含めれば国家予算歳出額の半分程度にもせまる。瀬川早雲もそうだが、彼らの背後や側近には戦前での軍部や財界の関係者を厚くもてなしている点ではよく似ている。
星加物産は戦前の南方戦線の元大本営諜報担当や参謀クラスを側近に迎えいれ、日本のアジアへの戦後補償をビジネスという形にさせた疑いを持たれたことがある。とくにその補償額はかなりの額になることから受け入れた諸外国のトップや側近たちにとっては日本の商社を代理として手数料をはらってでもかなりの商売となりえていたのだ。
星加相次郎は明治時代の頃からの商社一族で四代目の経営者となるが、早雲の北斗広告社の創設の後押しもすすめていた。もちろん北斗の発起人の一人でもある。最大手のD社の株式も保有し、経営の指針や東証一部上場にも大きな影響を与えてもいる。
その配下に位置する星加不動産は取扱高も三兆円の業界ではトップクラスに入る。株価が低迷している折りでも高いレベルの高値を維持している。他のゼネコンは軒並み株価が単価割れを招き売り上げ額以上の有利子負債を抱え込み危うい状況下にある。後に控える金融機関もバブルの頃の常識を超えた融資の焦げ付きでゼネコンからの借金棒引きを迫られている。債権放棄額のあまりの大きさに各銀行や金融丁もお手上げの状態となる。
無借金経営の星加不動産は永年の夢である港区の再開発事業を推し進め地主や地域住民のコンセンサスをようやく得たばかりだ。バブルの頃は拡大路線を一切とっていない。
先見の明があったのだ。地域や歴代政権での担当大臣等との水面下での探り合いも功を奏し、超高層ビルを中心とした一大生活エリアが可能になった。政府や都の後押しもあり参加企業は星加を筆頭に十二社で総事業費は一兆円にものぼる。
北斗広告社は今や事実上、経営的には星加物産のハウスエージェンシー(星加グループ内での自前の広告会社)と化している。北斗のクリエーター達にはそういう状況は一部を除いていまだに把握されていない。星加の傘下で泳がされているにすぎなかったわけだ。 早雲の娘婿の利道は、別のルートで北斗の裏金情報を極秘に調査しており、ある企てのための使途資金にとねらいを定めていた。
このプロジェクトの広告費百億円を奪おうと最大手のD社、H社を始め十社の広告代理店が、コンペ合戦に名乗りをあげ、戦いは熾烈を極めている。たとえ最初から極秘のうちに北斗に決まっていたとはいえ、星加側にすれば巷が話題にするプロジェクトの企画を広告業界が競ってくるのは最高の企業イメージにつながると踏んでいたのだ。
はやい話どこの代理店でもいっこうに構わなかったわけである。北斗側のプライドも無視できないので星加の側は、細心の注意を払い用意周到なシナリオも取りそろえている。星加の担当者たちは、北斗の神田と緒真留の欠席は当然承知していたから、仁科でも港区プロジェクトのプレゼン参加はまったく問題ではないと思っていたに違いなかった。
神田も仁科は不意の参加でもそれなりのポジティブな気持ちで十分対応できると思っていた。このコンペは最初からの出来レースで星加側の思惑に支配されている。当然プレゼン会議では緊張感はない。星加側の担当責任者である飯塚や他の役員クラスは北斗側の社員は説明をきくだけの程度でよいというぐらいにしかみていない。仁科自身もそれとなく分かっていたはずである。
だが、仁科は前もって自分なりのコンセプトをもとにあらかじめボードにフローチャートを作っていたのである。制作の条件反射で進めていたのだ。その着想は星加側の作ったシナリオより一歩も二歩も先んじている。
限りない隠し球の存在いわゆる伝家の宝刀というやつだ。プレゼン会議が意外な方向に進むとは星加側は知る術もない。事を荒立てれば双方にとってもマイナスなのだ。プレゼン会議がうまくいかなくなって北斗のほうに仕事が流れないことになると飯塚や早雲側にも致命的な未来がやって来る。
星加側と北斗が極秘裏にリンクしている莫大なバックマージンのシステムが世間に露呈してしまうからだ。経営環境の厳しい北斗の消滅だけは絶対避けなければならない。
広告のプレゼンテーション案は最低でも十案は用意しておくのが北斗での伝統だ。
星加側では少し北斗のクリエイターを甘くみていたのかも知れない。仁科と飯塚との目に見えない対決は避けられそうにもなかった。飯塚の出方如何によっては他の代理店にお鉢が回らないとも限らないからだ。神田の心配はそこにあった。だが、その懸念は無駄骨におわる。仁科は星加側出席者の人物観察を入念におこなっていた。
飯塚光二の説明の準備が整い始める。噂によると元全共闘の彼は大の演説好きで一日中話すこともあるそうだ。相次郎の側近の甥ということと早雲と相次郎とのつなぎ役に重要ということもあり星加不動産のトップにも信頼が置かれている。以前、彼が星加に来る前はD社のTV媒体の視聴率担当であったが、上司の四ツ木とともにタレントとのスキャンダルとデータ改ざん問題やCMの間引き疑惑(CM未放送問題)が公となり、退職を余儀なくされていた。捜査当局も事件の裏はとうとう取ることが出来ない。早々と捜査は迷宮入りとなった。族議員達の圧力があったらしい。広告主と民放の間に立っていた二人は、民放との裏取引で、あたかも依頼のCMを放送したかの様に見せかけ料金を横領したという疑惑だ。CM放映は連続しているため何回放送されたか記憶に留めるのは至難の業だ。盲点をうまく利用した格好だ。事実なら。
飯塚の進行で仁科側の出番はいつやってくるかどうかもわからない状況になっていた。 仁科に伴った五人のAEはこの日のプレゼンはいつ終わるのかあらかじめ分刻みで予想を立てる。飯塚の進行で予定がつかめそうもないので北斗の営業マンたちは、会議室のそとに出て他のクライアントとの販売スケジュールのため携帯メールの送受信で、はやる気持ちを抑える。北斗の営業の受け持ちは星加以外にそれぞれ二、三社同時進行しているからだ。社員一人当たり売上高は一・五億というのが広告代理店の相場だが、年々の経営合理化により二億三億は当たり前になっている。早い話、経営的に言えばサラリーマンは年収の三倍は稼がなくては企業は成り立っていかないのだ。
実際のコンペ合戦では実力的にはD社が他を圧倒していた。横綱と幕下の違いである。その強大な代理店は電波媒体をほとんど握っているため広告主は安心して一任できる。だが明治以来の封建的な商習慣を念頭においた高い広告費の提案はいつもの手である。ほとんどの広告主はD社の意のままに操られているのが実情である。TVCMの広告制作費・媒体費はD社の案を呑まなければ広告展開は絶対進まない。新聞や雑誌広告でも広告の枠(スペース)をあらかじめ買い取っておくから他の代理店は空いたスペースで広告を掲載しなくてはならないのだ。
D社・H社の潤沢なアカウントマネーは明らかにこの国での広告作りの発想の凋落・視聴者不在のCM放映の垂れ流しを依然として続けさせようとしている。
一億総白痴化現象はここ数十年続いているのだが各個人においてはたしかにCMの放映は空気のごとき存在になっている。視る行為を拒否をしてもそれは無駄の浪費で虚無感がどんどん身体の中をむしばんでいく。倒産寸前の大企業でも、廃止間近の政府系の特殊法人・金融機関でも高額その広告費は彼らからしっかりと請求される運命にある。
最近の全世界での広告費は約四十五兆円にものぼる。日本の広告費はその十三%を占め約六兆一千億円余にもなる。
大手の十社だけで全体の七割強を占める。五〇〇兆円余のGDP比率からいえば一・二%となる。
内訳は次のようになる。
●四大媒体の合計は四兆円
・新聞・一兆二千億円
・TV・二兆円
・雑誌・四千億円
・ラジオ・二千億円
●SP媒体(DM・折込・野外・交通・POP・電話帳・展示、映像)の合計は二兆円
●衛星メディア関連 四百億円
●インターネット関連 六百億円
TVのCM放映料金は時間帯や曜日・番組の買い取り枠の種類により料金が異なる。
例えばレギュラー番組一時間を一社単独で提供する場合、CM六十秒間七十万円としよう。六十分の番組のなかに六十秒のCMを六回放映すると料金は四百二十万円、一ヶ月だと四週分として千六百万円。年間に換算すると二億円ともなる。企業広告や新商品・既成商品が多様化してきているので一週に一時間のみの放映はあり得ない。あまりにも認知度が低くなるからだ。ますます広告費が膨れ上がる。六十分の番組を一社で買い取る場合、番組制作費やネット料金の負担額が増える。 それに対し、番組提供に複数の広告主が参入すれば一社当りの負担が軽くなる半面、視聴者への認知度の割合が少なくなる。これを他の番組に分散させ相乗りすると放映の回数がふえ認知度も増してくる可能性が多くなる。彼らはしつこいぐらいの繰返し放映効果で視聴者の心層まで迫ろうとする。だが、その手法は慢性化の一途をたどる。長い間視聴者たちには覚めた目でみられている状況を制作サイドは認めようとしない。番組の内容にマッチしないコマーシャルは民放にとって当惑することだが、広告収入が唯一の糧となるから広告主の要望に対しては首を横には振れない。大手の広告代理店はその調整役に回る。彼らは持ち前のフレキシブルな創造力で真価を発揮させる。不況になればなるほど企業は自分の存在価値の認知に躍起になる。よってCMがスポンサーの販売促進の一部となり視聴者はつまらない内容を仕方なく見せられてしまうことになる。つまり、CMは垂れ流しという行為を通して仮想の現実を作り出しているにすぎない。それに輪をかけて番組の質の低下にも歯止めがかからない。
TVの番組の存在を位置づけるための数値は広告主の広告費投入と比例する。いわゆる世帯視聴率というものだ。ある番組が他の番組に対してどの位の世帯の人に視てもらっているかを推し量る。日本の全ての世帯に直接モニターになってもらうのはハード的に不可能だ。そこで、視聴率を扱う専門会社にデータを収集してもらいTV局や広告会社・広告主に情報を有料で提供する。モニター世帯には最低八台から十台のTVと周辺機器を与えられ視聴のデータを専門会社と双方向でやり取りをしている。関東地区では八百世帯、関西地区では七百世帯でモニター世帯があるが巷ではその実態は一切明らかにされてはいない。そのデータは実際の日本全国の視聴者全ての集計であるかのように扱われている。要するにこの国の縮図であるかのように見なされるのだ。そのデータの着色はだれでも容易に推察することができる。
北斗広告社は、北斗リサーチという専門会社を所有している。三大標準のひとつでマスコミ業界内ではそのデータはもっとも標準となっている。その番組の視聴率の違いは当然TV局の番組販売戦略に大きく影響する。広告主も視聴率の高い番組と有利な時間帯でのCM放映を希望する。視聴率の高くなりそうな番組にCMを投入するとその広告効果は計り知れないと広告会社は広告主に斡旋する。斡旋はなかば強制に近い。広告主はその広告会社に振り回されることになる。社の実績が悪ければ悪いほど深みにはまる事になるのである。TV広告費年間二兆円のπの争奪戦は熾烈だ。
仁科は広告業界に入って十年程になるが広告の存在性に疑問を持ち始めていた一人でもある。また、大きな問題として芸能業界の人材不足やTV界を基点としてのぬるま湯的体質関係と番組の質の低下、民族レベルの良識の低下にはこれまでの広告の存在にも責任があると声が出始めていたことは確かだ。
不敵な笑みを浮かべながら飯塚がプレゼンルームの壇上に上がっている。
(なんか、いやな予感がするなぁ)
飯塚の中に胸騒ぎがおこった。
「この度、当プロジェクトの責任者である飯塚と申します。よろしくお願いいたします」 総勢百人の関係者で最上階のプレゼンテーションルームが賑わいをみせている。拍手が沸き起こる。
「今回のコンペでは、北斗広告社さんに決定いたしました。ここに、ご紹介させていただきます。のちほど、北斗さん側のスタッフの方々にコメントを頂戴いたしたいと存じますのでよろしく。
まずはじめに皆様方に大きな枠組みのご認識をお願いいたしたくおねがいいたします。 この度の広告予算は皆様とのお打ち合わせの結果約百億円の枠を用意致しております。今回のプロジェクトは弊社と十一社の方々で推し進めますJV方式(合弁事業いわゆるジョイント・ヴェンチャーの略)を取らさせていただいております。販売戦略の一貫としての全ての広告展開および広告スケジュールの管理・ディレクションは当星加物産が責任を持ってやらせていただきます。ご承知のように当社でのハウスエージェンシーの設立が予定されておりますので。北斗さんには申し訳ありませんが制作面での支援を全面的にお願いしたいと思っております。広告媒体はTVCMを主体に約七割、新聞を約二・五割、雑誌〇・五割の配分としラジオ媒体今回は使いません。
CMを投入する番組選定はTV局と当プロジェクト参加のJV各社の方々との折衝および検討で決定したいと思います。参考視聴率のデータ収集は北斗リサーチさんにお願いしてあります。キャラクターの選定については当JVの企業スタッフと北斗との協議を綿密に行います。
目下のところ、J事務所のK氏、WプロのS氏、外国人女性ミュージシャンのRさんの三人に絞り込んであります。番組についてはTV局側にゴールデンタイムいわゆる七時、八時台の予定でお願いしてあります。気になる視聴率の高い番組に焦点をあて、北斗リサーチの協力のもとサブリミナル効果を効率的に得ていきたい」
北斗の営業部長大宰の顔の色が変わった。 小声で仁科に話しかける。
「なに言ってんだ、アイツ・・・。ハウスエージェンシーなんて聞いてないぞ。こっちをなんだと思っているんだ。代理店をなめてんじゃねえのか。自分たちだけで一体何ができるというんだ。」
「部長落ち着いて落ち着いて・・・・」
仁科も唖然としていた。飯塚を甘く見ていたのかも知れない。
五時間が過ぎた。飯塚の基本的な広告戦略の説明が終わる。北斗のスタッフは仁科に下駄をあずけた。三十分の休憩時間を迎え、次は北斗側の説明に入る。
仁科は早雲と相次郎の裏取引は飯塚がからんでいたのはこれではっきりしたことで、彼は予定通りいつものように説明することにした。たとえ、クレームがついても仕事の流れはかわりそうもないから逆にやりやすくなるはずだ。
「仁科、おまえいま何考えてる」
「いえ、とくに・・・OKっすよ。大丈夫」 コピーライターの早川薫が心配そうに気をもんでいる。まだ彼らは北斗の制作部門の危機的状況を把握していないし、いまその状況を明かすのは得策ではない。神田や緒真留が根回しするべきことだ。自分にとっても他のクリエイターにとって酷なことぐらいは仁科も心得ているつもりだからなおさらである。 仁科は深呼吸をしている。ゆっくりと重い腰を上げた。腰をあげたら後へは引けぬ。
「この度、当プロジェクトに参画させていただく北斗広告社の仁科広嗣と申します。制作クリエイティブの担当です。今日は神田が事情により来られません。ここに深くおわび申し上げます」
社交辞令の拍手があるがすぐに止んでしまったような気がする。仁科は腹をくくっている。大宰部長が切れる寸前となっていた。彼もこの水面下での事柄は知らされていないからだ。
「飯塚。あの神田君はいないのか。あの子は代理ってことだな。おまえに全て任せているからあまり言いたくはないが、大丈夫なんだろうな・・・・・」
「はい、会長ご心配なく。手は全て打ってありますから・・・」
「そうか。逆にならなきゃいいがな・・・・ま、とにかくおまえの勉強のためにもなるからやってみろ。それにあの汚名も返上できるかもしれんから・・・・」
星加相次郎は飯塚の威勢のいい言葉とは裏腹に彼の思いつきの考え方に一抹の不安を感じてもいた。早雲の徹底した平身低頭な泣きの涙で今回のコンペを星加は北斗に振り分けた格好となってはいるが。巷では北斗との裏取引情報が勝手に独り歩きをしている。永年にわたる極秘裏でのマネールートを早雲に肩代わりさせている負い目も現実的にはある。仁科の代理出席は思わぬ展開となりそうな気配もあった。相次郎は仁科のプレゼンテーションへの意気込みにかれの器を観察していたのだ。同時に仁科と飯塚との対戦はみものだと思っていた。
星加側は北斗に大袈裟に主張することで、社の存在感を誇示していたかったに過ぎない。いわゆる穏便に恩を売っておく必要もたしかにあった。相次郎にとっては一歩間違えれば虎の尾を踏むことになりかねないからだ。ただ、ハウスエージェンシーを切り出したのはまずかったと反省している。北斗の方は存在性を無視されるからだ。必ず攻勢をかけてくる。その裏には北斗のスタッフ、仁科の値踏みをするきっかけになると思っている。
相次郎はしっかりと彼らの対応を見ていたのだ。
仁科も我に返り、やはり出過ぎたまねはよそうか等とすっかり弱気になりかけている。 早川が小さな声でささやいた。
「仁科、余計なこと考えるな。クリエイティブの立場で思いっきり言ってみな。おまえに言えない理由があるのならそれでいいけどさ。これは大事なことなんだ。向こうがこっちの足元を見透かして北斗の手の内を読もうとしているのは明白だ。ハウスエージェンシーなんてのはハッタリだよ、きっと。俺たちは聞いてないし。わかるだろ。なぁに、ここは何言ったって大丈夫ってことさ。ちょっと、カッコよくからかってやれよ。みんなお地蔵さんだと思ってさ・・・・」
早川は勘の鋭い男だ。だてにコピーは書いていない。おそらくコンペの事情は知っているかもしれない。うすうすそう思っていた。「早さん・・・てみじかにいきますよ」
仁科は捨て身の覚悟で飯塚の方へ視線を向けながら話しだした。
「えーっ、今回のコンペおよびプレゼンテーションの件で若干の補足説明をさせていただきます。前から言われておりますようにTV広告に対する庶民の意識は慢性化を超え、単なる広告主の自慰的で見え透いた当たり前の製品情報の場となっており、見る人にとってはたいくつな存在となっているのかも知れません。これまでのTVCMのあり方を完全に見直し、CMをみて何かを感じてもらい、視聴者にフィードバックさせ日常生活に癒しの場を創っていくクリエーターが今こそ必要なときはありません。広告は単に消費活動を活性化させるための道具ではないのです。諸外国の例を視てもお分かりのように広告の原点にたった視点で作っていく必要があるように思います。もちろん、その事は民放TV局側にとっては重い負担と義務感を生じさせることが出てきますから現実的には難しいように考えます。ただ、これは業界の責任性を意味するものではありません。戦後六十年を迎えてもいまだに文化の礎が煮えきれていない私たちの日頃の考え方にも問題があり、そこからひとつひとつ変えていかなければならないことなのです。つまり、広告は大切な文化やより良い地球環境のサポーターなのです」
飯塚の顔色がかわった。
「あいつ、何が言いたいんだ・・・・・・」 飯塚も気合いでは負けていない。ただ日頃の領域外の事では不安の要素が強い。クリエイティブの経験は無きに等しいといえるからだ。無感覚で事を進める性格、おまけにせっかちすぎる器用な側面は自分の墓穴を掘っている。彼は感づいている気配を周りには絶対披露しようともしない。つまり不安感が焦りにつながっていたのだ。自信への裏付けがないのである。飯塚は仁科の意外な本質に恐怖の念を抱いているにちがいなかった。
「申し遅れました。先ほど飯塚様の方からご紹介あずかりました当方のスタッフをご紹介させていただきます。
まず、こちらから弊社の当プロジェクトの営業部長である大宰が窓口となります。それからAEが五名、プランナー二名、デザイナー三名、アートディレクター三名、コピーライター三名、そしてクリエイティブディレクターの私十八名のスタッフでご協力させていただきます。よろしくお願いいたします」
「飯塚、前置きが長いなぁ・・・・」
「はぁ、まぁ・・・・・」
仁科は何かと事を構える自分の性格を熟知していたわけではなかった。北斗のスタッフは仁科の電光石火の話しぶりに期待をしているが胸の内はドキドキしている。仁科の飯塚よりもったいぶった態度や話しぶりは神田をしのぐほどである。
星加をはじめ他のJV各社の出席者もかたずをのんでいる。
「さて、昨今の世界経済や我が国のバブルのあとの不良債権処理の停滞。景気の不況感。機能していない政府の構造改革推進。もはや望めなくなった小さな政府の実現。ますます膨れ上がっている毎年の国債発行と残高の累積、未来世代達への希望感を奪ってしまっている私たちのなすべきことは一体何なのでしょうか。そのことはだれもがもう既に知り尽くしているということなのです」
早川がそばで笑みを浮かべた。大宰が耳打ちでささやいている。
「政治家ふうだな。早、だいじょぶか?」
「はぁ、部長これは一波乱ありそうですよ。面白くなってきたなぁ・・・・」
「おまえ、他人事だと思ってんだろ・・・・俺もだけどな・・・・」
「まぁ、見守ってあげましょうよ、部長」
「そうだな。あいつがこまったら俺が何とかするよ」
「ただ難をいえば何でも文化的過ぎる嫌いがあるね。最初は敵もつくりやすいかも。でも部長何かあったらお願いしますよ・・・」
早川は仁科より二歳上だが最近、仁科が先にCDになって最初の頃は気まずい思いが先に立っていた。今になって思えば実力だけは早川が上をいっていたのは事実だ。そういう小さなプライドより、仁科の何とも言えない気さくさと明るさは早川を癒させてもいた。 仁科は深呼吸をした。豹の眼のように飯塚の方に先程より強い視線を維持しながら再び話しはじめた。
「そもそも、広告をつくるということは良識ある市民を強固に守っていき、よりよき未来への虹の掛け橋を造っていく責任が生じているということです」
JV各社の出席者たちにいくぶん険悪な雰囲気が流れはじめた。仁科の話にうんざりしはじめていたからだ。
飯塚の額から汗が落ちる。仁科の思わぬ壮語に動揺している。北斗のクリエイティブ魂に火を付けてしまったからだ。簡単に星加がハウスエージェンシーを造るといってもプランが最初からあったわけではない。プライドを傷つけられた北斗の彼らは黙ってはいないだろう。フレキシブルなフリー感覚の社員の多さは大手の代理店では有名である。たとえ北斗広告がなくなったとしても彼らにはたいしてサラリーマン意識はない。飯塚は、多芸多才・縦横無尽の限りを尽くして世界の果てまで飛び込んでいく北斗の創造集団の実際をまだ目にしていない。なにしろ業界でも一目置かれる電光石火・伝家の宝刀・ダークホース的精神という三位一体となったクリエイター軍団なのだ。一部を除いては・・・。
「星加さんでのハウスエージェンシーの立ち上げ心からお慶び申し上げます。先程の飯塚様のお話ですとコンペでのお話とはズレがあるように思います。御社内のハウスエージェンシーで広告スケジュールの全てを一括される事になるわけですが、当初はスタッフを揃えるのも大変かと存じます。やはり、当プロ集団のサポートが絶対必要かと思います。その時はどしどしご相談くださいませ。また、他の代理店にもお声をかけてはいかがでしょうか・・・。いろいろ相談に乗ってくれると思います。今回の御社様がたのプロジェクトには私たちは関わりますが、ごくわずかしかご協力できるキャパシティーしかございません。ご容赦のほどを・・・・」
「飯塚・・・あとで謝れよ」
「・・・・・・・・・」
星加は笑みを浮かべながら飯塚の困惑を面白がっている。ハウスエージェンシーの意味を軽く考えていた罰と言いたげだ。
(彼らのひた向きさをもっと見ろ。
いつもいい思いをしてきたお前にはいい薬かも知れん・・・)
仁科の弁舌がかろやかに聞こえる。
「制作費はこちらでは一切お伺いいたしません。つまり、当方では、ボランティアサポート制作システムチームを目下構築中です。ぜひご活用くださいませ。
よりよいプロジェクトの創意あふれる広告を期待いたしております。
以上の理由により、当方で創りました企画案及びフローチャートは引き上げさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。飯塚様よろしくおねがいいたします」
拍手が沸いた。北斗のスタッフもメンツを保った格好でプレゼン発表の第一部が終る。 だが勝手に話しを作り出し、ケンカを売った以上社長や神田からのお咎めは確実だ。
「仁科。カッコいいじゃん。
それでいいんだよ・・・・・・」」
「早さん・・・・・」
第二部は恒例の親睦パーティーである。
仁科は逃げる様にして会場をあとにした。「飯塚よ。完敗だな。あの子言いたいこと言ってさっさと帰っちまったぞ。なかなかやるね。そうだ。今度、仁科君とアポ取っといてくれないか。それにしても君、項羽にはなるなよ。相手を侮ってはいかん」
「は、わかりました・・・」
星加は内心ほっとしていた。北斗のスタッフを怒らせてしまったわけだが、意外とまんざらでもない骨のある彼らをみて感心したりもしている。
飯塚も気を使って苦笑していたが心底いい気持ちはしていない。プレゼン発表の場で思わぬ誤算が生じたからだ。自分本位で終らせようとした小心さと強引さが影響していたのである。飯塚の悪い癖は仕切り過ぎるところにある。星加の若い頃と似ていた。
(ちぇ、何が項羽だ。優柔不断な劉邦よりはマシじゃないか)
「何か言ったか・・・・」
「いえ、別に・・・」
「おかしいな・・・・。じゃ、あとのパーティーのほう頼んだぞ。北斗のスタッフに失礼に当たらないようにな。早雲くんにも顔向けが出来ないからな。いまは彼らの協力がないとダメなんだから」
「はい・・・・」
「おい、車手配しろ。例のところまで。予定通りだ。早雲くんもきているだろう。じゃ、頼んだぞ」
足早に赤坂のPホテルに向かう。代議士を囲んでの財界の会合があるためだ

二人はいつの間にか話しながら病棟をでて庭園のベンチで座っていた。陽の光線で光夫の顔が逆光になる。仁科は不気味な予感がした。仁科はプレゼンの始終を光夫に報告し終えたが、かなり納得のいかない表情である。「なるほど。そうだったのか・・・。
仁科、すまなかったな」
「いえ。いいっすよ・・・・」
「社長の耳にも入ってるだろうが。なに、心配するな。副社長とも手を打ってある」
「あの、よくわかりませんが」
「・・・・・・・・」
「それはそうと、先日神田さんからお借りしたCD│ROMのデータのことなんですが」「データがどうしたんだ?」
「・・・・・・・・・」
「黙ってちゃ、わからねえだろ。はっきりいいいな。怒らないから・・・・」
「その、つまり先日紛失しまして・・・」
「なくなった・・・・のか」
光夫の顔の色が変化していくのが手に取るように分かる。時間がゆっくりと溶けていくような世界だ。仁科も汗を拭こうとするが、拭いて拭いてもつぎからつぎとあふれ出る。仁科は、静かな時間が遠くの景色を見ようとする光夫の不安感をあおっているような気がしていた。
「それで・・・・何処でなくした?」
「電車の中で」
「スラれたのか?」
「上の棚にバッグを置きまして、いつの間にか・・・・・」
「うつらうつらと気持ち良く寝てたってわけだ・・・・」
「いえ。そういうつもりじゃ・・・・」
「結局やられたんだ」
「つまり、そういうことでして・・・・」
光夫は苦笑している。
仁科はほっとしていたが、光夫の様子がおかしい。無垢な青年に気をつかっている風情でもある。
「その後はどうした・・・・」
「次の日の朝、そのバックを届けにきてくれた人がいたんです。肝心のデータはありませんでしたが・・・・」
「誰が届けたって?」
「女の人です。歳は四十代前半ぐらいでしょうか。清楚な感じでちょっとタレントのR嬢に良く似てまして。俺も以前どこかで会ったような気がします」
「女?おまえ、張られてるぞ。神田もだ」
「張られてた・・・心当たりでも?」
「あぁ。ちょっとな。おおよその見当はついてる・・・・その女は特別秘書室長だ。表向きにはな。たぶん結城美穂子だろう。じつは早雲社長の愛人の一人で御局的な存在だ。裏情報では安西一族との関係もあると言われている。その会長と接点があるらしい。側近の久保というやつが北斗の機密情報を社長に黙って売ったようだ。金欲しさにだ。五億ときいている。副社長が裏で取引したという噂もある。結城という女は以前副社長とは将来を誓いあうほどの関係だったこともわかっている。そのデータを公表すれば北斗の消滅どころかこの国のシステムも危うくなる。裏金ルートの詳細と汚職の全容が表ざたになるからだ・・・・」
「副社長は一体何を狙っているんでしょう」「北斗のこと以外はっきりと彼も言わないので詳しくはわからない。が、いまは北斗の調査部門は彼が仕切っているわけだし、今は社長は手も足もでない。そこでこの前の張り紙騒ぎだろ・・・・」
「すこし分かってきました」
「俺と神田は副社長には以前から、北斗の改革のために人肌脱いでくれないかと打診されてはいる。なぜ俺たちなのかかわからない。ただ、北斗はこのままでは来期はないだろう。社員はみんな路頭に投げ出されることは目に見えている。千五百にのぼる外注も大変な事になる。だから、今のワンマン経営を排除して、副社長は早急な手だてが必要という事らしい・・・・・」
「具体的には・・・・・」
「副社長は社長の経営からの早期の勇退と経理面の健全化、銀行からの支援取付、着実な再建計画を打ち出さないとダメだろうといっている。北斗のクリエイティブ力の強化とデジタルコンテンツの確立も早急にやらなければならないそうだ」
「悪いけど俺には荷が重すぎますよ・・・」「それもそうだよな。突拍子のない事だからな。でもな、現状のこと知らないよりは知ってたほうがいいぜ。おまえのためにもな。
そのデータのこと、神田は知ってるのか?」「いえ、まだ言ってません」
「俺のほうから言っておくよ。もとはといえば一番悪いのはこっちのほうなんだから」
「で、データの中身はみれたのか?」
「あのですね、パスワードがいくつかあるそうで開けなかったんです。つまり・・・・・そういうことです」
「そっか。いっけねぇ。そうだったよな」 仁科は恐る恐るデータの中身が何であるか聞こうとしたが、光夫はさばさばした表情で笑みがこぼれてきている。
「そろそろ、おまえにも知ってもらわなければならんことになってきたな。しかし、外部には絶対漏らさないでくれよ」
「俺いいですよ。知らなくても・・・・」
「そういうわけにはいかねえんだ」
「どういう意味ですか」
「つまり・・・俺には残された時間が余りない。だから・・・・」
「だから何です?」
「先輩こそはっきりしてくださいよ。水臭いじゃないっすか」
「おまえ・・・」
「なんかもっと大事なこと隠してるんでしょ先輩。顔に描いてますよ・・・」
仁科のちゃめっ気に光夫もいくぶん慰められる。それにしても光夫のにらんでいた通り感の鋭い男だ。
「実はおまえのなくしたファイルの事だが、神田に渡したのは副社長から借りたものなんだ。社長の側近のデータらしい。そのコピーだ。その中身は北斗にとって不利益になるものばかりだそうだ。うっかり表に出たらこの国も危うくなる感じもする。副社長がそういっている。」
「そうなんですか。
そんなに大変なんですか」
「それよりも、もっと別の極秘情報があるらしい。想像の範囲だが。出所がなぁ・・」
「もっと別の・・・・ですか?」
「俺の勝手な思いつきもあるだろうが、いろいろとまとめてみたんだ。
今つかんでいるデータは五つある。俺なりに分けてみたんだ。本当はいくつあるかは不明だ。副社長に尋ねてみたことがあるが信頼できるかどうかはわからん。しぶしぶと見せられたものもある。神田に渡したデータは社長の関係するものでマスコミに流されたら相当まずいことになる。副社長なりにも思惑がありそうだった。上層部の派閥争いにはほんと疲れるよな。俺も知りすぎた感はあるが副社長が俺たち制作関係の人間を駒にしようとしていることは間違いない。みんなはまだ気づいてはいないはずだ」
「・・・・・・」
「ここにメモだけはしておいた。ルート別にしてある。あくまで憶測だが・・・」
この時から仁科は北斗の危機を感じはじめることになる。仁科は渡されたA4の封筒に入った三枚のメモをのぞく。
「■副社長ルート
利道副社長の極秘情報。わたしも一回だけしかみていない。これは理解がむずかしい。あるところからパスワードが必要らしい。リード文から察して北斗の改革以外に何らかの計画があるらしい。
■社長ルート
早雲社長の側近が創業当時から持っていた極秘メモのすべてが網羅されている。副社長がもっとも得たい情報の一つだ。公表すれば北斗の明日はないだろう。結城美穂子は早雲の愛人ということになっているがただ以前、利道とは将来を誓い合ったほどの仲であったようだ。彼らの詳しいことはわからない。
■江川ルート
早雲と星加のパイプ役をの江川というもののデータだ。神田とも旧友の仲でどの位の信頼度があるかどうかわからない。彼の情報も侮ってはいけないと思う。
■Sルートのデータ
出所が不明だが、何らかの計画書とみている。江川から聞いたが、これは結城という女が利道副社長に渡したとも噂されている。副社長はこの権に関してはノーコメントだ。俺もまだみていない。
■Xルートのデータ
「この最後のXデータだがこれがなんとも。一度だけ画面でしか見ていないが不可解な言葉が無数に散らばっていた。何かの計画書のようだ。コメントはなかった。結城が持ち込んできた中に紛れ込んだものらしい。早雲の側近、久保が持っていたと話していた。誰もなんのデータかわからない。パスワードが三重四重とかなりのセキュリティがほどこされていたようだ」
「・・・・・・・・」
話の途中で。光夫は突然目の前が白くなっていくような気がしていた。
「ちょっと眠らせてくれ。頭が痛む」
看護婦が数人急いで駆けつける。酸素吸入器が運ばれる。
看護婦の山本理香が駆け込んできた。
「緒真留さん。緒真留さん」
「看護婦さん。ちょっと、長く話し込んだみたいで。すみません」
「ほんとよ。ここの病室はいつも賑やかなんだからまったく・・・・他の患者さんに失礼でしょ。たのむわよね。重いのよ。もっとそっとしてあげなくちゃぁ」
二十代半ばの強い芳紀な香りが仁科の体内に徘徊した。
「先輩。先輩」
一時間ほどして光夫の意識がもどった。
「だいじょぶっすか?」
「・・・・・・・・あぁ。わりぃ。わりぃ。俺どうしたんだろうな」
「ちょっと疲れたんすよ」
「仁科・・・パスワード調べられるか?」
「自信ありませんが、やってみます」
「わるいな。そうだ、来週あたり副社長との会食に付きあってくれないか。神田もいっしょなんだが・・・・」
「はぁ・・・・俺がですか?」
「たのむよ・・・・・・・・」
「いいっすよ」
仁科は安易に引き受けてしまう。
光夫は時折目がかすんで視線の方向がまばらになるようであった。仁科は光夫の体が一刻を争う危ない状態になっているのを直感していた。限られた時間があとわずかとなると普通はたじろぐ筈だ。が、光夫にはやるべきことを早急に解明したい思いがあったのだろうか。焦っていたのかもしれない。だが仁科はよく考えてみると、やはりとんでもないことに関わってしまったと感じている。
仁科は神田の父を見舞いに向かった。前日のプレゼンの報告もあるからだ。
「らっしゃい。どうしました」
「親父さん。具合悪いって・・・・・・・・もう、いいんですか?」
「具合?なんともねえよ。ほら。悪いのはあいつじゃねえのか。いまな、風邪でねこんでらぁ。おい、春雄。お客さんだぜ。見舞いに来たよ。おまえにだよ。なんだ、くたばってんのか。しょうがねえな。早苗さんもういいからほっときな。寝てりゃぁ直るよ。心配すんなって。お見舞いの品は俺が手厚くがもらっておくからな」
「あの。すいません。手ぶらで・・・」
「ま、無理はいわねえよ。最初から期待しちゃぁいねぇから安心しな。俺の握った寿司食っていかなきゃ、てめえら人間じゃねえよとうちの猫にいってみたんだがな、相手にされなかったよ。ま、一度とにかく口に入れていきなよ。春雄がいつも世話になってるらしいなぁ・・・・ありがとうよ。よし、今日はほんの挨拶代わりだ。あんた、仁科さんていうんだっけ。よ、聞いてる通りやっぱ色男だねぇ。それに結構もてるっていうじゃねえか。あんた、まだ独身かい?」
「はぁ・・・・」
「もったいねえよな。男は三十半ばぐらいが一番いいというし。女は色気があればいくつでもかわいいやね。そう思わないかい?なぁ早苗さんも思うだろ」
「ええ、まあ」
「それも、そうっすね」
「もっと自慢しな。だろう・・・・なっ。
はい、いっちょうあがり」
「えっ、いつの間に」
「話しながら、握ると寿司も粋がよくなるっていうじゃねえか。ま、どうぞ・・・・」
落語家のような威勢のいい神田太郎は、春雄の実の父だが、神田自身、幼少時の彼の話はきいたことがないそうである。年齢は不詳だ。仁科は七十歳代の中ごろとみる。
「この中トロうまいっすね。甘エビも」
「そうかい。そうかい」
神田の父もこの青年には笑みを浮かべる。気に入れられているのだろう。
一見、仁科には太郎が江戸っ子風のチャキチャキ男のようには映るが、笑顔のなかに埋まる涼しい瞳が時折鋭く光るのが気になっていた。高齢でもあるし、年齢から考えれば、野心とか野望とかというものには無縁ともとれる。春雄の妻である早苗は従姉妹結婚である。そういわれればどことなく顔立ちが似ているような気がする。
といっても早苗のほうの母方は養子なので実際の血縁関係はない。先入観はいい加減なものだ。
「先輩。お大事に。プレゼン何とか終わりました。緒真留さんには言ってあります。来週連絡します・・・・・」
寝床で手だけをふる春雄は声がでない。
「よくいっておくから」
早苗の見送る姿は寂しく映っていた。
三 キャスティングボート

四月も終りになり、新緑の香りもすがすがしくなってきていた。
仁科、神田、緒真留の三人は、以前から銀座のあるVIPサロン「アングル」に利道から誘いがかかっていた。重要な話があるらしい。彼らには利道の計画している野望を読み取ることは困難なことだが、緒真留だけは知っていた。
四ツ木明はこのサロンの支配人だ。広告業界最大手のD社のOBで電波媒体局の局長クラスをやっていた経歴を持つ。アングルは矢島と大内が経営している新宿のサロンとはリンクしている。早雲も彼らとは関係が深い。九十年代のバブルの頃、視聴率戦争がピークを迎えていた時だ。CM未放送による謎の利益疑惑(間引き問題)、世帯視聴率のデータを扱うリサーチ会社との争い、モニター世帯との癒着問題やデータ改ざん事件などでマスコミに激しくたたかれている。その後、局の管理能力不適格による引責辞職をする。部下の飯塚とともに表舞台から姿を隠すことになった。飯塚は星加の元に身を寄せている。四ツ木は矢島の口利きで銀座のサロンを任されている。利道とは大学でのゼミナールからの間柄だ。大和民族による世界統治研究会という別名「海原の会」という組織を二十年前から推し進めている。陸・海・空の防衛隊に絶大な影響力を持っている三咲仁蔵は永年顧問をしている。
「利道、遅いな彼ら。だいじょぶか?いつもこんなに時間ルーズなのか・・・・」
「あぁ、確かに・・・」
「信用出来るのか?あいつらただの制作マンだろ」
「案外ばかにしたもんじゃないかもよ」
「もっとも、おまえが保証するんだったら俺も信じるがな。最近のクリエイター達はパワーがなさ過ぎるよ。デジタルに走りすぎるのもいいが・・・」
「そのうちの一人にデータをみせてしまっているからな。うかつだったよ。五枚のうちの一枚だけだが・・・」
「五枚?四枚じゃなかったのか。それにあの計画のことは?」
「彼の頭の記憶だけにしかないから心配ないだろ。本気にはしてないさ。ただ中に一枚不明のデータが紛れ込んでいたらしい。たぶんたいしたもんじゃないと思うが。だが、彼らには政治的な事をいっても理解するキャパシティはないよ。考える余裕がさ・・・」
利道は仁科たちを甘く見ていた。
「それもそうだが・・・・・」
「ま、おれに任せろよ。見込んだ奴が三人いるんだが、ただ最近ひとり気になる奴がいてな。おまえも、どういうやつかみてくれないか。観察すればすぐわかるだろ?この計画には彼らの協力が何としても必要なんだ。ある時期まではな。表向きだが・・・」
「しかし、くれぐれも慎重にな。俺の二の舞いはごめんだからな・・・・・・」
「あぁ、わかってる。どうせ俺たちの本当の計画は彼らには分かりっこないんだから」
「だが、彼らを油断してはダメだ」
「わかっている・・・」
「そうか。それならいいんだ・・・」
利道も少しは気を入れ替えている。
「そうだ、尾上。あの時紛れ込んでいた例ののデータはどうなってる?」
「それがまだ・・・・」
尾上正雄は安西時代の利道の部下である。 美穂子と利道の縁結び役でもある。
「以前、結城君が調査室にきて君と三人で話したことがあったよな。ほら覚えてるだろ?一ヶ月前にもなるな。あ、四人か。緒真留もいたからな。最後のデータだが・・・一度画面でリード文を少し読んだだがすぐ消えただろ。いまでも気になってるんだ。そのデータは以前どこかで見たような気もする。記憶には残っていない。ま、そんなことはないだろうが。考え過ぎかもしれないが・・・。
尾上、早急にその出所とパスワードを調べてくれないか・・・・」
利道は安西時代のことを思い出していた。 彼が安西を飛び出して十数年にもなるが、それ以後の彼らの動向はベールに包まれたままだ。マスコミも手をこまねいている。彼自身の箝口令もあり得るが、利道のイメージでは安西にはそれはあり得ないと思った。情報がまったくつかまらないし、巷での噂はひとつも出てこない。安西が体制派に落ち着いたとの情報もある。諸外国では彼らに関心が高まっているようだが憶測だけだ。安西がことを構えることはあり得ない話だ。利道が安西をよく知っている自負もある。自分がやるしかないのだ。尾上が応えた。
「わかりました。
出来るだけやってみましょう・・・」
「わるいな・・・・・」
足早に側近の尾上はアングルを後にする
「お、来たぜ。じゃ、おれは奥に・・・」
招かれた三人は神妙な顔でに受付で待っている。利道の気になっている仁科もいた。利道はがっしりした体格で精悍な視線が彼らを襲った。普通の者なら怖じ気づくはずだが。三人のお互い一歩も譲らぬ態度に利道は感心している。
「しばらくだね。緒真留くん、もういいのかね。あまりいうのも何だが気になってね。顔色も以前よりよくなっているようだが。大丈夫さ。俺がついてる。なにかあったらいいドクター紹介するから」
「君が仁科くんか。一度会ったような気がするが。神田くんのたしか後輩だったな」
「はいそうです」
利道の目つきが一瞬変わった。
「神田くん。風邪はもういいのか」
「はぁ。季節外れの・・・もう大丈夫です」「ま、わたしもここのところ、激務でね。最近社内では大変らしいね。社長のあれだろ。さて、そのことなんだが・・・・・」
「副社長、どうお思いですか?」
緒真留が身体を乗り出す。
「その前に知らせておきたいことがある。先日、久保君の代理の者から社長の新データを入手した。彼が倒れたから番号がわからん。見れない状況なんだ。作った張本人も忘れるほどだから・・・困ったもんだ・・・」
光夫がすでに見ているデータだ。データは更新されているようだが。久保の他に入力しているヤツがいる。仁科が話しかける。
「パスワードの事ですね」
「オリジナルデータはあるところに厳重に保管している。それから、尾上から聞いたが、あのデータなくなったんだとか・・・・・」「えっ、もう流れているんですか?」
「知らないとでも思っていたのか?」
「はぁ、すいません・・・・・・・」
店内ではプライベートルームが五十程あるが、この日は予約が十ルーム程であった。
話しは絶対漏れないようになっている。
しばらく談笑しているうちに結城美穂子が入ってきた。例の女だ。仁科は妙に落ち着きがない。
「そうだ、君たちに紹介しよう。結城美穂子君だ。今度、社長の下で特別秘書室長をやることになった。先日発表された人事で決まったことだ。君らはもう告示で知ってると思うが・・・・」
仁科は利道の捕らえ所のない物の言い方に納得のいかない様子だ。
「仁科君。先日はすまん。彼女のこれが仕事でな。ところどころに姿を変え、よく風貌もかえる」
「・・・・・・・」
仁科は押し黙ったままだ。
「あの時はごめんなさいね。ああするしかなかったのよ・・・・・」
「・・・・・・・」
「仁科。いい加減にしろ。なにかいったらどうだ。失礼だぞ・・・・・」
「緒真留、もういいよ。謝らなければならないのは私たちの方だ。神田にもな・・・・」「私はべつに・・・・・」
「無理するなよ。顔に出てるぞ」
「はぁ、分かりますか?」
「やっぱりそうか・・・・」
「副社長も人が悪いですね・・・」
「ところで、今日君たちにきてもらったのはほかでもない。緒真留もうすうす気づいてると思うが・・・・・」
利道のことばの流れがゆるくなった。声もも床をはうような慎重さを増してくる。
「実は北斗のこれからのことだが・・・」
仁科もなんとなく打ち解けはじめる。
「その前に・・・結城君、例のものはどこで手に入れた?」
「そうね。社長のおそばにいた久保さんの代理の方からよ。彼も事情は知らないみたい。私も少し焦っていたから・・・」
緒真留も察しがついた。
「いいのよ、もう」
彼らの言葉の行間には隠された思惑が確かにあるような気がした。
当たり前のことだが、彼らはあえてフローチャートのようにわざわざ互いの相関図などあらわしたりしない。
利道と美穂子は互いに通じ合っていることは確かだ。巷では一応社長の愛人という噂だが早雲も身体には指一本触れさせない美穂子の性格に結構満足しているようだ。
利道と美穂子は心の中では夫婦のような二人の世界があるように思えて仕方がない。
昔、誓いあった仲とはいえまわりから見ればはらはらする。夫人の法子は温和そうにみえて結構激しい気性の持ち主だからだ。
この二人はそういう、おおっぴらなやり方で諜報活動などという大それた事は出来るわけは無いというおおかたの見方だ。おそらく早雲は人の良すぎるところがあるに違いない。敵に塩を送る律義な性格も内在しているのか。それともどこかで深謀遠慮的な意図があるのか。
早雲と利道のバトルは予測不可能だ。仁科たち三人は少なくともそう感じている。
美穂子は以前、安西グループの一員で、星加の勧めで北斗に入社している。利道がまだ安西にいたころ互いに意識し始めていた。その経緯は彼ら三人には知る由もない。
「私も一応社長の秘書なので疑われないよう結構気をつかっているのよ・・・」
「無理いってすまない。仁科君のデータはどうした?」
「社長に渡したわ。まずかった?」
「実はそのデータはダミーなんだ」
「ダミー?じゃあ・・・・・・」
「真っ赤なニセ物だ。そういうことだ」
「君らの気持を確かめたかったからさ」
「俺たち、そんなに信用できませんか?」
仁科が言った。
「すまん。そういうわけじゃぁ。
まず、北斗を変えたい。それが先決だ」
利道のいつもの撹乱作戦だ。実は本物のコピーだ。
利道は北斗の改革のこと以外は話そうとはしない。かれらを利用して事の成就を達成する計画も控えている。北斗の資金的な流れをうまく変えていくこともだ。
だが、先日二枚のデータを光夫にしっかりと見られている。利道は光夫がことの流れをつかんでるに違いないと察している。光夫に対しては懐疑的になっている。彼は光夫が早雲に関する一枚目のデータしか見ていないという話しを鵜呑みにはしていない。自分のデータが見られていないという保証はない。確立は少ないが情報の口外も心配の種だ。事は重大になってきていたのだ。
利道が彼ら三人を取り込まざるをえなかった理由はそこにある。彼ら三人は北斗の改革以外は知らないはずだが、利道はしっかりと値踏みをする必要があったのだ。
仁科の加入は予想外でもあった。利道にとっては苦手な人種ともとれた。相手の逆を縦横無尽に駆け抜ける恐ろしさを人に無意識のなかに感じさせるところがあるからだ。類は友を呼ぶということなのか。
「北斗のあとは・・・・・
その次はどうします?」
仁科が予想外の質問をした。
「君は・・・・・」
利道は余計な事には関わって欲しくない態度をあらわにする。
「北斗のことが済んだらその後のこと?
君たちは、いまは北斗の将来だけを考えてくれればいいんだ。制作マンを路頭に迷わす事だけはしたくない。それと一部上場の目標もあるから」
もっともな理由にみえる。
「わかりました・・・・・」
彼らは不安そうに承諾する。
「とにかく、いまやらなきゃダメなんだよ。思い切ってウミを出して人事を一掃する。汚い手を使うが分かってくれ。スキャンダルをマスコミに流す。社長には悪いが・・・」
利道は隠し通そうとしている。
「具体的に・・・。もう一度お聞きします。社員はどうなるんでしょう?」
また、仁科が質問する。
くどい質問に利道も誠意のあるように応えている。
「なに、心配することはない。手は打ってあるから。君たちは私に協力してくれるだけでいいんだ」
「計画の日時は?」
神田も迫ってくる。
「追ってその時期は伝える。社長のデータが完璧にになってからだ。パスワードの割り出し、是非協力してくれ」
光夫は一ヶ月前から半年後と聞いている。三人は相づちをうった。利道が彼らを取り巻きにした一瞬でもある。少なくても彼の笑みはそう語っていた。
「あっ、紹介しよう。支配人の四ツ木君だ」 仁科は殺気を覚えた。
「あの、四ツ木さんですか?」
光夫と神田は唖然としていた。
「まぁ、驚くのも無理はないだろ。あのころはTVのワイドショーで結構騒がせていたからな。あっ、君たち口外は慎んでくれ」
「よろしく」
四ツ木の携帯メールが他の客からきたらしい。アリスの迷路のような部屋の造りなので三人は状況をつかむのが難しい。
「ちょっと失礼するよ・・・・・」
仁科は別の部屋に入る四人の大柄な男とひとりの女の影をみていた。
「君たち、今日はゆっくりしていってくれ。私は他の用件で失礼するよ・・・」
いつのまにか利道と美穂子も四ツ木を追ってその影の集団と合流していった。
「光夫、ひょっとしたら俺たちなんか変なことに関わってねぇか?」
「なに、だいじょぶさ・・・」
「自信あるんだな」
「なんとなくな・・・」
「北斗はどうなるんでしょうね」
「仁科までなんだ。もう引き返せねぇぞ」
承諾したまでは良かったが、疑心暗鬼が彼らのなかに増幅している。
「とにかくやってみよう。ちょっと飲み直そうぜ」
三人はアングルを後にしてビアホールに向かった。利道は三人が帰るのを確認した後、四ツ木を呼び出す。
「もう帰ったか?」
「ああ」
「それじゃ、かれらと」
「あまり待たせるとまずいからな・・・」
「すみません。お待たせいたしました」
別の個室に待たされた客たちは利道の声に呼応した。
「いいから。いいから。
しばらくだね。いま大変なんだって?」
「いえいえ、それほどでも・・・」
「・・・・・・・」
彼らが心配しているのは北斗のことではない。利道の計画が予定通り進んでいるかどうかの確認の単なる社交辞令に過ぎないのだ。 四ツ木はあえて彼らの名は聞かないことにしている。諜報活動はいつどこで漏れるか分からない。常に言動は慎まなければならないからだ。四ツ木がD社のポストを失脚したあとは彼らに身を寄せた事実もある。アングルは実質的には四ツ木が経営しているわけではない。
「この度はいろいろとお騒がせしました」
利道は恐縮している。彼らが誰であるかは知っているからである。
国防白書によると国防庁の日本防衛隊は陸海空軍合わせて約三十万人の陣容である。航空機は約五百機・戦車約三百台・戦艦はないが巡洋艦の規模は約二百隻を誇る。憲法の制約も有り専守防衛ミサイルはあるが、相対的防衛核ミサイルは存在していない。
また表向きには航空母艦の建造や純国産の開発は日米安保体制下のなかでは難しい。日本の制空権は戦後いまだに米軍がすべて握っている。在日駐留米軍への費用は二千億円。 軍事費は米国とは大きくはなれて自由主義国の中ではナンバー2には入る。某国の国防予算四十兆円に比べれば日本の国防費はその八分の一だがアジア諸国にとっては脅威となる。ただ、戦後日本が復興するにつれ防衛隊の規模も予算額も膨れ上がっている。
世紀末と共に大戦前の独立国としての規模にはほど遠いと考える軍の幹部も多くなってきている。軍の中でもタカ派とハト派がありイニシアティブを握ろうと睨み合いも続いていた。確実に右傾化の波が根をおろし始めているのだ。幸い三咲が調整役に回り今のところ幹部をうまくまとめている。
利道の計画はあともう一歩のところまできていた。あとは、具体的な実施時期と軍関係・政治家への調整資金だ。やはり北斗の裏の資金が必要なのだ。
早雲の失脚もその計画のなかに組み込まれている。
利道の父赤城忠通は軍人であった。二二六事件を始め、その他のクーデター未遂事件にも名を連ねている。当時北一輝とも親交があり、陸軍では派閥争いが熾烈を極めていた。 統制派は二二六事件を計画した皇道派を押え太平洋戦争の主導権を握り国を難局に導いていった。苦汁を飲まされた皇道派寄りの将校たちは満州や南方戦線に駆り出され再び蘇ることはなかった。
忠通は二十年八月ソ連の不可侵条約不履行による交戦で満州で戦死したが、彼の最後の手紙が母ミチに届けられていた。まだ小学生の利道は疎開中であった。朝鮮戦争時、大学生になって初めて母から許可を得て文を手にすることになる。遺書というより普通の手紙だが、覚悟を決めた状況である事は間違いなかった。利道は忠通の無念さが身体の中を駆けずり回るのを感じていた。

『親愛なるミチ・利道へ。父赤城忠通。
いよいよ戦況も勝敗が決したと見える。過日ソ連が参戦したそうだ。この満州や中国全土が彼らの手に落ちる。本国でも軍は壊滅することだろう。真珠湾攻撃の際、山本氏は和戦両用の意をもって臨んでいた。
米国の策略がなかったなら戦争は避けられたかもしれない。彼らの方も恐慌のあと景気は回復し国力も増したかに見えていた。
だが、それまで諸外国から夢を追って移民が多く入植してくるが国としてはまだまとまってはいなかった。
ヒトラーが欧州を占領してもまだ米政府は国民への参戦のコンセンサスを得ていなかったのだ。彼らは要するにきっかけをつくらなければならなかったのだ。日本への全面的な石油禁輸、ジャップスなどという日本人への差別は半端なものではない。
本能的に人は考えることは同じで、日本も追いやられたら他の方法を探す他に道はなかったのだ。
確かに我が国は明治維新以来、戦争においては連戦連勝で、特に日露戦争は有色人種がアングロサクソン圏への初めての勝利で、イスラム圏を含むアジア全土では解放感で沸き返っていた。逆に彼らのプライドを傷つけていたのは確かかもしない。
虎視眈々と相手の出を伺う。千五百年前後から始まった彼らの植民地狩りは猛烈な勢いでネイティブな民族国家を占領し、いつの間にか国家の利益や資本の投資で被征服者たちの未来を奪っていってしまっていたのだ。
彼らは宗教という完璧な仮面を付け、服の中には武器をもち疫病をもまき散らす。弱肉強食という論理は生物が破滅するまでなくならないだろう。人類はここ何万年も変ってはいない。
米軍の無差別爆撃や原子爆弾の投下は当事者彼ら及びその子孫がこの地球上にいる間はその報復は覚悟しておかなければならないと思う。当然のことだ。
この先、日本も近々降伏せざるを得なくなるだろうが、彼らの論理には決して屈してはならぬ。これからは、お前たちは大和民族およびアジア(出来れば全世界)の平和と安定を目指すため努力する義務があるのだ。
私にとって無念なのはあの一件が正当化されなかったことだ。明治以来の焦りすぎた富国強兵で、庶民とくに農村では悲惨な状況が続いている。我が国も米国の金融恐慌の煽りをうけ金融不安と不作が市民の生活をひっ迫していた。
日清戦争・日露戦争・第一時世界大戦と三つの大きな戦争で権益を手にした日本は、軍部の台頭が顕著になる。陸軍幹部が日に日に力を増していったが、海軍とは一線を画していたようだ。軍閥が本流の統制派と亜流の皇道派の二つに別れ、青年将校達は軍や官界の汚職に天誅を下そうと小規模なクーデタ未遂事件を次々と決行する。歴史的な事件として二二六事件がある。お前が勉学に励んでいるころ詳しいことはいろいろと判明するだろうが、実は私もその皇道派の一員だったのだ。 彼らの理想に基づく国家づくりに賛同しその作戦に加わったわけだが、統制派の策略で押さえ込まれ失敗した。上官たちは全員処刑され部下たちは統制派に組み込まれ軍部の政権が誕生したわけだ。皇道派寄りの者は満州戦線や南方のカダルカナル戦線などに駆り出されていった。
軍や参謀本部は勝算のない戦いつまり米国の罠にはまり、彼らに連合国への参加の大義名分を与えてしまったのだ。
枢軸国は悪と見なされ壊滅させられる。ナチスドイツ軍の非情な行動はユダヤ民族に対する恐怖心と宗教的・人種的・特異ビジネス的な意味合いが混ざり合って国家的な目標に転化されたものと思われる。もう少しでこの戦争も終わることだろう。
想像だが連合国側は悪の枢軸国への勝利を逆手にとっていろいろな難題を浴びせかけてくることだろう。人民裁判はかれらの得意とするところだからだ。日本国の内外のイデオロギーもどんどん変化し、しばらくは我慢しなければならない。負けた側の基本的な態度にすぎないが。
これまでは、新聞社や報道機関はみな戦意高揚のための権力にすり寄っていたわけだが気を付けて欲しい。経済がいままで以上に自由になり、考え方も柔軟になる。
彼らはいつも時の権力には弱身を見せ、またうまくそれを活用しようとするからだ。彼らが生き延びていくためなのだ。その狡猾なやり方にも絶えず注意を払って欲しい。この先どのような政治家があらわれるかは分からないが、よく見極めろ。
この国には私が以前から関わっている国家機関を超えた、ある極秘の組織が存在している。その名と内容はここでは記さない。利道がそれ相応の年齢になったらミチから(または知人から)教えるようにいってある。昭和元年に発足したある遠大な計画とだけ記しておく。それ以上のことはここでは言えない。お前たちに危害が加わるかもしれないからだ。この文はしっかりと防水の入れ物にいれて土中に埋めて欲しい。
昭和二十年八月    赤城定道』
利道はその文は父の遺言と決めていた。
「大丈夫です。その方にお伝え下さい」
招かれた四人の客はなぜか多くは語ろうとはしない。
「分かりました。伝えましょう」
招待客は完璧なエージェントの第一陣である。その間にまた人を介する。実際の本人に到達するのは至難の業だ。彼らは現政権と深く関わっているからだ。利道にとってひとつだけ不安なのは寝返りがあるかどうかだ。保身に回らないとも限らない。彼らを信じるしかない。
「お伝えください。予定通りと・・・」
他の四人も相づちを打った。
そのうちの一人が切り出した。
「シビリアン・コントロールの件だが」
「それについては次回煮詰めます・・・」
「なるべく草案を急いでくれと・・・」
「私のほうは新政権の人事について再考してくれという事でした・・・」
「金融関係は全面国有化・・・」
「米国債はすべて引き上げ。それによって日本の財政赤字をゼロにする。そして不良債権もゼロに。あらたにユーロに資金をシフトさせる・・・」
「安西は全面的に黙認する模様・・・」
「安西さんは静観ですか?動くと思ったが」「やはり彼には無理なんでしょう。バランス感覚がありすぎます。情報も一切流してくれない・・・。困ったものです」
防衛隊関係の男が安西を批判した。
他の彼らも呼応する。
「こちらはシーレーンの範囲・・・」
「インターネット・通信・TV局・ラジオ局・マスコミ各社の占拠は予定通り・・・」
「米国政府へは水面下で調整中。安保は条件 付き破棄と・・・」
「航空機は順調に進行中・・・」
「空母はある人から十隻という話です」
「核の用意は・・・ここでは黙秘します」
「とにかく今は資金が先だ。利道さんを頼り にしてるというお達しだ。
とりあえず二千億・・・」
「了解しました・・・・」
利道の背が汗でにじむ。彼らの話しの中に計画外の事もあったからだ。
「きょうはごゆっくりしていってください」「悪いね・・・・」
「支配人。あとはよろしく。私は社に戻りますので・・・・」
社ではなくホテルだ。
利道は社用の車でアングルを後にした。
美穂子も時間をずらして向かった。

星加と早雲はパーティー会場で談笑している。政財界のパーティー券は一枚四十万円にもなる。見渡せば二千人はいる。大見栄を切って五十枚だと二千万円にもなる。不況感と閉塞感が有るにも関わらずだ。
あるところにはあるものだ。ご祝儀もあるから占めて約二十億円は集まる計算だ。パーティーの経費はその十分の一にすぎない。
「早雲君、結構集まったもんだね。君もたいしたもんだ。こんなにどうやって・・・・・現職大臣は全員出席ときてる・・・」
「そのようですね」
「例の方は流れてるか?」
「ええ。いつものように・・・」
「そうか。いつもわるいな」
「あのプロジェクトの件ではありがとうございます」
「ああ、いいんだ・・・・」
「今日、プレゼン会議でうちの者がご迷惑かけたとかで。申し訳ありません・・・」
「ああ、そのことか・・・」
「強くいっておきますから・・・」
「その必要はない。その逆だよ」
「・・・・・・」
「なにね、うちのスタッフのほうが反省すべきところが多々あるから」
「そうですか・・・・」
早雲は胸をなで下ろす。
「あの、仁科君といったね。たしか・・・」「ええ」
「なかなか骨のある青年じゃないか」
「そうですか?」
星加は機嫌が良さそうである。早雲はデータの件で仁科たちが関わっているので、複雑な顔をしている。利道たちにうまく利用されていなければいいが、と心配もしている。
星加も時折、影を見せる早雲の横顔が目についていた。
星加は隙だらけの早雲よりも度量が一枚上である。だが、かれはそういう早雲の人のいい性格を好んでもいる。
会場のロイヤルシートには安西がいる。
現職の総理大臣や与野党の各幹部にも睨みをきかしている大物だ。簡単にはいかないが安西の出方次第で日本の方向が決まる。そういう緊迫感が政財界の首脳クラスの間に徘徊していることは事実だ。ただ、今のところ、安西は思想的にはハト派に属している。彼らは内心ほっとしている。
星加は表向き安西とは親しさを表に出そうとしない。意外と律義な男だ。早雲も星加には一目置かれていそうな気はするが、それは出来の悪い義兄弟というレベルでの話だ。安西は早雲とは話したことはない。早雲にとっては雲の上の存在だ。星加に何とか食いつないでもらっている子供のようなものだ。
早雲は安西龍太郎をみて愕然とする。風貌にしても中身にしても太刀打ちできるような相手ではない。比べるほうがおかしい。星加の場合は立場が早雲とは異なる。業界のトップクラスの社を構えているとはいえ、安西の前では猫のように丸くなる。カダルカナル戦線での事は星加はいまだに忘れてはいない。 身を挺して敵の銃弾から身を守ってくれ、脱出前に飲み水が底をついたとき痛みを堪えて小水をくれた男。
安西が星加に席を立って話しかけてきた。星加は適当に理由を見つけて(のちほど、のちほど)と逃げ回る。安西は困ったものだねと笑みを浮かべる。星加にとっては神様の笑顔だ。安西の子息も三人招かれている。星加の取り計らいだ。安西を支える最強の後継者でもある。そのなかには朋美の父親もいる。 早雲も光夫もそのことは知らない。朋美は星加の紹介で北斗に入っている。子をもうけたことは星加も知らされてはいない。安西が気をつかってのことだ。
マスコミも調べてはいるが、戦後の安西の情報はまったくわかっていない。分かっているのは今現在の憶測だけだ。株式市場にも姿をあらわさない。最近わかったことはバブル以後少しずつ姿をあらわしつつあったことだけだ。スクープを出そうにもガードがあまりにも堅いのだ。
あくまでも憶測だが、つかめているのは、
・安西インターナショナルという名称
・総資産四百兆円
・グループ年間取扱高は数十兆円
・スタッフは国内国外あわせて数万人
・私立の大学病院と学校法人を経営
・多くのITやバイオテクノロジー・宇宙理 論の研究機関を世界各地に展開
・米国も恐れるネットウイルスの研究
・世界的規模の軍事システムの研究
・最新航空母艦・航空戦闘機の開発
(空母は第七艦隊よりも大きいという噂) ・マッハ3の通常戦闘機
・石油を必要としないエネルギー物質の研究(重力を利用した動力装置)
・独自の金融システムの存在
・独自のハウスエージェンシー
・潤沢な政治献金で歴代の総理・政官界・医 師会・財界・D社に強い影響力を持つ。
大ざっぱな情報以外はこれが限度だ。
総資産については国内だけのものだ。全世界あわせればその何倍になるか見当がつかない。マスコミも焦るわけだ。
軍事関係は全く情報がない。国内の総資産についてはバブルがはじけた後の日本の国債残高の額とほぼ同等になる計算だ。
各省庁のトップクラスの役人は招待されているが、なぜか国防庁だけは招かれてはいない。星加が早雲に指示して国防庁の幹部に参加の有無を確認させたが、あいだに利道がクッションとなっている。日本のこの大事な時期に少しでも軋轢があってはならないという総理の意見もあった。利道は独自のやり方で事を構えるらしいという各界での裏情報もある。当然マスコミにはご法度だ。
安西のシークレット情報はマスコミには絶対漏れないようになっている。日本が危険を感じたときは、自動的に強烈な破壊力をもつネットウイルスを飛ばすようになっている。 アメリカの施設やペンタゴンの軍事施設のセキュリティシステムがそれによって壊滅的な打撃を受ける。それに軍事衛星は使い物にならなくなる。
核弾頭などの発射も不可能となるのだ。
強力な「ブルーモンキー」というネットソフトが完成した。各国が所有している核やミサイルを自動的に自爆させることが可能になったのだ。それとは別に、安西の研究機関では全世界をコントロールする軍事システムを完成したばかりでもある。新しい宇宙理論に基づく動力エンジン開発の新情報もある。発表は当然非公式でも行われない。
水面下では各国のスパイがかなり入国しているという。米国防総省は民間企業にも安西情報を依頼しているという話しだ。セブン・センスも例外ではない。だが昔のジェームズ・ボンドの様にはいかない。ガードが完璧だからだ。ネットでも無理だ。下手にアクセスしようとすれば警告を受ける。三回無視すれば世界のネット社会は終焉を迎える危険もあった。各国も慎重に歩調を合わさなければならない。日米安保体制は有名無実化となっている。
安西が米国に恐れられているものはそれだけではない。MITのレベルをはるかに凌ぐ優秀な人材を世界から引き抜いている。もちろん、米国本土からもだ。帰化を前提に。

利道はこのころ、日比谷のホテルの一室でくつろいでいた。結城美穂子がハーブティーを注ぐ。
「利ちゃん、少しあせり過ぎよ・・・」
「そうかも知れんな・・・」
「だったら・・・」
「でも、もう止められないんだ」
「あの人たちのこと?」
「・・・・・・」
「ごめんなさい。女が口出しすべきことじゃなかったわね」
「いいんだ。そういうことじゃ・・・」
「法子さんとはうまくいってる?」
「まあな・・・」
利道は迷惑そうに聞いている。
美穂子には利道の何となく思い悩んでいる姿が母性本能をくすぐる。安西にいたころからだ。事の良し悪しをかえりみずに突進する果敢な男とみている。正義感はあるかどうかはわからない。ただ、危なっかしい性格は直す術がない。
利道は美穂子がまだ安西グループの一員であることは知ってはいるが、いまだに素性はわからない。聞いても話そうとはしない。将来を誓い合った時もだ。
会長の安西がなぜ横やりをいれ、社にとどまるように言ったか分からない。安西も自分の事は一切話そうとはしない。美穂子との関係もだ。安西の計画があまりにも遠大だったためにとらえどころのない所で亀裂が生じていたのだ。安西とは思想的にも共通するところが多々あるが、あまりにも悠然と構えすぎるところが欠点だ。このままでは生きている間は何も起こらないかもしれない。利道からみれば安西はいまだ公表していないある計画(利道には理念しかわからない)を次の世代に引き継ぐのではという噂も聞いていた。
そうすると利道たちは単なるコマに過ぎないのかと憤っていたことは確かだ。性急すぎたかどうかは未来が決めることだ。利道は十数人を引き連れ安西を後にする。あれから十五年が過ぎた。父の言っていたある組織はいまだに分からない。その計画はいままで何世代も引き継がれているに違いない。
安西は確かに実力者だが世の中を変えるにはあまりにも穏やかすぎる。保身に回っているのかは定かではない。やはり彼は理想主義者でしかない。いまは日本のシステムが崩壊しようとしている矢先だ。何もないというのは一体どういうことだろうか。安西が利己的に日本を裏で操るのはたやすいことかも知れないが表立ってはそう簡単には行動はできないだろう。やはり、事を実践するのにはコンセンサスがなければならない。利道は自分がやらなければという焦りにつながっている。自らが先兵隊を志願したようなものだ。父との約束は鉄のように硬い。どうしようもないことだ。利道には正義感というものは無いように見える。本来はそうであったような気は彼自身知っているはずだ。だが、いまはそれどころではないのだ。
利道は四ツ木に携帯を入れる。
「よ、利。どうかしたのか?
みんなかえったよ・・・・」
「ごくろうさん」
「ところで、ひとつ聞きたいことが・・・」「なんだ?いやこっちもだ・・・」
「彼らの言ったことだ。ほんとなのか?」
「わからん。制服組の考えそうなことだ」
「しかし、どこにそんな金が・・・」
携帯の音が変だ。
「四ツ木。すぐ電話切れ・・・」
「・・・・・」
四ツ木は黙っている。
「この電話、盗聴されてるぞ。
こっちにこれないか?」
「場所は?」
「だから言ったろ」
「ああ、そうだった例のとこだな。
二時間後にいくよ」
「いまから来いよ」
「誰かいるのか?」
(四ツ木も感が鋭いヤツだ)
「いや、だれも・・・」
「じゃ・・・・」
利道と美穂子は四ツ木の気の使いように感謝する。しかし、誰かに聞かれていることは間違いない。そうか、このホテルか。
二人は一瞬ナーバスになる。
痩せ型の均整のとれたフォルム。口調が上品で面長の顔立ちは利道の情欲をそそるが、美穂子は受け付けようとはしない。彼女は人の気持ちにはものすごく敏感だ。
それにあの鉄壁の貞節感はよけい男の情欲を倍加させるのだ。女のストイシズムのかたまりは壊れそうにもない。
早雲も利道もそういうものには結構弱い。放ってはおけない男の性なのだ。それと土俵がせまいとばかりに美穂子は男たちをがんがんたしなめる。銀座界隈のママたちにはそういう傾向がある。男はそれに陶酔する。前向きになる。
単純と言えば単純だが心の根は複雑だ。ママたちは男たちに日本を背負っているのだという自負心と優越、そして幻影をまき散らす。彼女らはそれらを共有して男たちを崖から突き落とすのにスリルをおぼえる。そういう感じが美穂子にはある。
「ダメだってば・・・」
利道は美穂子の白い首筋に軽く接吻する。「わかった・・・・」
言葉とは裏腹に美穂子は仰向けになる。
乗馬と水泳で鍛えたバランスのとれた肢体はドレスの上からでも容易に想像できる。妖艶な大腿部が窓のひかりで様々な色に変わる。白からローズへ。カシュミールへ。そしてサクラ色へ。
「ごめん・・・」
美穂子はストイックな心を解凍しようとはしない。
「いいんだ・・・」
「わたし・・・帰るわね・・・」
「ああ・・・」
利道には美穂子の気持ちはわからない。
(なぜ強引に犯さなかったの)
二人は見つめあうことはしない。残像は焦燥感が残るだけだからだ。
二人はうつむいたままだ。
「美穂、くれぐれも社長には気をつけてな」「わかってるわ。でも、表向きには会っても疑われないから。彼も結構、人はいいのよ」「それもそうだが・・・」
「大丈夫。私たちの本当のことは知らない筈だから・・・」
「二重スパイも大変なのよ・・・」
「悪かった・・・」
「じゃぁね・・・」
利道は美穂子の手を握る。
彼女も握り返す。
四ツ木が来るまでまだ時間がある。早雲たちがパーティーをやっているPホテルを眺めながら物思いにふける。
(何とかしなくては・・・)
利道はアングルでの彼らのメッセージが気になっていた。
(空母って聞いてないぞ。それに航空機は。核の話もしていたな・・・。何のつもりだ。現有の規模で事を起こすという話しではなかったのか。とりあえず軍資金の手はずが必要だ。金の調達をしなければならない。北斗の裏金を使う事になるが、とにかく早雲のパスワードを手にいれなければならない。その他のデータもだ。
それがわかれば鍵を握れる。北斗を手に入れる事が出来る。早雲にとって代わり、星加を利用することも可能だ。
彼の弱みを握ってマネールートを完璧にする。資金はいくらでも手に入る。緒真留たちが、うまくやってくれればいいのだが・・・ 四ツ木がドアをノックしている。
「よっ、どうした?帰ったか?」
「どうしてわかった?」
「まぁ、なんとなくな・・・」
「ちょっと、やろうぜよ・・・」
土佐っ子の四ツ木は酒豪だ。
「おまえ、美穂ちゃんとは・・・」
「なんにもないよ」
「あまり彼女とは会わないほうがいい」
「そうだな・・・」
「昔のことは俺も知っているが、なにせこの大事な時期だ。早雲に漏れたらヤバイ」
「だが、彼女のこと悪く言うのは・・・」
「すまん・・・」
少しアルコールが回ったようだ。
二人は本題にはいる。
「さっきの話のことだが・・・」
利道が我先にと切り出す。
「俺も驚いたぜ・・・」
「防衛隊のまとめ役は俺の親父と226決起軍での同期だった三咲仁蔵さんだ。軍関係の話しは彼を通せば、ほぼ間違いない。母もそう言っていた。信じていい・・・」
「よく分かっている。俺も信頼しているさ。海原の会の顧問だからな。その息子である晋作さんも防衛隊の次期幹部候補だ。いや実質的なリーダーだろう。人望も厚い」
「空母と航空機のことだが。どう思う?」
「絵そら事だよ。彼らによくある願望さ」
「切望かもな。でもそれを造るのにいくらかかると思う。おれは一隻五千億は下らないと思う。十隻で五兆円。それに純国産の戦闘機は一機百億円。千機で十兆円。それだけで十五兆円だぞ。星加の売上高と同じくらいの戦費調達は絶対無理だ。国民の目も厳しくなっているしな・・・」
「利、一番気になっている事がある」
「なんだ、四ツ木・・・」
「核の話しが出かけたが・・・」
「それは彼らの意志表示だ。焦っているんだろ。これから核なんか必要なくなるし、時代にも逆行している。まったくナンセンスだ。現有勢力で十分やれると制服組は自信をもっているんだ。
それに、あの二発の原爆をみてもわかるだろ。いまだに尾を引いてるじゃないか。国内や国外からもコンセンサスは得られるわけがない。かりにクーデターが成功してもだ。
単に俺たちにシグナルを送っているだけなんだよ・・・・三咲さんに聞けば全てわかることだ」
「とにかくもっと資金ということだな」
「そういうことだ」
「完ぺきな無血クーデターをするのにはただ単に軍事的な事だけではダメだってことか」「そうだ、もちろんだ。与党・野党・新党たちへの調整費も必要だ。今度三咲さんや軍の主流派達と極秘の会合がある。計画のシナリオがある程度出来ているらしい」
「シナリオ?」
「そうだ。シナリオだ。今後十年間のだ」
「もう後戻りは出来ないな・・・」
「そういうことだ・・・」
「だが、北斗を乗っ取るといっても一筋縄ではいかないぞ。資金があればいいんだ。乗っとるまでもないと思うが」
「おまえの言うことはもっともだ。だがな、ここはひとつ目をつむってくれ。北斗と星加がリンクしたバックマネーシステムを目にした以上・・・」
「わかった。事情は聞かないさ。」
「悪いな」
「よくわからないが、これだけはいっておくぞ。おれはお前の味方だぜ・・・」
「ありがとう・・・」
四ツ木は利道の言うことは手に取るようにわかっていた。
利道がここまで北斗にこだわるのにはわけがある。
二二六事件では間者が数人いたが、早雲の叔父もその一人で利道の父とは信頼関係があったようだ。
結果的には裏切られたわけだが、ただ単にリベンジーな心境ではなく早雲には偶然出会ったに過ぎない。父の遺言が利道の唯一のバックボーンなのだ。
四 パスワードをさがせ

緒真留光夫が偶然にも利道のデータを見てしまったために、彼はその後、精神的に拘束され、監視の目が至る所で蔓延る事になる。 早雲が全社員に組織替えの告示をする一カ月前のことだ。光夫は利道の指揮している調査部で深みにはまってしまう。
光夫はコンペの原案を作成している企画調査室に足を向けていた。企画調査といってもそれは表向きで実情は利道の国内外の諜報機関と化している。北斗の実務的な調査は単なるマーケティング調査だが、利道にしてみればお付き合い程度のようなものだ。
北斗の仕事を優先する場合ではないのだ。百人の陣容を誇るこの精鋭部隊は彼が選りすぐって北斗に呼び寄せたものばかりだ。北斗の関係者といっても二、三人の派遣社員だ。 早雲でもこの部署には立ち入ることが出来ない。利道のコアスペースだからだ。二重三重の暗証番号を入力しないと入れないシステムになっている。それと係員の口頭質問がある。ルームの中は複雑な迷路でできている。光夫は結城美穂子がたまたま入ろうとした時に割って入ってしまったのだ。互いに面識もあったために美穂子も油断したようだ。
光夫は迷いこんで窓際の奥に辿り着いた。「どうして君はここにいるんだね」
利道は驚いている。
部下の尾上正雄もいる。美穂子のアドリブでかろうじて助かったようなものだ。
光夫が原案をもって去ろうとしたとき、三人はかなり焦っていた様子だ。なにやら困っているようだったので何事ですかと聞いてみる。利道たちは、エラーでデータが読み取れないといっている。CD│ROMのデータが青いケースに五枚あった。
大事なデータなんでしょと光夫がいうと、なぁに大したものじゃないよと利道が言う。ちょっと見てくれないかと頼まれる。利道は光夫の顔を確かめるように見つめている。
光夫は一瞬利道が自分に変な気を起こしていたら困るなという態度をあらわす。
(まさか男色じゃ。眼が潤んでいるし・・・ 冗談じゃないよ・・・)
利道の額に汗がにじんでいた。光夫はそうでないことがわかりホッとする。エラーが少し修復された。各ディスクにタイトルと案内文がテキストデータで入っている。
「緒真留くんといったな・・・」
「読んだか?」
「ええ、少し・・・」
「どれが読めた?」
「一枚目だけです・・・」
「あとは?」
「パスワードがないと見れませんね」
「パスワードか・・・」
「そうです・・・」
光夫はあきらかに嘘をついている。
場違いなものを見てしまったような気がしている。
最初のデータはパスワードの入力がが必要であった。早雲の側近、久保が利道に売りつけたものだ。彼は年の老いには勝てず突然、脳溢血で倒れる。現在では意識不明だ。当分の入院が必要でリハビリで良くなる可能性は低い。植物化は免れないと担当医師は言っている。パスワードは闇に消えた。三人がお茶を飲んでいる間に、光夫は適当にアルファベットと数字を打ち込んでみる。画面が出た。キーボードの打ち込みがランダムだったので当の本人も他の三人も覚えていない。北斗と星加物産がリンクしているバックマネーシステムだった。政官界への不正献金・贈収賄の人物リストが多数載っている。現職の大臣や防衛隊・官界の大物クラスもだ。諸外国への大統領候補への政治献金リストもあった。膨大なマネー量だ。二兆円は下らないだろう。早雲は橋渡し役にすぎない。一分後にすぐ消えた。再びパスワードの要求があった。
次のデータは利道のデータであった。ある計画書だ。単なる経営改革の様にも見えるが言葉の引用が尋常ではない。226事件や、クーデター、北一輝・・・。北斗の改革のための提案書にも関係しているのか?あえて、利道には見ていないことを態度にあらわさなければならない。一分後に画面が消えた。
三番目は国防庁の最新データらしかった。 四番目は四ツ木のデータだ。貴子と早雲の調査資料だ。この二枚はすぐ見れた。
最後のデータは見出しだけは読み込めた。『日本及び世界改革プログラム極秘委員会』という文が薄く視えた。一度みたら数秒で画面が消える様になっていた。後はパスワードを三つ入力するように要求され、すぐログアウトしてしまう。利道でも分からないデータを目にした光夫はすこし不安になった。
(大変なことになる・・・・)
利道が荒い息で話しかける。
「社長のものは見えたということだな」
「・・・・・」
「緒真留君、ちょっと私の部屋に来てくれないか。すぐに・・・」
光夫は何か見てはいけないものを見てしまったような気がした。利道のある計画のタイトルとリード文を読んでしまったのだ。
見たとも読んだとも言えない。利道は読まれたと見ているようだが光夫には見られていないそぶりをする。内心は読まれたと直感していた。光夫にはなにげなく隠密に話しておかなければならないと考えた。
「緒真留。見たんだろ?君には迷惑はかけないから、正直に言ってくれないか」
「見たのは一枚目のデータだけです」
「そうか・・・。何がかいてあった?」
「ひとつ聞いていいですか?」
「なんだね?」
「バックマネーシステムっていうのは?」
「そのことか・・・」
利道は少し開き直っている。
「読んで字のごとしだ・・・」
「・・・・・・」
「つまり、社長は創業時からのし上がってきたわけだから、いろいろあるだろう」
「はぁ、何となくわかります・・・」
「社長はバブルがはじけて北斗の蓄えを一瞬にしてなくしてしまったわけだ。実質的には倒産してもおかしくない状況だったんだな。 星加物産は創業時の影のオーナーだ。会社の成長のラインもほぼ同じだ。彼のおかげで北斗は立ち直ったんだが、早雲社長は完全に足下をみられてしまった。支援する代わりに早雲は星加から話しを持ちかけられ、あるシステムを作ったんだ。いわゆる裏のマネールートだ。政権は移り変わりの激しい世界だ。献金や贈収賄資金はそのルートを通って各大臣に渡る。当たり前の世界だ。直接じゃないぞ。当然だ。秘書は関係ない。二重、三重の防壁があるからマスコミも捜査当局は手も足も出ない・・・」
利道は早雲への遺恨は頭にないと言ったが潜在的には仇を討つ気持ちも無きにしもあらずだ。そのことは四ツ木しか知らない。
半年後にはクーデター計画が待っている。北斗を潰さなくても資金は横領出来るのだからやめておけと四ツ木は忠告するが、利道はやるつもりだ。早雲に脅しをかけ、北斗の実権を握る。資金をどんどん計画に投入する考えだ。星加もばれたら困るので協力するしかないだろう。
「彼がいるかぎり北斗の未来はないぞ」
「そうだったんですか・・・」
「だから早雲社長のデータが必要なんだ」
「・・・・・・」
「このことはしばらくの間絶対口外しないでくれよ」
「時期はいつごろですか?」
「日時は決まっているが、半年後だ」
「それとあとひとつ・・・」
「まだあるのか?」
「セブンセンスというのはアメリカの大手の広告会社ですよね?」
「それがどうした?」
「早雲社長と深い関係があるようです」
「セブンセンスの会長はウイリアム・カーペンター。秘書がジュリア・クリスティー。リンダ・クラークはスパイだ・・・。何かを狙っているようだ・・・」
「そうです。かれらの名があったんです」
「ありがとう。それだけでも大収穫だ。君が見たとはな・・・だれも見れなかったのに。でも、もう見れないんだろ?暗証番号がいるんだったな・・・」
「必ず思い出してみます・・・」
「悪いけど、たのむよ。密約の情報が欲しいんだ・・・」
「はい・・・」
光夫は後には引けなくなっていた。
「いやなことまで知ってしまったな」
「いえ・・・」
「君も秘密を知った以上、私との約束をまもってくれるだろうな・・・」
光夫の心中は穏やかではない。
「是非協力してくれよ。あと二、三人はほしいな。北斗の改革の後は君にすべて任せる。これからは単なる制作マンじゃやっていけなくなる。米国じゃ、代理店の経営形態の変化やM&A(合併・吸収)が日常茶飯事だからね。もっといろんなこと考えて・・・」
利道も根も葉もないことを良く言うものだと感心したりしている。
「営業は別として、制作マンを多数抱えるということは北斗の営業純利益を圧迫するということだ。取扱高が増えてもマージンが取れないと一人当たりの純利益は少なくなる。よって、君たちへの年俸は出せなくなる。つまり最小限のスタッフでもいいことになる」
「ですが、制作担当者がいないというのは。代理店はマージンが取れれば・・・」
「それは君、ディレクションの能力次第だ。制作管理者の問題でもある。ただ単に営業に依頼されたキャンペーンを外注プロダクションに丸投げで発注する。それもかなりの低予算でやらせているだろ。しかし、中には社内の制作者は制作費のピンハネを狡猾にやっているものもいる。ディレクションも適当にやり、自己啓発も自己実現もあまり意識しようとしない。制作費の総額は変わらないのに制作者に入ってくる利益はあまりに多すぎる。外注費に三十%も上積みをして営業に請求するからだ。あとは外注サイドからのバックマージンだろ。額は微々たるものだが彼らから見れば仕事を振り分けてくれるわけだから発注者への少しぐらいのお礼は・・・ということになるらしい。真偽のほどは分からないが。営業利益は全く出なくなる。営業サイドからの不満は最高潮に達しているんだよ」
「ではどうしたら・・・」
「スーパーディレクションの出来る公正で優秀なスタッフが四、五十人いれば事が足りるんだよ。北斗のクリエイターたちは業界でも名を馳せてはいるが、専門だけの領域から脱するのにはまだ時間がかかるだろう。クライアントのキャンペーンをすべて把握し、マネジメントと創造的なワークフローを創出してもっと利益をガンガン増やすようにしていかなきゃぁ。他の広告代理店より未来志向が薄すぎる。もっと若いやつらをどんどん仕込んでくれ・・・」
「他のスタッフはどうすれば・・・」
「八割は完全独立採算の子会社でやってもらう。完全な制作プロダクションにする。赤字の場合は社をたたむ・・・。これは早雲社長と私の唯一の共通点だ」
「八割ということは二百人・・・」
「一ヶ月後に社長から組織変更について何らかの発表があるだろう。あまり詳しくは知らないが・・・」
利道が制作マンに気を使っていることがわかる。北斗の改革・実権掌握と綿密な軍事クーデター計画は同時に進行しているようだ。 しかし光夫は北斗の改革の裏で何を画策しているのかうすうす気づき始めていた。
利道はまだ、はっきりとしたことは言っていない。言わないだろう。かなり慎重だ。言葉を選びすぎている。人の品性にものすごくナーバスになっている。過去にいくたびか、裏切りにあっているからだろう。光夫は内心分かるような気がしていた。
「とにかくはやくパスワード割り出してくれ。データはこれからコピーするがくれぐれも取り扱いには注意してくれ」
「はい」
「尾上、コピー、五枚頼む。緒真留君に渡してくれ」
「分かりました・・・」
光夫は後日、神田にその内の一枚を吉祥寺で渡している。早雲の側近が利道に売りつけた一枚目のデータだ。
「おおあずかりします。分かったらすぐご報告します」
美穂子と尾上はまだデータの再現に必死だが無理のようだ。
「あ、そうだ来月例のところに来てくれ」

貴子は田町にある白鳥銀行の会長室でくつろいでいた。早雲の依頼で矢島幸三に会うためだ。総預金総額百兆円の国内でも大手の銀行だ。バブルの影響はほとんどなく不良債権も限りなくゼロに近い。ただ最近は優良から危険水域に近づいている企業の数も増えているが大きなところはない。自己資本比率も、三十%は優に超えている。米国の格付調査会社も最上位の数値だ。ペイオフ対策でも駆け込み預金者が後をたたない。信用も厚い。バブルの頃は先を読み十分な利益をあげている。他企業から見れば当然嫉妬の対象となる。星加と北斗は運命共同体経営関係にある。間に立った矢島は個人の判断で融資をする。
矢島は戦後シベリア抑留中に凍傷で両腕を無くしてしまう。復員後前社長に迎えられ、トップに登りつめる。数々の結婚の斡旋もあったがハンディの負い目から女性から逃避している。女嫌いではない。むしろその逆で倒錯した世界に身を置くことに唯一の生き甲斐を感じてしまう。公紀良俗に反することとは知りながら本性が許してくれないのだ。早雲の開けっ広げな性格とは違う。かなりのストイシズムの持ち主だが、実際には極端なフェチシズム愛好者だ。週末になるとよく変装をして新宿歌舞伎町界隈の風俗店に出入りしているようだ。時には女装もする。お好みの女を口説いてはホテルに誘いプレイをしてもらう。自宅の書斎では巨乳美女のビデオは何千本も各国から取りそろえている。
矢島には持論がある。
女はエロティシズムと優雅さと知性・品性の高さ、そして優しさと男への変幻自在な攻撃性がなければならない。それに肉体的な事でいえば均整のとれた肢体とアンバランスな局部の発達(胸だけではない)が合わさって完璧な女性の理想的な姿ができ上がる。
今においては彼女たちはあまりに男たちを野放しにさせすぎている。女にはもっと羽ばたける自由な空間・時間があってもいいはずなのだ。古代においては男たちは女たちの付属物であったに違いない。現代にアマゾネス軍団があらわれて女たちで世界を支配した方が平和のためにもいいのだ。矢島は著書のあとがきにはいつも記している。
貴子は矢島の好みではなさそうであった。美形だがあまりにも身体がスマートすぎる。 矢島は業界内ではカリスマ的な存在だ。星加と北斗のメインバンクでもある。政官界への闇の献金は二重三重のダミー会社を通って行われる。不良債権とは星加物産と同様無縁だ。矢島はいたって紳士をふるまう。早雲とは性格が正反対にもみえる。
「おまたせしました」
グラマラスな女性秘書があらわれた。
大きな胸が制服からこぼれて落ちそうだ。刺激的な女だ。時折、双丘の深い谷間が見え隠れしている。着こなしがややぎこちない。貴子には何かの行為の途中にも見えた。妙に落ち着きがないからだ。女の感だ。
ドアが開いた。矢島がゆっくりと姿をあらわす。少し不機嫌そうだ。色白の長身でがっしりとした体格で、眼が大きく彫りも深い。早雲の言っていた通り穏やかで気さくな感じだ。貴子はある程度の覚悟は出来ていたがホッとしている。いくら紳士とはいえ相手は何らかの期待をしているかもしれない。
早雲と年齢は同じくらいとみたが・・・。「待たせましたね。まぁ、どうぞ・・・」
「ありがとうございます・・・」
矢島の目は態度とは裏腹に潤んでいる。獲物を捕らえたという眼だ。貴子にはわかる。 矢島は貴子の様子を監視カメラでしばらく視ていたのだ。しっかりと値踏みされていたわけだ。彼の好みではないと見たのか、いたって会話は無機的になる。
本性は見えそうもない。
「早雲さんはお元気ですか?」
「ええ・・・」
「これに入ってますから・・・」
貴子はA4サイズの封筒を渡される。
「極秘ですから。よろしく・・・」
「最上階のレストランでもご一緒にいかがですか?」
女性秘書も一緒だ。矢島には隙がない。両手が不自由とみえる。義手のようだ。
二人はしばらく巷の話で盛り上がってはいるが矢島の顔は遠くのほうを向いている。
「さて、そろそろ行かないと。打ち合わせがあるものですから。加藤くん、車の手配をたのむ」
矢島は女性秘書とは深い関係にある。大内の事務所から派遣されている。いつも近くに好みの女がいないと落ち着かないらしい。
「失礼します。社長からあとでご連絡させますので・・・」
「いいんだ・・・。お気遣いなく」
貴子が去って秘書が戻ってくる。会長室には鍵がかけられる。
「突然でしたね。やっと帰ったわ」
「いつも悪いね・・・」
早紀子はその言葉に弱い。矢島は無愛想だが体内から特殊なフェロモンを発している。 女性秘書は上半身のはちきれそうな制服を脱ぎ捨てた。奇麗な白い巨乳にオイルを塗る。双丘が矢島の顔をやさしくつつむ。
「どうですか?口で回して舐めてくださる。やさしく・・・」
矢島は体の中心が熱くなるのをおぼえた。 深遠な胸の谷間にはロマンがある。男ならだれでもそう思うはずだ。清楚な夢の世界だからだ。矢島はグロテスクな局部に興味はない。いつもの口癖だ。
女にとっては妊娠する心配はないので矢島とは安心してプレイできる。風俗界ではそういう風評だ。矢島はプレイを強要したりはしない。いつも自然な気持ちに任せている。
大内の事務所では希望者が早紀子以外にも多くいるそうだ。矢島は公平にローテーションを組んで彼女らを社内に抜擢する。咎めるものはだれもいない。
「ありがとう。もういいよ。君はいつ見ても素敵だね。感謝してるよ・・・」
加藤早紀子は派遣されて以来、矢島の温かさに惹かれてしまっていた。純粋に。
「私にまかせて。ごめいわく?」
「いや・・・・・・でもいかん。
もうだめだよ。君に迷惑がかかる。
大切な君の胸がよごれてしまう。
やめなさい・・・。うっ・・・」
彼女は豊かな胸の谷間に矢島の堅く逞しい巨樹をむかえ激しく擦りつけた。
「だめ。もう少し。我慢して・・」
巨樹から白い液体が早紀子の胸の谷間に激流した。バストの下で食い止める。逃げ場がなくなった滝の流れは巨大な乳房にあふれだした。早紀子はその液を胸の全域に塗りはじめる。自発的な彼女の行為は大切な日課となっている。次週には別の子が秘書としてやってくる。早紀子のいる間は矢島への印象を悪くしたくないだけだ。店ではいつでも会えるわけだから寂しさはない。一流銀行の最上階の会長室でのシーンは思い出にもなる。
矢島は個人的な関わりで、風俗業界を取り仕切っている広告専門会社や制作プロダクションにも無担保で融資をしている。
新宿の歌舞伎町界隈の一角に十五階建の自社ビルをもつビッグティッツ広告社がある。大内大介はオーナーであり、旧知の仲だ。
その自社ビルの地下三階にある「ニップルクリニック」というVIP会員専用の店も経営している。矢島は大内の個人的な経営顧問でもある。
ニップルクリニックは独立した大内と矢島の秘密のサロン店だ。四ツ木のアングルという銀座の高級サロンとは完全にリンクしている。政官界や経済界の大物、有識者等の数えきれないほどの人数が登録している。現職の国防庁の役人や警官、国公立の教職関係者も多くいるようだ。店の女達はみな高学歴で容姿端麗でもあり、人を癒す力と雰囲気とを持ち合わせている。店内で女装になる男性客もいる。中には自分のことを棚にあげて、彼はきっと女性ホルモンがあふれているのだろうと勝手なことをいう変わった客もいる。店は完全なチケット制を敷いている。一元さんでは到底無理だ。紹介があれば潜り込める。
大内は愛人を三人囲っている。愛人といっても彼女たちがイニシアチブを握っている。 矢島の自宅には時折その愛人たちが押し寄せる。大内の強制で来るわけではなく、彼女達の自発的な好意だ。一人は日本人とカナダ人のハーフで髪は黒い。目はブラウンで三十歳くらいだ。二人目はベトナム人で大学生を終えたばかりでかなりの美人だ。目元が優しい。脚線美が目につく。三人目は中東の娘だ。二十歳は超えている。シルクロードの女を連想させる独特の雰囲気を持っている。彼女達は本国に帰ってもそれなりの豊かな生活を送れるような環境にあるようだ。生活に困っているふうには見えない。優しいインテリ風の淑女だ。大内も以前は考古学研究家であった。一見紳士的な矢島は彼女たちのお気に入りだ。真面目そうなのだが、時折、ハメをはずす。安心するのだ。人の弱みには決してつけ込まない。女はシックス・センスが鋭いといわれるが、セックス・センスという品性はより鋭いということも忘れてはいけない。
マドンナ、ジェシカ、ローズの三人は突然矢島を訪れた。矢島は彼女達を丁重に扱う。彼女達は懸命に応えようとする。あまりの紳士的な態度に彼女達は焦ってくる。焦りは本性を呼び覚ます。その日、矢島は三人の餌食になる。彼女達は皆FBIの関係者に逐一連絡を取り合っている。
以前、光夫と神田は駒田に連れられて一度打合せに来たことがある。
光夫がフェティシズムに陥ったのはこの時からだ。近々また、駒田が誘って来る手はずになっている。
風俗の広告制作は一般企業の堅苦しい環境とは違い、本性が相手の独特の世界だ。
俗に言うディレクターの駒田芳樹は神田春雄とは小学校時代の一年先輩だ。
コピーライターの箕田順一。デザイナーは岩立しのぶ、イラストレーターは加納理香の四人でビッグティッツでは看板的なスタッフだ。都内の風俗店の広告を一手に引き受けている。音楽事務所、スタジオ、媒体局、営業の総勢五十人と小規模だが、活気は北斗の制作と変わらない。クライアントの業種が違うので仁科のような慢性的な広告は通用しないのだ。その時その時の一瞬が勝負の世界だ。『三千円ポッキリ。サービスは満点。とっておきの美女がお相手だよ!』
『陶酔の世界。不満の時は料金はタダ!』
『クリントスチェーンは安心できる花園!』『ナース、婦警、女教師、人妻あり。ロマンの世界がたったの5千円。今週限り!』
これらのコピーはふだん箕田が喫茶店で一日中考えている。依頼が何社かに重なったときは駒田も手伝う時が多い。
スケジュールは一応みんなで考える。イラストは全部手描きだ。外国の男性雑誌やビニ本、猥褻な写真を基にアレンジしながら丁寧に仕上げる。色を着ける。TVであればCMの絵コンテ等もつくる。すべてが手作りだ。イメージキャラクターには芸人は使わない。ビッグ・ティッツとニップル・クリニックでは美人系は無尽蔵だ。それに国際的だ。百人はいつでも撮影OKだ。低コストで撮影できる強みもある。他の大手広告代理店からの依頼も多くなった。芸能プロでもやれば十分ペイ出来る状態だ。
音楽担当は芸大出のヨシトミちゃんだ。出身地と実名・年齢は不詳としている。クラシック音楽ではメシは食えないと早々と手を引いたらしい。制作といっても制作バカでは務まらない。自腹で仕事をかねてこまめにキャバレーやイメクラ店に足をはこぶ。打ち合わせも兼ねてやる場合もある。公私のラインがなくなる。それで給料は跡形もなくなる。家庭人にはとても務まりそうもない。だが、三割程の出来るヤツはうまくやっている。理性と本能をうまく操るヤツしか通用しない厳しい世界だ。カタギの人も多いがその道の人もいる。見分けがつかないこともしばしばだ。制作者はどちらにしろ腹の座った者が勝利をおさめる。担当の店がつぶれたら当然お金の回収はできない。よくあることだ。ほとんどが夜逃げ状態になる。給料どころではなくなる。
矢島は彼らへの面倒見がいい。手を差しのべてくれるからだ。信頼感は絶大だ。その道の人からも一目おかれている。
この業界での広告の世界は北斗とは雲泥の差だ。北斗のような恵まれた制作環境ではない。彼らの偽善的ではない本当の広告を創っているプライド意識はかなりのものだ。矢島は北斗の社員たちは彼らに見習うべき事が多いと早雲にもふと漏らすことがある。
矢島はもう一つの顔を持っている。ペンネームが刈田亮一という猟奇作家としても有名だ。実名は誰にも分からない。
「世界猟奇協会」という組織を諸外国とも英文のネットで結んでいる。会員数は十万人。完全なVIP専門の会員制だ。会費は年間百万円。他にチップが約その半分。予約にその半分。占めて二百万円だ。普通では払える額ではない。
矢島にはすでに十冊の著書があり、大内の事務所を介して外国からの予約も殺到している。男女の割合はほぼ同じくらいだ。
貴子はこのことは何も知らない。
早雲から紳士的な男としか言われていないからだ。女の直感は別として・・・。
矢島の自宅は勝ちどき橋の近くのマンションにある。最上階のペントハウスだ。フロアーの全てを占めている。部屋が十部屋あり、リビングは五十畳程の広さだ。各部屋にはバス・トイレ・ベッドが用意されている。書斎は約二十畳。ジェーン・マンスフィールドやマリリン・モンロー、男性雑誌のプレイメイトのポスターがアートっぽく飾られている。レインボーブリッジを眺めながら矢島はいつもキーボードをたたく。特殊な義手というハンディがあっても、かなり速いブラインドタッチだ。イメージが逃げないように死に物狂いで入力する。感じることがあったらすぐ書き留めておくのが癖になっているのだ。
本性のおもむくままの世界は男女のどろどろした陰湿で下品な交接を想起させてはいるが、それはごく一部にすぎない。本能の世界は全く自由なオアシスであり、誰も邪魔することは出来ない。人間同士が無意識につながっているコンセンサスの集合体なのだ。人の本性の本質を断定するのは危険なことだ。
だが、全てが無になる事を自覚したとき、初めてそれを解明する糸口が見えるような気がする。当たり前なことだが矢島はそう考えている。
矢島は世界猟奇協会の主幹だ。セブンセンスの会長ウイリアム・カーペンターもその会員の一人だ。猟奇コレクターという点では矢島と一、二を争う。古代インドのガンダーラ美術研究でもお互い通じ合うところも多い。リンダ・クラークはウイリアムの姪だ。湾岸戦争でのフィアンセの死で落ち込んでいたリンダのよき相談相手でもある。元準ミスワールドのジュリア・クリスチーヌはウイリアムのお気に入りの特別秘書である。プレイメイトのカレンダーでは盗難騒動が相次ぐほどの人気だった。彼らが、近々矢島に会いたい旨をメールで送ってきている。何人で来るかは分からない。
矢島はブロンドの肉体には興味はない。若いときはまだいいが、年齢を重ねるにつれ、魅力がなくなるからだ。一般的には二十代までだ。
その点、早雲は大のブロンド娘ファンだ。精力が何倍にもなるらしい。そして隠れたマゾヒスト。リンダは強烈なサディストだ。
早雲は矢島のプライバシーには絶対口出ししたりはしない。たとえ知ってはいても。波長だけは大内のように不思議な程かみ合う。 彼らが来日したのは光夫が亡くなる一年にも前になる。
矢島と大内はリムジンで成田に向かう。何人来日するかは知らされていない。五人かも知れないし十人かもしれない。それは、どうでもよいことだ。実際にはどういう人物なのか会ったことは無いので見当がつかない。おそらく、隠密でやって来るのだろう。社の会長ということもある。ネット上でのメールだけでの仲から今度は本物の仲になる楽しみもある。人はやはり肌と肌がこすりあわなければ解りあえない。
空港ではマスコミの目もあるので、落ち合うのは車のなかにする。十人は乗れるスペースだ。くつろぐベッドもトイレもソファもある。無いのはシャワーぐらいだ。駐車場で待っていてもなかなか現れない。やはり、報道関係の目を気にしているようだ。本国でも出国したことがばれていたからだ。待合室には報道陣がカメラを構えている。百人程はうろうろしている。大内は何気なく様子を見に行く。七人の塊が報道陣にむかう。インタビューの攻勢にさらされている。こりゃぁダメだと大内がバツの合図をしいている。
その時大男の白人が車の窓越しで合図をしている。大内もそれに気づいた。その大男の後ろに何人かの人影があった。
大男が車のドアをコッコッと叩いた。矢島に小声で話している。
「ジャスト・ルック・ミー。ヒィアー」
その男の背後に数人が隠れている。報道陣からは死角になっている。
「プリーズ・オープン・ザ・ドア。」
矢島はすぐさま運転手に指示して報道陣からは見えない位置でドアを開けさせる。
総勢がなだれを打って車内に入ってきた。どうみてもジプシー風の服装スタイルだ。
ジュラルミンのケースを持っている。
彼らはテロリストかと矢島も覚悟をしている。車内に入った彼らは特殊な窓ガラスでカメラマンには気付かれていない。
「ソーリー・サー。サンクス・・・」
ボス風の男が矢島に話しかけた。
「アーユー・ミスター・ヤジマ?」
その男はかなり慎重だ。互いに初対面だったからだ。うしろでは大男が矢島に銃口を向けている。
やはりそうかと矢島と大内は腹をくくる。「イエス。マイ・ネイム・イズ・ソウ・ザット。アンド・ヒー・イズ・オオウチ・・・」 男は銃を内ポケットにしまった。
「ハウ・ドゥ・ユゥ・ドゥ・・・
アイム・カーペンター」
ウイリアム・カーペンターであった。
年齢はまだ五十代のようだ。二メートル近くはある。細身だががっしりしている。日系ハーフの彫りの深い二枚目だ。髪はいくぶん赤茶系だ。大男も同じくらいだ。
ウイリアムの眼には哀愁が漂う。米国の代表的な大手広告会社社長だ。五年前に創業者の急死でポストを手にしていた。本人は気楽に後を継ぐ立場であったが、社内の派閥争いが熾烈を極め担ぎ上げられた格好だ。器用で物おじしない性格だが、経営責任者としての器は未知数だ。そういう評判だ。
「オー・ウエルカム・トゥ・トウキョー」
矢島と大内は身振り手振りの和製英語だ。「アイム・グラウド・トゥ・ミーチュー」
「ナイス・ミーチュー」
「ミーチュー・トゥ・・・」
「ソーリー。ジス・イズ・トォイ」
銃はプラスチックでできた組み立て式のモデルガンだ。一個一個分解すれば洗面道具と間違える。フライトの入国審査には問題はなかったのだろう。
それぞれが改めてネームを紹介する。
「ウイリアム・カーペンター」
「ジュリア・クリスティー」
「リンダ・クラーク」
ジュリアはウイリアムの特別秘書だ。
三人のブロンド美人もいる。ウイリアムの了解もないので紹介できないらしい。大内と何らかのつながりがあると矢島は思った。
大男は彼らのガード役で付いてきている。リンダの弟のようだ。
「オドロキマシタカ?ゴメンナサイ」
リンダは日本語を流暢に話す。
「日本語出来るんですね。よかった・・・」 矢島と大内はひとまずホッとした。
ガード役のジョン・クラークだけは日本語は苦手のようだ。ジョンはメアリーに秘かな恋心を抱いているようであった。メアリー・スコッチは日本とカナダのハーフ美人だ。ベトナム人留学生はベティ・ロバーツという。中東から米国を経てきたアニタ・エスキーは日本の大学で政治を学びたいと言っている。彼女達は小さい時からの日本びいきで、この国の事情には詳しい。みなセブン・センスのクライアントの娘たちだ。ニップル・クリニックは表向きは彼女達の格好の癒しの場であり、その裏では諜報活動の拠点ともなっている。大内も早雲とは似た性格で考え方もフランクだが、情に弱いところがある。リンダが早雲に魅かれるのは何かを感じていたからだろう。
五 クロスゲーム

早雲は東京地検特捜部の影山勝利と会っていた。といっても隠密にだ。影山は早雲より五年は若い。有楽町の駅前の喫茶店の奥で背を向けて座っている。
ついに早雲は利道のなりふりかまわぬ行動に業を煮やしたかたちだ。影山もプライベートではニップル・クリニックの会員でもある。影山の直属の上司も巻き込まれている。
職業を問わず男は誰でも本能的なことには能動的になるものらしい。だが、彼らは表向きには社会的地位は盤石だ。
「早雲さん、大変そうだね・・・」
「勝さん、そこでだ。ひとつ相談に乗ってもらいたいことが・・・」
「何でしょう・・・」
「最近、北斗のことと私的なことと入り乱れていて私も気が休まらん。今の事業を始めてまだ四十年しかやっていないんだが、ほんとにこれで良かったのかってね。最近反省しているんだよ。なに、たいしたことはまだそんなにはやってきてはいないし・・・会社は幾分大きくなってきたが、今一つ納得のいかないことがあってね・・・」
「そういえば、きみの娘婿。利道君といってたよな。どうしてる。結構骨のあるヤツらしいじゃないか。確かに噂では耳にしている」「・・・・・」
「どうした・・・?」
「その利道君のことなんだが・・・」
「北斗を乗っ取るという計画のことか?」
「えっ、もう流れてるのか?」
「そりゃぁ当然だよ。特捜部を何だと思ってるんだ。といっても、私もいま不本意なところにいるわけだし。とやかく物を言う資格はないかもしれん。君には貸しもあるしなぁ。山梨にいる孫の勇太は元気でやってるとか聞いたがよろしく頼むよ。一人しかいない大事な跡取りの孫だ。亡くなった夏子も自慢していた子なんだ」
「勝さん、心配はいらないよ。各国の子らともうまくいっているようだ・・・」
「そうか。良かった。だが、君はいつからそういうことをしてきてるんだ。こういうことをいうのは失礼かも知れんが、最初のころは私も意外だったよ。君のイメージとはかけ離れていたからね。いくら慈善事業とはいえ動機が分からない。何故名前を隠しているんだね。表向きマズイ事でもあるのかね?」
影山は事の事情は全てつかんでいるようであった。早雲の顔色をみて暗黙の依頼を決断するつもりのようだ。
「よろしく頼む・・・」
「わかった。すべて私に任せて・・・」
「お礼のほうはいつもの・・・」
「マスコミへの対処は少し時間をくれ。利道君の手の内も把握する必要もあるし。根回しにいろいろとかかるからね・・・」
「なるべくはやく頼む・・・」
「心配するな。悪いようにはしない・・・。ところであの娘、ほらジェシカくんはどうしてる?」
「大内のところの?矢島くんにきいておくよ。しかし、きみも若いなぁ」
「真剣なんだ。ほんとに体よりも気持ちの方が先に要求してくるんだよ。好きになってしまったものはどうしようもないんだ。恋心に年なんかは全然関係ない・・・」
やはり影山は本気のようだ。
「わかったよ。なんとかするよ・・・」
「契約成立だな・・・」
「ああ、勝さんの純愛に乾杯だな・・・」
「ありがとう・・・」
「ところで、利道君は何を考えてるのかさっぱり分からん。法子にも聞いてみたが夫婦の会話はあまりないようだし。跡継ぎはもうとっくにあきらめている。本当は悪い子じゃないんだ。もっと素直で穏やかな性格に戻れば人望はもっと厚くなるはずなんだが・・・。 私が見込んだ子だからね。間違いはないと思いたいんだ。いまでもだ。ただ、彼は訳の分からん野心がありすぎる。最近は目が曇っているようだった。私も人のことが言える人間ではないが。
実は私のところで学んでいる難民の留学生でヤフトという男の子がいるんだが、これが素直な子でね。跡継ぎにするんだったらこの子かな。法子たちの養子にでもしようか考えていたところだったんだ。今年でもう十八歳になる。もう十五年いるかな。
家内が亡くなった後だ。アフガンから母親と一緒に逃げてきたんだ。その母親は若いときの家内の知り合いでね。
佳奈子は私の知らないうちに各国から五十人もの子を世話していたんだ。彼女は子供の頃は薄倖だったからね。
きっと子供たちに何かしてあげたかったんだろう。山梨の山奥に手作りの塾の家を子供らと造ったというんだ。私もそれ以来見るに見かねて影で手伝うようになった・・・・」「もういいよ、早雲さん」
「利道君は私の極秘のデータを側近から得たらしい。彼は社内の企画調査部門を全て握っている。幸い矢島君が彼の情報を逐一知らせてくれているので助かっている。だが、有効な情報かどうかは分からない。勝さん、あんた何かつかんでいるんだろう?」
「・・・・・・」
影山は黙ったままだ。
「勝さん。私も後がないんだ・・・」
彼は自信あり気に口を開いた。
「あぁ、実を言うと彼は何かを企んでいることは確かだ。噂だと、国防庁や政治団体、防衛産業に多額の資金を費やしているらしい。その資金の出所は君のところだよ。何か思い当たることがあるかね?」
「いいや。知らなかった。ほんとうか?」
「彼らはいま調べている最中だが難航している。安心したまえ。幸い私のところで捜査は完全に止めている。話してくれないか」
「それは・・・」
「口外しないから。永い付合いじゃないか」 影山は難航しているといったが、実は情報はすべて入手していたのだ。早雲も自信げの影山の雰囲気で隠し通すのは諦める。
互いに腹を割って話しているつもりでも、その反対に自己防御も見え隠れしている。
「わかった。勝さん、全て話すよ・・・」
「そうこなくっちゃ。何でも言ってくれよ」 早雲は星加とのバックマネーシステム、大内や矢島との関係、ビッグ・ティッツ広告社やニップル・クリニック、セブン・センスとの関係などひと通りの事実を打ち明けた。
「そうだったのか・・・」
早雲と影山ははじめて打ち解けあったことに安堵感を覚えた。
影山は早雲が哀れに思えた。もっと別の世界にいればいいものを・・・。
「だが、これは一筋縄ではいかないぞ。やるからには何らかの大義名分が必要だ。手は充分打つつもりだ。心配しなくていい。早雲さんの関係していることは一切胸にしまっておく。それにしても、君の奥さんがそういうことをしていたとはな。山梨の留学生たちへの思いは遺言だったんだな・・・」
「あまり人に言うようなことじゃないよ」
「そんなことはないよ。りっぱなことじゃないか・・・」
「しかしだ。そのことで方々から金を借りている。星加さんとの付合いで色々なところでも使っているし・・・。公私混同の最たるもんだな・・・」
「そうだな。最たるもんだ・・・」
影山は笑顔を絶やさない。早雲の人の良さを肌で感じていたからだ。本音を隠そうとしない彼は一見創業者特有の利己的イメージを持たれているが、隙だらけのやさしい男だ。 影山は早雲には信頼できる若い参謀が必要と感じていた。見知らぬ秘書を大勢囲うのは余りにも危険すぎるからだ。
「とにかく少し時間をくれ。なぁに大丈夫。さっきも言ったようにマスコミ工作が大事だ。先手を打ってうまく丸め込む・・・」
「よろしく頼む・・・」
余り長居をすると互いに怪しまれる。
しばらくして店内の廻りが賑やかになってきた。不穏な空気も漂っている。雑誌社のカメラマンに張られている可能性がある。誰もがそしらぬ顔をして互いの会話を愉しんでいる。女子大生風のグループ。フリーターの若者たち。欧米人のカップル。会社員風の男たち。ミセスの数人・・・。疑えばキリがないが、念には念を入れたほうがいいと影山は判断していたのだろう。
彼は捜査のプロだ。人一倍の嗅覚と勘がある。それまでの表情を百八十度変えていた。気さくな話し方をピタリと止める。早雲も影山の無言の意志に気づいた。彼らは何処からの手の者かは分からないが、二人の話しは誰にも聞かれたようにはみえない。盗聴されていなければだが。早雲は必死だ。影山が強力な支援を確約してくれたのだからひとまず安心する。
「お勘定・・・」
二人は誰から見ても定年後の余命いくばくもない風采の上がらぬご老人としか映らないだろう。かなりの変装でまるで別人になっていたからだ。店内の誰もが二人がいずれ世間を騒がせることに気づくべくもない。
お互いに勘定をテーブルの上に置き店を出る。早雲はトイレに入った。素早く別のサングラスに変える。影山は少し間を取ってから素知らぬ顔でぶらりと新橋方面に足を向ける。あとから数人の男たちが急いで店を出る。「くそ。やられた。とにかく追うんだ」
水面下でのスクープ合戦は激しさを増している。諸外国からも大量のマスコミ関係者を装って入国していた。今の日本は無法国家に近い。政府の機能も外務省や議員、公務員の不祥事で国民の怒りも限界に来ていた。
影山はいつの間にか歩行者の群れの中に沈んでいた。尾行していたカメラマンたちは撮りそこねたらしい。人の目を眩ますのは二人ともけっこううまい。絶妙なそのタイミングの取り方は隠密の忍者のようだ。事実、影山家のルーツはその系譜らしい。
早雲は足早に銀座通りまで行きタクシーを呼ぶ。平日はホテルでの生活だが、週末は杉並区の閑静な佇まいの中に身を置いている。ごく普通の鉄筋三階建ての住まいだ。
貴子も折を見ては足を運ぶ。吉祥寺の光夫の家からは歩いて二十分ほどの位置にある。貴子と知り合う前までは身の回りの世話に四人もの女達が交互にやってきていた。早雲は彼女たちとその家族にマンションと全ての生活費を提供している。これまで絶やしたことはない。
早雲が愛人たちを囲っているわけではない。彼女たちの自主的な判断で決めたことだ。彼は七十代の半ばとはいえ、十代や二十代の若者たちと結構話しが合うし波長も近い。茶目っ気やユーモアも人一倍あり、体つきは三十代の後半だ。おまけに性格は明るい。
男女の仲に関していえば、彼が何をしなくても女達は放ってはおかない。来るものは拒まずという人のよい性格は裏を返せば命取りにもなる。誰かが見てあげなければという母性本能はいやがうえにも高まってくるのだろう。早雲の前妻である佳奈子の死後二十年ほどにもなるが、四人の愛人たちとは一線を画している。
早雲は彼女たちとその家族に対しては平等に対処していた。おのずと資金はかさんでくるわけだ。美穂子は星加の紹介で北斗に迎えられたが、性格の硬さと貞節さは早雲のお気に入りでもある。
他の四人の愛人が北斗の人事に入ることになった。秘書室がかなり賑やかになる。彼女たちは北斗の経営に関与することになる。
目だちたがり屋な彼女たちの希望がようやくかなったかたちだ。その人事が急に決まったのは、貴子へのけん制の意味もある。貴子と早雲の関係が噂されてから次第に彼女達のジェラシーはエスカレートしている。
早雲も彼女たちの直言には弱い。遊び人風の早雲にしてみれば彼女たちは北斗の裏のプロデューサー見たいなものだ。早雲にとっては頼もしく見える。

一方利道も早雲の動きが気になっていた。計画の事でエージェントにアポを取ろうとしても連絡が時折途絶えるようになった。永田町界隈も激変しそうなのかどうかも気になるところだ。情報の漏洩を避けるために二重、三重のセキュリティを講じた結果、いまではそれが壁になってしまっている。
政官界や防衛隊からの情報は完全に遮断されている。国防庁のホームページはかなり簡素になった。防衛産業もネットでの公開はオフのままだ。シビリアンコントロールはどうなっているのか、政官界の裏ではどう動いているのか情報が一向に流れてこない。
利道は実は気の優しい男だ。孤独を好むほうらしい。ときおり他人には意気がったり、見栄をはったり、啖呵をきったり、見かけは男らしく見える。
かれはいざというときは見切り発車で早雲のスクープを流すことも考えていた。
利道は三咲と直接会って事の様子を確かめることしかないと考えた。早雲のパスワードの入手では光夫達も苦戦している様子だったからだ。彼は自分がいま何をしようとしているのか振り返る余裕はなかった。正義感や理念が行き詰まるとヒトラーの様な思い込みの理想郷を作ることに奔走する。自らも破壊する危険を顧みずに突き進む。要するに背水の陣に等しい。利道はそういう状況に埋没している自分に陶酔しているのかもしれない。
直情的な物の言い方は三咲の前では差し控えなければならない。彼の方も利道の立場はよく承知している。二二六事件の当事者としてまた、利道の父とは交流が厚かった三咲に対しては畏敬の念も抱いている。
彼は見掛け上防衛隊には直接関係していないようには思われているが、ほとんどの制服組幹部たちは、彼の意に従う。実質的にはその子の晋作が陸・海・空の防衛隊を掌握しているが、幹部の中には目に見えない派閥が発生している。それをうまく押さえられるのは三咲仁蔵と安西龍太郎しかいない。
マスコミの目をそらすため、利道は落ち合う場所を田町にあるボウリング場に決めた。三咲からの要望だ。
田町フィンガーレーンホテルは国内・国外でも有名だ。国際的なプロボウリングの公式会場でもある。
二十階建てのそのビルは完全なスポーツサロンだ。宿泊は十八階から二十階、決勝会場は屋上階にある特設ステージにある。ホテルの敷地はドーム球場とほぼ同じくらいの広さを誇る。安西は表立って出てはこないが、実質的には彼がそのホテルのオーナーだ。
利道は安西時代、プロボウラーの吉川真理との仲が表沙汰になり写真週刊誌にスクープされたことがある。
吉川は三十代の後半にはなるがいまだにトップクラスの位置を譲らない。女子大の頃プロになってからは飛ぶ鳥を落とす勢いで連戦連勝を重ね、デビューの年でいきなり全日本チャンピオンになった実力者だ。水泳とウエイトリフティング・エアロビ等で鍛えた強靱な体力・知力・美貌と美しい肢体とくればマスコミは放ってはおかない。それにエレガントなタレント性は持って生まれたものだ。
吉川にはかなわないが安西自身もプロ級の腕前だ。月に一度スペシャルディーという日を設けて一般客とプロボウラーの親睦もはかっている。当時、利道は吉川とは男女の肉体的な関係はまったくないが、浮き名を流したことに安西から叱責される。
吉川は田町フィンガーレーンホテルのイメージキャラクターでもあり、専属のプロボウラーだ。クリーンなイメージを要求される彼女にはスキャンダルはご法度だ。後日マスコミから誤報だとわかり謝罪されている。
利道は同じ専属男子プロの花形大介と良く似ていたことから、ギャラリーからもよく間違えられていた。吉川と同期である花形は通算優勝回数がまだ一回しかない。絶不調の日々が続いていた。肘を交通事故で痛めて以来のことだ。
そのことは吉川しか知らない。二人は秘密を共有している。その時から二人の仲は急速によくなっていた。その原因は吉川しか知らない。二人とも話そうともしない。問い詰めると彼らは頑なな態度に豹変する。
事実プロボウリング業界で生き残っていくのは大変なことだ。
ゴルフや野球、サッカートは違い動くお金の桁が少なすぎるのだ。企業スポンサーは極めて少ない。ふだんの大会での優勝賞金も百万円単位でしかない。スポンサーがいないのもプロボウリング協会の悩みの種だ。タレント性豊かなスタープレイヤーの層も薄い。彼らは予選では何十ゲームも投げる。そしてようやく予選をクリアしたら決勝トーナメントでの過酷な戦いが待っている。ボウリングを少しでもメジャー化させようと関係者は努力しているがその壁は厚い。
安西は根っからのボウリングと水泳の愛好者だ。ボウリング業界にはかなりの私費も投じている。おもにプロの一人立ちとメジャー化そして業界の活性化のためだ。
近頃、業界内では既成のプロ協会とは別のプロ協会を安西が設立するとのうわさが絶えない。
ボウリング業界はメジャーな明るい健康的なスポーツとしてもっと社会に浸透させる。そしてスター的なボウラーも多く輩出させるというサクセスロードを描いているようだ。大会の優勝賞金も破格の一億円だ。それを年に五十回は開催するという話しだ。四年に一度のワールドカップの構想も水面下で動き出している。その後近々にも協会をひとつにまとめる計画や試合形式の根本的な改正を二年前にしている。
試合形式は野球のように一チームレギュラー十人制を設け、十チームとする。プロ集団のレベルを押し上げ、職業としての地位を向上させること。そして、なによりも画期的なのは既成のゲームの改革だ。これまでは十フレーム三百点満点でパーフェクトゲームとしていたが、改革案では基本的に二十フレームまである。六百点でパーフェクトということになる。旧方式だとピンを多く倒して点数の多いほうが勝ちになっていたが、新方式だと大会ごとに試合形式をフレキシブルに変えていく。
例えば、ピンを一本だけ残すとストライクの扱い。スプリットの形相ごとに点数をアップさせる。今のストライク、つまりすべて倒すとガーター扱いという具合にショー的な要素が加わってくるのだ。プロボウラーたちは黙々と投げているだけではダメなのだ。単なるスター気取りでも行き詰まる。技術と感性・レーンコンディションの把握を意識しながらプレイするかなりの過酷な世界になるはずだ。それによって業界は必ず活性化すると安西は見ている。
安西は元知人の御手洗康治にホテルの経営と業界の再編を任せている。
三咲がくるまでまだ二時間はある。吉川真理には都合がとれたら会いたいと携帯のメールでは打っておいた。三咲と安西はボウリング仲間と聞いている。両者の本当の中は利道には知るべくもない。三咲もプロ顔負けの腕前だ。アベレージは二百三十を少し切るほどだ。利道は彼には歯が立たない。吉川でさえ二百四十ほどだからあまり差はない。単発勝負ならおそらくシーソーゲームになるに違いない。
吉川はギャラリーでは依然人気者だ。ホームページでのファンの登録でも軽く五十万通を数える。業界の浮沈を左右するほどの実力者でもある。
美貌と爽やかな笑顔、鍛えられた逞しい肢体、ユーモアとチャーミングな語りは老若男女のあこがれともなっている。彼女はTVの録画撮りの時は独特のパフォーマンスをよく考える。挑発的で健康的な超ミニスカートで神秘的な股間と豊かな大腿部を惜しげもなく披露する。白い悩殺ボディとその控えめなチラリズムが視聴者の目を釘付けにする。
最大瞬間視聴率もおのずとアップする。派手なストライクアクションと童顔の可愛らしい微笑は歳を重ねるにつれ魅惑的になっている。
最近、新方式による六百点のパーフェクトゲームも達成したばかりだ。
利道は受付にいる五人のアイドル系の女たちに目をむけた。
「吉川真理プロはおりますか?」
レーンカウンターの受付の乙女たちはまだ入社したばかりだ。
「いらっしゃいませ。どちら様ですか?」
「瀬川といえば分かります。あなた達もプロになりたいの?」
「ええ、まぁ・・・」
おそらく吉川を慕ってのことだろう。全国にそういう子は数えきれないほどいるが、このボウリング場に入社するのは至難の技だ。五千人応募しても五人程の枠しかない。
「お客様、お待たせいたしました。もうすぐ会議が終わるそうなのでサロン室のほうへということです。ご案内します。こちらへ」
なかなか利発でよく気がつく愛らしい顔つきだ。若村真由子。若いころの吉川によく似ている。身丈は百六十程で平均的な体形だ。 利道は若いころの吉川との恋を思い返していた。安西時代での唯一の癒しのシークレットスポットでもある。精神的なものだったとはいえ内心悔やんでもいる。彼女とのデート現場をスクープされ美穂子も結構怒ってはいたが、単なる吉川へのガードマン的な役割を遂行していたということになった。
雑誌社とも円満解決している。だが、実際には二人とも強く引かれあっていたことは事実だ。当時吉川は女子プロボウラーになって、もっとも勢いづいていたころだ。
利道も安西には一目おかれていた。だが、家庭を持つにはあまりにも隔たりが大きい。だれでも、形勢が不利で追い込まれたときは互いに癒しの世界をいやがうえにも作りたがるものだ。
男女のありきたりな関係を超えると大人の深みのある世界が見えてくる。利道はいまでもその気持ちは大切にしている。一本気な性格は生まれつきのものだ。
「ただいまこちらに向かっているとのことです。おかけになって・・・」
未来のプロボウラーの笑顔がたまらなく可愛く見える。
「ありがとう・・・」
利道は十五年ぶりの笑顔に出会った。
現役の最強の女子プロボウラーでもあり、ホテルの管理職でもある吉川真理が颯爽と部屋に姿を現した。以前と変わらぬ容貌に利道は我を忘れていた。彼女の背後には守護神みたいなものが徘徊している。男を一歩でも踏み込ませそうにもない鉄壁の空気は昔と変わらない。利道は吉川の笑顔の奥に鋭い目の輝きを見た。プロボウラーとして頂点を極めたというのにいつも不満げな彼女の様子は周囲にも緊張感をつのらせる。
「利道さん、お久しぶりね・・・」
色白の魅惑的な脚線美は利道の理性を崩そうとする力を持っている。ストイシズムを自負する彼も所詮は普通の男だ。感じないわけにはいかない。表向きには吉川はいまだに独り身ということになっている。四十代を目前にしているが三十代前後といわれても誰もが納得するはずだ。見かけよりは十歳以上若く見える。熱烈な若い男性ファンはあとをたたない。熟年層ではなおさらだ。
「法子どうしてる?」
「ええ、まぁ元気でやってます・・・」
「そう・・・・・」
吉川と法子は女子大時代のルームメイトであった。利道は法子との出会いが早雲と知りあうきっかけになる。
「あの頃のこと、なつかしいわ・・・」
時間をわすれて思い出話しに花が咲く。
「相変わらずご活躍ですね。凄いじゃないですか。初めてのパーフェクトゲーム。見てましたよ」
「ありがとう。でも今までの倍の二十フレームまでだから大変だったわ。でも、私にとってあれが最後のゲーム・・・」
「どうしてですか?」
「この業界も低迷しているし、もっと若い人にがんばってもらいたいのよ。安西さんも後押ししてくれているし・・・」
「じゃぁ、もうあの勇姿は視られない訳だ」「そうじゃないわ。か弱い縁の下の力持ちってとこかな・・・」
「寂しくなるね・・・」
「残念?」
「そうだね・・・・」
安西もこれまでと利道は感じていた。彼のどこが日本を左右する人物といわれる所以なのか利道には理解できない。安西がこういうサービス業にうつつを抜かしている状況では先が見えている。人望や資金はあるだろうが彼には未来を変えることは到底無理なのだ。「これからは後輩の指導や業界のために各地に教室を開くことにするの。利道さん、協力してくださる?」
「協力・・・・・」
「ふふ、法子に悪いからやっぱりいいわ」
冗談のなかには吉川の本心が棲んでいる。 利道も気持ちとしてはサポートしてあげたいが、いまはそれどころではない。風雲急の状況でもあるからだ。
「忙しいところありがとう・・・」
「いいのよ。次の大会の打ち合わせがあるので私はこの辺で。法子によろしくね・・・」 吉川は足早に部屋を出ていった。彼女の目が潤んでいたことに利道は気がついていなかった。
三咲がそろそろやって来る時間だ。他人のふりをしてボウリングをしながらの会話になりそうだ。三咲も慎重な男だ。
あらたまって席を設けても怪しまれるだけだからだ。
三咲が姿をあらわした。マスコミの取材陣たちもよもや彼がそこに現れるとは思っていない。百八十センチのやや太り気味のがっしりとした体格で全体的には早雲に似ている。眼は細く笑みを絶えず浮かべている。優しげな容貌は貫録充分で、人間的な器と懐の大きさはむしろ安西に似ている。海原の会でも永年顧問をしてもらっているので三咲の事はほぼ知っているつもりだ。
この大切な時に彼の意見を聞くのは重要なことなのだ。彼は利道に何を言ってくるのか分からない。だが彼には軍をまとめていく不思議な力がある。利道にはなんとなく理解できる。
三咲は昔、安西にも提言していたらしい。つかみどころのない安西の遠大な理念に感服はしていたが、あの人は完璧な理想主義者だといって説得を諦めている。その点、利道の現実路線は三咲を動かしていた。
三咲は利道のあたらしい時代への敏感なパイオニア意識を高くかっていた。指導者として少しは欠点はあるにしろ結果的に行動が伴わなければ何も出来ないからだ。利道の父、忠通は二二六事件での同志でもある。その理念を受け継いでいるのは利道しかいない。
昭和の元年に発足した百年計画に関する情報は三咲でもなかなか掴むことが出来ない。誰がそのことを引き継いでやっているのか調べるのは至難の技だ。政府の特別調査機関でも不可能のようだ。
利道は先に第八レーンでプレイを始めた。隣りのレーンで三咲も開始する。回りからみればお互いの会話は自然だ。ごく普通のお年寄りのボウリング仲間にしかみえない。
「利道君。心配かけてるね。すまない」
「いえ、そんな・・・」
利道は恐縮していた。三咲の苦悩の横顔が美しく見えた。笑みの中にも痛々しさが伝わってきていたからだ。
「色々なところに情報が漏れている。それに政官界と検察からの横やりが熾烈を極めている。何か知っていることがあるかね・・・」「いえ、ありません」
「国防庁の幹部の様子がおかしい。防衛隊への締めつけが強化されたようだ」
「そうでしたか・・・」
利道は三咲からの報告で互いに状況を共有したことに安堵した。自分だけが疎外されている被害妄想も少なからずあったからだ。それに自分でもとんでもない計画を立てていることへの不安意識もあった。
血気がありすぎる自己への反省が突進する自分にブレーキをかけてくれる。自己と反自己との駆け引きは予断をゆるさない。だが進むしかないのだ。
「大もとは誰でしょうか?」
「おそらく・・・・」
「おそらく?・・・」
「君の近くにいる人物だろう・・・」
「近く・・・ですか・・・」
一ゲーム一時間ほどかかる。スコアはみるに忍びない。あたらしい形式でのちょうど半分十フレーム目だ。スペアが取れない。全てオープンだ。スプリットの連続。レーンのオイルの光沢が微妙に違う。スパットの位置とボールの回転を意識するが、マイボールではないので思うように出来ない。
「早雲君ではないのかね?」
「社長・・・」
「そうだ・・・可能性は高い。君にも思い当たるふしがあるでしょう?」
「そうでしたね・・・」
利道も人の事をいう資格はないのかも知れない。北斗の資金を横領している訳だから、検察も当然動くだろう。その時はもちろん早雲もあぶない。星加もだ。両者共倒れになる可能性もある。自己防衛のために早雲が何を企ててているのかは察しはつくが手の内は見えない。
「防衛隊は息子の晋作が何とかまとめているが間者が幹部クラスに何人かいるらしい。ほんとにあの頃と変わらんな・・・」
三咲は苦笑している。
「あの、ひとつ聞いていいですか」
「いいよ・・・」
「エージェントの言ったことですが」
「そのことか・・・気にしないほうがいい」「まったくのデマですか?」
「そうだ・・・」
三咲は自信をもって答えた。
「空母の事ですが・・・」
「そのことは否定しない・・・とだけ答えておこう」
「分かりました。それと航空機」
「それも否定しない」
「・・・それじゃ、核・・・」
「そのことだけは完全にあり得ない。考えてもみたまえ。我が国は世界で唯一の被爆国だよ。被害者の方達もいまだ大勢いる。そのご家族だってナーバスになっている。国内的にも世界的にもコンセンサスは得られない。もし、そうなったとしてもその政権は永くはもたない・・・」
「じゃ、基本的に現有状況でということですね。空母や航空機は本当だったんですね」
「そのことは現政府や国防庁は知らない」
「・・・・・」
利道の顔がこわばっている。
「つまり、八紘産業が誰かからの依頼で国外で造らせているという話しだ。依頼主は極秘中の極秘だ。これだけは許してくれ。間に何人かのクッションがあるから進行状況はつかめていないのだ。核の製造はまったくありえないことだ・・・」
「いまは静観していたほうがいいですね」
「そうするしかないだろう。下手に動かないほうがいい。絶対にだ」
「分かりました・・・」
話しながらのゲームも最終フレームを迎えた。両者すべてオープンフレームの山だ。せいぜい六百点満点の百五十点位だろう。
「今度はマイボールだね・・・」
「そうですね・・・」
「くれぐれも慎重にな。今が我慢のしどころだ。また連絡する。がんばってくれ。」
「三咲さんも・・・」
三咲はホテルの一室に向かった。この日は宿泊するつもりだ。利道はすこし納得しながらホテルを後にした。

新緑の映えるあたたかな午後。貴子は白鳥銀行の矢島から受け取った封筒を手にしていた。吉祥寺の自宅にはまだ誰もいない。光夫は利道からの依頼で早雲のデータのパスワード割り出しに躍起になっている。
貴子は封筒を開封した。中には何重もの紙に包まれた薄いケースがあった。そのケースの中にはアルファベットとアラビア数字があった。貴子はいけないとは思いつつその暗号を控えた。急いでその紙をベッドのソファの下に挟めた。
早雲にはやく届けなければならない。貴子は彼の自宅に向かった。彼は影山と別れてから中央線で自宅についたばかりだ。
「貴子です・・・」
「おお、いま帰ったところだ。入りたまえ。今日は誰もこない。君のところは?」
「二、三時間はいいですよ・・・」
早雲はすかさず貴子を抱擁した。
「ど、どうしたんですか・・・」
貴子の柑橘系の香水につつまれたその存在が妙に早雲の本性を目覚めさせていた。
「いけません・・・」
その言葉もむなしく二人の体はひとつになった。早雲は貴子を矢島のところに行かせた事を悔やんでいた。表向き紳士的だが、変質的な人物だから油断はできない。貴子と一体化したかぎりその心配はなかった。
「わるかった。この通り・・・」
行為を終えたあと早雲は貴子に深々と頭を下げた。
「これ。矢島さんから頂いたものです」
早雲は利道のデータのパスワードであることを知っていた。これまで矢島がもったいぶっていたに過ぎない。
「ありがとう・・・」
早雲は再び貴子を求めた。
彼女も快く応えた。二人は完全なカップルになっていた。
六 デッドロック&
リターンマッチ

秋涼の季節になり、マスコミ界や政官界は騒然となった。早雲が利道のパスワードを手に入れ、その情報を一挙に流し始めていた。 利道は早雲の先手に驚いていた。まさか、彼がそこまでやるとは思ってもみなかったからだ。予想外の状況だ。表と裏の板挟みという状態が続いている。
利道は大手雑誌社のスクープ攻勢で身動きのできない事態が続いている。
早雲は特捜部の影山を通して利道の狙っている北斗のバックマネーシステムの隠匿工作を完全なものとしていた。
利道の企業秘密漏洩やクーデター計画の詳細データをネットで各方面に送り続けていたのだ。貴子が矢島から受け取ったパスワードは利道のデータを解明するきっかけとなり、早雲は関係している箇所だけを削除して利道が不利になるよう編集し直していた。
「海原の会」という組織も明るみになり三咲も計画を白紙に戻さなければならなくなっていた。八紘産業は味方なのか敵なのかいまだに判断が難しい。
その裏では何かが進行していることは確かなようだ。利道にはそう思えた。検察の捜査の手が日を追うごとに激しさを増していた。利道の計画に参加しようとしていた政党や政官界の幹部クラスも態度を保留している。
公然とマスコミに暴露されている彼らも追いつめられている状況だ。
確かに彼らの保身に回る習性と変わり身の速さは天性のものだ。結局、利道の独り相撲ということでその場をしのごうということらしい。彼らは利道に対して大きな借りを作ったことになる。
四ツ木はアングルから姿を消し、新宿の歌舞伎町界隈に身をひっそりと寄せている。
本来ならば先手を打たれた利道は、検察に逮捕されるわけだが、もしそういうことにでもなれば早雲自身にも火の粉が及ぶことになるはずだ。早雲は利道に北斗を去れば検察当局は事を構えないという約束を取り付ける。 利道は北斗での調査部のポストを尾上に譲る事を前提に社を去ることになった。まだ望みがなくなったわけではない。
北斗を追われた利道は、しばらくは世間の裏で身を隠さなければならない。完全に計画は机上のものとなっている。
光夫は利道や早雲の裏の世界をつかみ、安西の一部の情報も手にしていた。星加や矢島も光夫をマークしている。
米国防総省から一刻も早い安西に関する情報収集の依頼をされているセブン・センスの関係者たちはかなりナーバスになっている。 彼らは懐柔策で光夫に執拗に食い下がっていたようだ。ネットでの安西の情報が一切存在していないからだ。昔ながらの人手を駆使した情報合戦は熾烈を極めている。光夫の特異な人間性が彼らの目にとまり利用される事になる。
光夫は週に一度、大内から外国人美女を紹介されていた。本性の覚醒と間近い自己破滅への投影が光夫にいっそうの厭世観をつのらせていたことは想像できる。
何時来てもおかしくない死期は刻々と近づいており、光夫にとって癒しのない厭世的な日々を過ごしていくのは辛いことだ。北斗の誰もがそう思っていた。
光夫はリンダとは比較的打ち解けあっていたようだ。他の女たちとも結構うまくはいってはいたが肝心の安西情報は断片的で想像の域を出ていない。リンダ以外十人の女はみな一度きりの関係で光夫に見切りをつけた。
彼の安西への情報が予想より少なく不確かなことに気づいたからだ。
リンダは早雲とも情報を共有しているがそれはウイリアムからの命令で関係していただけのことだ。リンダと光夫は事件の前夜ホテルで密会している。目撃者もいるということだが関係者は何者かに口を塞がれているとのことだ。
神田や仁科たちも風雲急の状況が続いており、この先どうすればいいのか二人とも判断がつかない。ただ救われているのは、早雲が本気で北斗の制作関係者を簡単には手放さないということであった。
以前、発表された社内の組織変更は利道へのけん制の意味もあったらしい。結城の言うことだから間違いない。
「築地警察ですが・・・。
神田春雄さんはおりますか?」
神田は一瞬いやな予感がした。ここ二週間光夫の行方が分からなくなっていたからだ。貴子が捜索願いを出そうとした矢先だった。 九月の十一日未明、光夫は銀座の某ホテルの一室で病死として発見されたのだ。神田と仁科は光夫が腹上死したという知らせを警察から内密に知らされていた。相手の女は米国人との情報だがホテル側の状況報告以外確たる証拠はない。
プライバシーを強く重んじる経営者の明石裕次郎はいくら検察の手が回ろうとも客の個人情報は一切公表しようとはしない。
仁科や神田の後に貴子が血相を変えてホテルの現場にやって来た。
「どうなってるの?・・・」
「お気の毒ですが・・・」
殺人課の郷田刑事のありきたりな慰めも焼け石に水だ。
「あぁ・・・光夫・・・なぜ・・・」
貴子はどういう状況であれ光夫の死は時間の問題と割り切っていた。当事者の妻として常識的な振る舞いをしていたにすぎない。
だが彼女の流す涙には光夫への懺悔の意味も含まれている。事実上、早雲の正妻に落ち着こうとしている彼女も心の中ではピュアな空気で彩られていることは確かだ。
貴子は光夫の死期は知っていたとはいえ腹上死では情けないし、光夫も浮かばれないと思っていた。神田や仁科も同じだ。
過労死ということも考えられなくもないがそれはあまりにもリアル過ぎる。実際の現場の状況とはかけ離れすぎている。規模の大小の差こそあれ、他の幾つかの広告代理店でも同じような事件でもめているという話も耳にしていた。
光夫の場合明らかに過労死ではなかった。 相手の女がいれば不倫の現行犯的シーンがあったはずだが、事件は迷宮化する公算が強くなっている。
仁科は光夫の単なる病死という発表は警察の意図を強く感じていた。
弁護士側からみても貴子と北斗側が争ったとしても双方には不利だという。あまりにも互いに弱点がありすぎるからだ。深入りは両者を自滅させる。示談が賢明だという意見が多数を占めていたのだ。
結局、早雲と貴子のシナリオ通りに事は運ぶことになる。
仁科の携帯に不可解なメールが着信していた。五行ほどの英文と数字の組み合わせだ。「先輩。これ何?・・・」
「どれどれ・・・」
「相手の発進先のアドレスもありますよ」
「発進先は国内じゃないな・・・」
「例の副社長の言っていた暗号?」
「そう・・・パスワードかも・・・」
「自宅のパソコンに転送しておきましょう」「俺のところにも頼む・・・」
「とにかく落ち着いたところに・・・」
二人は現場を後にし、タクシーを拾う。
珍しく女性ドライバーだ。彼らが車中で話していても彼女には分かるはずもない。
分かったとしても客の話しは他言はしないはずだ。
「お客さん、そこのホテルで何かあったみたいですね。夕刊やニュースに流れていたわ」「・・・・・」
仁科と神田は押し黙っている。
「おせっかいとお思いかも知れないけれど」 メーターの横に張ってある写真入りの営業許可証をみる。横須賀洋子。五十五歳。ドライバーになってまだ日が浅いようだ。
五十代にしては若々しい体つきだ。やや控えめの香水がグラマラスな白い肌と微妙に溶け合っている。それにエレガントな顔立ちは七丁目の高級バーのママさんとしても通用しそうだ。えくぼが何となく可愛い。
「たしかにあの人たちね・・・」
「なんのことですか?」
仁科が尋ねた。
「亡くなったんでしょ?緒真留さん。昨日夜乗せた気がするの・・・。ひょっとしてあなたたちお知り合いなの?・・・」
「ちょとね。何回か仕事で・・・」
「そう。でも私はお客さんのプライバシーは絶対言わないわよ・・・。今日は例外だけれど・・・」
「警察には・・・・}
「もちろん黙っているわよ。わたしもドライバーになったばかりだし、巻き込まれるのはゴメンですからね・・・」
「それもそうですね・・・」
「でも、あなたたちは信用できそう。実は私もずっと気になっていたのよ。ほんとよ。緒真留さんアメリカ人の女の子と一緒だったわねぇ。ブロンドで大柄な美人」
「光夫もそこまで好きだったとはな・・・」「先輩。でも、不自然じゃないですか。緒真留先輩、そんな趣味じゃなかったのに」
「運転手さん。誰にも言わないから、分かる範囲で教えてくれない?・・・」
「・・・・・・・」
「お願いしますよ・・・」
「・・・いいですよ。分かる範囲でですよ」「ありがとう・・・」
「二人はほとんど英語で話していたわね。私が日本語でしか話せないと思っていたらしく、話しかけてくる時は二人とも日本語だったわ。向こうも気が緩んだのね。聞いてはいけないこともかなり・・・」
「先輩・・・」
「運転手さん、もっと詳しく・・・」
「・・・・・」
「運転手さん・・・」
「知る訳ないでしょ・・・」
女性ドライバーはメモを仁科に渡した。
『車の中は盗聴されているかも・・・』
「ごめんなさい。うちらはあまり関係ないんだったね・・・」
三人は意識的に話題を変えようとした。
「いけない。行き先聞かないで来ちゃった」「ここでいいよ・・・」
「ワンメーターでいいわ・・・」
「悪いね・・・」
「何かあったら、ここに・・・」
運転手は名刺を渡した。
「ありがと・・・」
二人の降りたところは松屋通り沿いの歩道だ。タクシー会社の名はAZCARとわかった。神田の家までは歩いて十五分はかかる。歩きながらの方が誰からも聞かれる心配はない。少しは気持ちが落ち着いてくる。
「やはりな・・・」
「やはり何です・・・」
「明日、光夫のお通夜だったな。今日は俺のところで泊まっていけ・・・」
「社葬にするという話しですが・・・」
「副社長が社長に言ったらしい」
「そうですか・・・」
いつもの居酒屋が早くものれんを出している。板長の荒木康夫は神田太郎の愛弟子だ。一年前に「海原の味」という店を出したばかりだ。
「今日は大変だったな。すこし寄っていきなさいよ・・・」
「しかし・・・」
「先輩・・・少しだけなら・・・」
「そうか・・じゃ、そこまでいうなら」
「どこかで聞いたような店の名前だな」
「気のせいでしょ・・・。同じような名前はいくらでもあるし・・・」
神田は光夫が生前よく口に出していた名だが思い出せない。
荒木は四十代の後半のようだ。ひと回り若い伊久美という妻が影で支えている。二人は太郎の口添えで縁を結んでいる。工学部の大学院まで進んだ変わり種の康夫の店は開店と同時に店内は若いOLたちや学生で溢れる。 今、都内ではちょっとした居酒屋ブームになっている。以前はサラリーマンたちのささやかな癒しの空間であったところが今では老若男女のサロンと化している。
長い間彼女たちは男たちの秘密の楽しみを我慢して傍観していたのだ。女性にとっては歓迎すべきことでもある。
その理由は誰もが知っている。ハイテックな社会の行き着く先は必然的に癒しを求めあうハイタッチの世界となるからだ。
IT社会は誰もがパソコンや携帯電話等での通信手段を使うことができ、インターネットでのコミュニケーションもふえ、人間関係も豊かになっていくと思われていた。
誰もが気づき始めていることだが、そこには大きな落とし穴があったのだ。携帯電話の最先端を突っ走る我が国では、設備・スペース・パソコン本体の普及より早い速度で市民生活に浸透している。
全体的なネットの普及率は七十%ほどだ。米国に追随する格好だ。
利道は時折三人にはある程度の本音を打ち明けていた。米国や中国の話しになるとテンションが倍化していた。直接的なクーデター計画の話しはしてはいなかったが、彼らは断片的な利道の世界情勢の話の中で感じ取ることは出来たはずだ。
『・・・中国においてはネットと携帯電話の普及率は人口比率的には1%台でごく限られた市民にしか行き渡っていないんだよ。ここ十年の間その国の経済成長率は二桁代で破竹の勢いで伸びていると言われているだろ。他のアジア諸国にとっては幻の驚異だったことがわかる。
共産主義国家として出来る範囲で自由主義経済を受け入れたまではよかった。だが発表されていた経済成長率・対外債務・軍事増強費の数値は架空のものであったことが判明したんだ。共産主義国家の宿命だな。
成長率は二桁どころかマイナス成長だったのだ。軍事費は日本からのODA資金や払わなくてもいい賠償金等をを分からないように流用しているとの情報だ。軍事アナリストの共通した見方だ。私が危惧していることのひとつだ。
その国の実態が真実を目の前にして崩壊の一途をたどるのはもはや時間の問題だ。実際に国を動かしているのは総人口のごくわずかの特権支配階級のやつらだ。
当然ばく大な利権や汚職は日本の比ではない。その狭い世界の中でも過酷な権力の争いが絶えないんだよ。
しかし何千年もの間、権力機関が恩恵をうけてきたその国は相変わらず排他的で策略的な思慮や他国に対する横柄な態度を改めようとはしない。
大都市以外の農村地帯や少数民族の生活はごく一部の富裕層とは雲泥の差だ。実質的な失業率は十%を超えているようだ。貿易の自由化で生活の二極化はますます激しくなる。世界各国の企業は積極的な投資を行っているが近い将来必ず手痛い目にあうだろう。彼らは広い国土と資源などの観点からかなり楽観的な見通しの上で考えたことだ。今更引くわけにもいかないのだろう。だが、結末は誰の目からみても明らかなのだ。
戦前の日本の軍部と今の中国共産党とは無関係に近い。国民党と日本軍の戦いという図式は歴史が証明している。南京虐殺や細菌部隊の情報は独り歩きをしているが、そのことについても私は懐疑的だ。
真実ではないからだ。彼らは国家権力の影響力を維持しようと過去の歴史を改ざんしてまで主張しようとしている。
戦争であるからなにが起きるか分からないが、大量虐殺や細菌兵器で事を構えるというのは日本人の感性とは相いれないものなんだよ。よく考えてもみろ。そんなこと出来るわけがない。
永遠に続くあいつらの歴史のデッチ上げに振り回されることになる。以前の国民党より始末が悪い。
日本人は今の国のあり方に自信を失っているが、いいとは決して思っていないはずだ。 IT技術やバイオテクノロジー・IT後のまったくあたらしいコンピューター社会への準備・新エネルギーの開発・特許出願・海外での生産など無意味でなくなる新製造技術などは世界のトップレベルであることを私たちは忘れている。
日本の大半の製品を無断でコピーしたり、勝手にブランド名をすり替えても平気な顔をしている民族とは到底交流などもてるわけがないのだ。
人権を盾にしきりに某国の肩を持つ熱心な新聞社や政治家達もいることは事実だ。何らかの協定を結んでいるのだろう。
以前、私がそのことで彼らを追及すると口を完璧に閉ざしたからね。
潜在的に日本人は明治維新の志士ような凛として毅然とした思想や意志を心の中に封印しているに過ぎない。それが、再現されてくることを海外諸国は驚異とみているがそれは誤った見方だ。
歴史は繰り返すと良く言われる。その考えはネガティブな要素が根底にあり、良い意味で解釈しようとしない者の勝手な論理だ。
我々はもっと強力な理論武装をしなければならない。玉虫色の表現は他国では理解しえない事が多い。もうバカにされるのはこれまでだ。
日中友好条約は三十年続いていきているがこの先は誰も予測できない。タカ派の議員の中には即刻友好関係を早急に破棄したほうがよいという者も多数いる。毎年中国への何千億円ものODAや民間投資も当然中止して、日本からの資金は全て回収するようにしたらいい。出来れば無償貸与や借款も出来る限り返してもらう。
それにはもちろん我が国が凛として毅然とした意思表示をしていくことが必要だ。
くどいようだが・・・。我々は過去のどんな事柄も干渉の道具として扱われるのには断固として許してはいけないのだ。彼らの政治手法は昔から変わらない以上・・・。
我が国の支出する海外への援助の額は借款や無償貸与・戦後補償などでかなりの負担を強いられている。
彼らの日本人を自虐的な境地に陥れようとする洗脳策に嵌まってはいけない。大手新聞社の中には彼らの術中に嵌まることを知りながら迎合しようとするところがあることも知っておいたほうがいい。新聞を読めば思想的な面はすぐわかるだろ。
私の理念の背景には彼らの利己的な動きへの警戒心が根底にあるんだ。米国だって例外ではない。私はまわりから短慮的に見られてはいるがその行動の流れは日本人にとってはごく自然なことだと思っている・・・』
神田と仁科は以前、銀座の喫茶店でお茶を飲みながらそういう類いの話しを利道から聞いたのを思い返していた。光夫が利道に親密になったきっかけは単にデータの中身をみただけのことかと二人はおもっていたが、良く考えてみると彼の気持ちもなんとか知ることが出来る。神田と同様仁科もこの光夫の事件をきっかけに利道の考えが少し理解できる気もしていた。
「しかし・・・」
「何です先輩」
「俺も疲れた・・・」
「そういえば私も・・・」
「おいおい、二人とも。今日あんな事があって大変だったけど、あんまり落ち込むなよ」 仁科は利道の本当の狙いを知りたいと思った。きっと、手紙かメールで連絡をしてくるはずだ。それまでの光夫のことも分かるかも知れない。
酒を飲む気にはなれなかったが、飲まずにはいられない。
「先輩、ウチらはどうなるんでしょう」
「北斗は残るという話しだが・・・」
「みんな生活がかかっていますからね」
「とにかく、家に戻ろう。副社長からメールが着いてるかみてみよう・・・」
荒木夫妻は手を振りながら見送ってはいるが康夫の笑顔の中にある鋭い目は何を物語っているかはこの時二人はまだ気付いてはいない。足早で神田の家にようやく辿り着く。
太郎たちは商店街の付合いで康夫と出かけるらしい。店の看板にはしばらく休業と書いている。
神田はもともと学生時代から早雲に引き抜かれていた。今回の件で利道と深く関わったことで一応の叱責は覚悟している。仁科も同罪らしい。形の上では貴子は早雲に食ってかかっている。早雲も毅然として受けて立つ。補償問題は早雲の勝利に終わるが、その後貴子の生活に大きな変化があらわれていた。
「届いてますよ。先輩。名前は書いてないけれど。銀座のネットカフェからの送信です」「副社長からだ・・・」
「いや、CCのところからだ。誰かに経由している・・・」
添付されたPDFファイルはセキュリティーが施されている。パスワードを入れないと開封出来ないようになっている。
仁科はReでパスワードの要求をした。
少し前に何者かに送られた携帯へのメールを五つのパスワードが書かれている神田のパソコンに送ったが、間違えてそのファイルで再送してしまう。
「いけねぇ。先輩。さっきのメールで送っちゃった・・・」
「いいよいいよ。俺にはもう関係ないよ」
仁科に不安がよぎっていた。
神田は今度の出来事で憔悴しきっていた。「仁科。お前にまかせる・・・」
自分ではそんなに呑んでいないと言っていたが、実はいつもの倍以上はいっているらしかった。神田はベッドの上でいつの間にか熟睡している。
「それはないよ、先輩・・・」
仁科は神田の気持ちがよくみえる。そっとしておくほかはなかった。光夫のことで頭が一杯なのはよく分かっていた。
送信したメールの返事を待っていたがなかなか送ってこない。仁科は待ちくたびれてパソコンの前で寝てしまう。
深夜になりふと目が覚める。RETURNキーを押してスリープ状態の画面を元にもどす。受信中を示すコントロールバーが動いていた。相手の名は伏せているらしい。
発信エリアは北海道からのようであった。アットマークの前がfuranoとなっていたからだ。利道だとしたらきっとどこかのメールアドレスを拝借した可能性がある。
Reのメールに四桁のアラビア数字が打ち込んであった。コメントと発信者の実名はなかった。
添付のPDFファイルにパスワードを入れる。原稿用紙ソフトで書かれた画面がでてきた。閲覧するだけで書き込みは出来そうもない。文字をアウトライン化していたからだ。 仁科は恐る恐る画面の文章を読み始めた。 市販の四百字詰めの画面があらわれた。
『今回、君たちには多大な迷惑をかけ、申し訳なく思っている。許してくれ。責任は全て私にある。君たちのいかなる責めにも応えるつもりだ。もちろん、光夫君の不幸なことについてもだ。私は君たちを北斗の改革にうまく利用し、自分の本来の計画にも引きずり込もうとしていたのは事実だ。詳しいことは今言うことは出来ないが、私には大義名分がある。この美しい日本のこれからの為にやらなければならない事なのだ。
君たちや北斗の社員は今まで通りとのことだ。私の後任に尾上君を推しておいた。何かあったら相談するように。ただ、このままだと北斗の先はみえている。覚悟はしておいたほうがいいだろう。その時は多少私も力になれるかも知れない。私はしばらく世間から身を隠すことになるが、君たちのことは社長にうまく話しておいたからしばらくは大丈夫だとは思う。光夫君が大変なことになった。ある程度病気のことは知っていたから予想はしていたが、急なことだったので私も戸惑っている。それに大きな自己嫌悪だ。彼に対しては責任を感じている。いつも彼にプレッシャーを与えていたからね。キャパシティのかなりある男と思っていたよ。とにかく彼の志を強く感じたね。君たちもだよ。彼は本来自分の未来へのビジョンをしっかり持とうとしていたんだ。マスコミ報道でも流れているように私が何をしようとしていたのか知ってると思うが無念でならない。北斗に限って言えば報道では流れているのはまだ氷山の一角だ。君たちはまだ限られた情報しか得てはいないのだ。実は私は北斗にいる間、クーデターの計画を綿密に立てていたことは事実だ。徹底した調査部門をコアにしたのもそのためだ。たまたま社長のバックマネーシステムのルートが目に入り追跡調査をしてみたら、考えられないバリアを発見してしまった。外務省の機密費どころではない。何兆円ものパイプが政官界・企業・諸外国の政府関係機関とつながっていたのだ。表向きの情報では絶対分からないことだ。防衛隊のほとんどの幹部はその汚職構造こそ国家の滅亡の第一の要因となり、諸外国の政権からも相手にされない素地を作り出していると結論付けていたのだ。救われたのは軍関係までにはパイプがなかったため私は急いでアポイントメントを取ったのだ。軍を掌握しているのは、元軍人で226事件で参加した人だ。憂国を感じる人が夢を捨てずにまだ現存している。私の父とともに決起軍だった人だ。私は北斗のからんでいるマネールートを計画の資金の一部にしようと思ったのだ。今回は事情があって計画が白紙に戻ってしまったが、私はこれで諦める人間ではない。しばらくは君たちには会えないかも知れないが、いや会わないほうがいいのかも知れないな。とにかく一年か二年はそうしたほうがいいと考えている。社長にも言っておいてくれ。このままでは北斗はつぶれてしまうとね。たとえそうなってしまっても心配しないで欲しい。信じていて欲しい・・・』 原稿用紙にしてちょうど三枚ほどのものであった。
「そうだったのか・・・」
仁科は光夫が生前五枚のCD│ROMを持っていたことを神田から聞いていた。
何者かが送ってきた謎のテキストデータをフロッピーに落とし込む。気になるのは誰かに間違って送ったことだった。そのことが、また新たな火種を巻き起こす事になる。
そのメールの送信先は尾上であった。

七 ネクストワールド

二十一世紀も数年が経ち、前世紀から六十年もの間米国に監視され続けている。
与えられた平和憲法での生活にも慣れ親しみ、彼らの世界戦略に組み込まれスタンダードの意向に添おうと必死である。
九月になり心地よい涼秋の微風が街角に訪れるころとなった。
光夫が亡くなって二年の歳月が流れた。
米国での同時多発テロは歴史的な大事件となった。
日本をはじめとする各国の犠牲者が数千人の規模で出ていた。真の首謀者はいまだに分かっていない。世界情勢は風雲急の様相になってきていた。
政府の中枢はマヒ状態となっている。
とくに官公庁や外務省職員の不祥事が後を絶たなくなっていた。政治家たちのモラルもまったくなくなり限度を超えていた。
それでも国民は選挙ともなれば半分近くは棄権する不思議な国として諸外国からは見られる。彼らの内政干渉にも批判する勇気もプライドも感じなくなっていた。
誰もが危険な兆候を感じとっていた。

200X年の新しい年が明ける。
安西がとうとう動き出したのだ。
北海道全域を要塞化とし、本州に三カ所、四国、九州、奄美大島のあわせて七つの基地を知らない間に完成させていたのだ。
三十年間手塩にかけて作られた安西グループの汗の結晶は関係者以外しばらくは知ることができない。
各国首脳は戦々恐々としている。
セブン・センスのウイリアムは本国の国防総省から安西の詳しい情報を連日要求されていた。CIA関係者もお手上げの状態だったからだ。ウイリアムも現地法人を拠点に北斗の早雲や光夫に近づいて間接的な情報を得ることも出来ない。予想以上の鉄壁のカーテンだ。安西インターナショナルの関係者とのコンタクトは全て監視付きとなっている。
仁科や神田たちは以前のように北斗の制作室で働いている。コンペやプレゼンの過酷な日々が続いている。
1月の下旬、利道のポストを譲り受けた尾上が早雲や星加のデータの内容をつかみマスコミ報道関係に精力的に流しはじめた。
早雲は影山が特捜部を辞職したので後ろ盾がなくなっていたのだ。星加は防戦一方で早雲をかばう余裕などはなかった。矢島も白鳥銀行の存続も危ういとみて機敏に対処している。
早雲は完全に追いつめられた。銀行からの支援はなくなり、会社更生法を余儀なくされていた。
2月、北斗は事実上の倒産となった。利道と早雲の個人的な決着は相打ちとなったわけだが世界の情勢はそれどころではなくなっていたのだ。
利道は二年もの間、北海道の富良野で法子とひっそりと暮らしていた。
その間彼は世俗とは離れ、自分自身へ修養を課していた。以前の自分の小ささに嫌気をさし、仁科たちや光夫を巻き込んでしまった反省の日々を送っている。利通にとってふと感じた法子への愛は日増しに強まっている。 法子は裸同然となった利道にはじめて親近感を覚えた。自給自足の自然との対峙は二人の距離をすこしずつ近づかせる。
利道は北斗を去ってから、尾上には自重するように働きかけていた。安西時代から利道を慕っていた彼には利道の一件に納得がいかなかったからだという。尾上は利道よりかなり右寄りに属していた。彼はこの件で北斗が消滅したのを見届けてから身の振り方を考えるつもりのようだ。骨太のヤツだと利道は羨ましく思うときもある。以前の自分にピタリとシルエットのように合わせられる。憎めない男だ。
同時多発テロの半年後。関東では桜前線が例年より早く北上する。
隣国では国際的なモラルが問われる重大な事件が起きていた。日本の総領事館が中国の軍隊に侵入されたのだ。
外国の大使館・総領事館不可侵の大原則を無視するということは神聖な領域を汚す重罪になる。1961年の在外公館の不可侵と外交官特権を盛込んだウィーン条約違反でもある。大元になったその条約は十七世紀までさかのぼる。神聖ローマ帝国と仏国との三十年戦争の講和の時に結ばれたウエストファリア条約だ。以後三世紀ほど今日までそれは破られることはなかった。近代でのどんな独裁者たちでも徹底して条約を遵守している。それが彼らによって一夜にして条約の鉄則が破壊されたのだ。戦争が起きても致し方ないというのは自然な考えだ。彼らは難民関係者とのトラブルで行為に及んだわけだが、当事者たちの対処法のまずさがあったとしても条約を無視したことは公然の事実だ。
だが、彼らは自分たちの勝手な論理で逆に外国の言い分を聞こうともしない。謝罪しようともしない。それどころか昔の戦争の歴史を盾に取り逆に謝罪せよといってはばからない。毎年多額の開発途上国援助をしているにもかかわらずだ。
その横柄で思慮のない無節操さは4000年の歴史そのものだ。諸外国も条約遵守では一致している。モラルをなくしては地球の文明も危うい。その国は今後、国際的にも孤立するどころか存在すらあやうくなるだろう。彼らの行為に対して日本政府はかなりの抵抗をしているが、現政権ではどこまでやれるか分からない。長年の米国の占領によって培われた自虐的な精神は対外的な交渉力にも影響している。
国内でも閉塞感が蔓延していた。
利道の住んでいる山奥の小屋に一人の老人が五人の男たちと訪ねてきた。
上空では最新鋭の純国産の戦闘ヘリが十数機旋回している。国の動きが慌ただしくなっている証拠だ。
だが、利道には以前の様な野望はなくなりかけていた。以前の事件で身も心もズタズタになり、法子との自然な生活が彼本来の心を取り戻しつつあった。あの野心のある高慢で人を見下そうとする鋭い目は見る影もなかった。星加のはからいで早雲の私的財産は愛人達の家族に平等に分けられた。早雲も貴子と山梨で前妻の残した塾でひっそりと暮らしている噂を耳にしていた。それは二人にとってたったひとつの生き甲斐となっていた。
利道は迷惑そうな顔で辺りを見回した。
北海道全土が要塞化しているとは考えも想像もつかなかったことだ。まだその全容は憶測の域を出ていない。
安西が迷彩服で姿をあらわした。そしてその三人の子息たち。神田太郎と荒木康夫の顔もあった。
「しばらくだね・・・」
「安西さん・・・」
しばらく沈黙が続いていた。互いに昔のわだかまりを拭いきれないもどかしさがあったからだ。うわべの言葉だけでは到底深くなった溝は埋まるものではなかった。以前の利道ではそういう思慮があったはずだが今は違っていた。
安西龍太郎が土下座をし始めようとした。八十歳を過ぎた老人が深々と頭を下げようとしたのだ。他の男たちは止めにはいった。
「父さん。いけない。そこまでやることはありませんよ。いままでは彼にも落度があったんですから。逆ではないですか?」
安西は終始無言だった。
「ばか者・・・。いまはそんなことを言ってる場合じゃないんだ・・・」
「は・・・」
彼の息子たちも失言を認め、利道に頭を下げる。彼らが強気な態度に出たのは、以前の利道の横柄なやり方がまだ脳裏に住み着いていたからだ。
利道の目には涙が浮かんでいた。とっさに安西より先に土下座を始めた。彼は仙人のように伸びた髭をなびかせ安西にやさしく語りかける。
「安西さん、どうかおやめください。謝らなければならないのは私の方なんですから」
それまで利道が傍観者的にいくら誹謗しようとも彼は沈黙を続けていた。愚を装う難しさを知った利道にとって安西への見方が変わっていた。利道は器量も以前よりひとまわり大きくなっていた。
「利道君、変わったな・・・」
安西は昔、直感で彼を見込んだことに間違いなかったとこの時確信していた。
「いえ、そんな・・・」
「ぜひ力を貸してくれ・・・」
「私の・・・ですか?」
「そうだ。その時がようやく来たんだよ」
「なんのことですか?・・・」
「君がいままで考えていたことだ・・・」
「私は何のお役には立てません・・・」
「明日、或るところで緊急の委員会がある。よかったら来てくれ。場所と日時はメールで知らせる。その時はヘリを用意する・・・」「一晩考えさせてください・・・」
「そうだな。私の身勝手を許してくれ。これまでのこともだ。話したいことが山ほどあるんだ。君のお父さんのこともな・・・」
「親父?・・・」
きりっと結んだ口元は安西と利道は似ているところがある。
一向は行き先を知らせないまま重装備のヘリに乗り込んだ。
音が小さいがものすごい速度だ。マッハのスピードは出せそうな性能だ。そんな高精度の戦闘ヘリをいつの間に作ったのか利道は驚いていた。
戦闘ヘリだけではない。後日、利道は安西の壮大な計画と行動に腰を抜かすに違いなかった。
この日の朝、戦慄の安西のスクープが公開されていた。といっても真偽のほどは分からない状況だ。各紙の朝刊では全頁特集で組まれていた。

五大新聞や海外の新聞紙は
『衝撃の安西インターナショナル』
という超特大の活字で一面を飾る。
しかも全ページにわたっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・衝撃の安西インターナショナルのすべて
・総資産五百兆円+二千兆円=二千五百兆円・グループ年間取扱高二百兆円
・スタッフは国内国外あわせて五十万人
・私立の大学総合病院と幼稚園から大学院までの学校法人を経営
・多くのITやバイオテクノロジー・宇宙理論の研究機関を世界各地に擁している。
・米国も恐れるネットウイルス「ブルー・モ ンキー」の存在。ネットを通していかなる 軍事システムをも破壊するソフトの完成。・世界的な軍事管制システム「アースウイン ドフォースシステム」の完成
・最新航空母艦の建造(隻数・場所は不明)(空母は米国の最新より約二倍の大きさ)
・航空戦闘機の開発(機数・場所は不明)
・石油を必要としないエネルギー物質の完成(重力を利用した動力装置の完成)
・独自のネットバンキング
・非営利のハウスエージェンシー
・複数の協力国の存在(国名は不明)
◎考えられる主なメンバー
・安西龍太郎
・安西幸一郎
・安西宗時
・安西大介
・神田太郎
・星加相次郎
・美咲仁蔵・晋作
・荒木康夫
・結城美穂子
・安西朋美
・その他
さらに安西との関連性はともかく新たな情報が加わっていた。主な事柄が特集に組まれている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「全世界再生プログラム極秘委員会」の実態(1925年発足・時代の動きにあわせる)のニュースが流れる。
◎安西との関わりはクロ
◎新国家体制の確立および早急な米国占領計画案作成
◎極東軍事裁判異議申し立てと再審要求
◎日本による世界共栄圏構想
第三惑星防衛軍(新地球防衛軍)設立計画
◎日本の皇室を中心とした平和主義的世界政 府の樹立計画
◎日本主導による世界通貨基準WEの設定◎日本語を国際語にする(カタカナ・ひらがなのみの言語)
◎六三三四制の学生の見直し
◎一国による帝国主義的行為に対する威嚇
◎国会議員および公務員の全廃
◎小さな政府の樹立。職業としての代議士は認めない。日本防衛隊による三年間の暫定 政権とその後の新たな試案づくりの検討。◎全金融機関を新政府の管理下に置く。
個人資産1400兆円も同様。
有効なバブル土地経済も活性化させ、経済不良債権を撲滅させる。
◎多角的および公正な格付調査機関の設立
◎民間人による無償の国会運営と自治体運営◎新たな政治形態の設定計画。
◎全世界のテロ組織と非テロ組織との融合計画と和睦協定
◎全世界貧困撲滅プログラム。北半球経済の南半球経済への支援
◎白色人種植民地の全廃
◎商業広告の見直し。景観にそぐわないものは審査および廃止。
◎京都議定書の全世界的完全法制化
◎成層圏バリアセキュリティシステム
◎安保体制の解除および空母十隻の建造完成◎中国との友好条約の破棄及び再統治
◎廃県置州(日本を七州に分ける)
◎国際連合を廃止し、新たな世界平和連合を設立する
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
利道は法子に言われて初めて新聞に目を通した。ここ何年間も活字とは離れていたので新鮮な気がする。
「まさか・・・安西さんが・・・」
利道が安西にいたときから既に進めていたことが分かる。
「あの方たちしかいないと思うわ。あなた」「どうしたらいい?・・・」
「変わったわね、あなた・・・」
利道は法子を強く抱擁した。
「どうしたの?」
利道は怖くなっていたのだ。早雲を父にもつ法子には懺悔の日々がつづく。
「法子・・・」
「抱いて・・・」
法子は利道が人の怖さを知ってから、すっかり変わってしまったのを心から歓迎していた。もう、何をしても心配することはないと思っていたのだ。
「もっと自信を持ちなさい・・・」
「ちょっと歩こうか・・・」
「うん・・・」
利道は新婚時代の新鮮な気持ちを思いだしていた。
「会いに行ったら・・・」
「いいのか?・・・」
利道は心の中で以前の野望というか正義というか、そういうものが少しずつ蓄積してくる気がしていた。
ただ、それがよみがえったとしても北斗のころの自分とはちがう存在を覚えていた。人を愛する気持ち。自然を慕う気持ち。国を想う気持ち。他の国とともに平和を模索する強い気持ちがあった。
安西は利道にそういうものが備わるのをじっと待っていてくれたのだと想った。真実は分からないがそれはどうでもいいことだ。
人は誇りと愛をもって力強く戦う。利道は時代を良い方向に変えるというプラス志向だけは忘れてはいなかった。
法子と穏便に富良野の地で暮らすつもりでいた。そのささやかな想いも日本国の存亡の危機となれば放っておくわけにも行かなかった。できる限りの支援をする方向に自分を持っていく。
法子も同意してくれていた。二年の間に利道は一段と心身がパワーアップしていたことになる。

ワシントンのホワイトハウスでは安西側から八田広樹が潜入していた。
大統領側近のジェームズ・ストーンは日本にいるウイリアムに直接指令を出していた。 現職の大統領の信頼は公私共に厚い。
八田はジェームズの私的な趣味嗜好を突破口にしてフリーのカメラマンを十五年間続けていた。プライベートでは多重人格のジェームズはウイリアムと仲はいい。同性の関係を長年続けている。八田はそこにつけ込みジェームズと親しくなっていた。ホワイトハウスの情報は筒抜けになっていたのだ。
大統領はテロを自分の石油利権に利用し、軍事産業や軍の雇用を徹底して守ってやり、以前から世界戦略に利用していたジャパンマネーを死守しようとしていたらしい。
安西は、北斗の社員を全員安西エージェンシーに受け入れた。
Xデーが刻々と近づいてくる。
利通は安西の気持ちをようやく理解しようとしていた。
仁科は安西に認められ、グループでの指導的立場になっていた。神田は体調を理由に安西入りを断っている。結城美穂子は安西の養子であることがわかる。
安西朋美は仁科とともに将来を歩む事になった。
その朝TVでは現政府としての最後の見解が数日中に行われると発表された。
「じゃ、いってくる」
利通は温かく見送る法子を背にしていた。 透き通ったセルリアンブルーの空が突然暗くなった。数え切れない音のでない最新鋭の戦闘機が東京の方角を目指していた。

(了)

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