父の本懐(本編)


父から祖母危篤の電話が入った。四月になり、桜前線が紀伊半島の中ほどまで近づいていた。半年前に祖母を見舞ったばかりである。
今度も、彼女が常識を超えた回復力で、また立ち直るのではないか、と安心していた矢先である。
正直言って、私は焦っていた。祖母が生きている間に、是非聞いておきたい事があったからである。彼女は、明治の末期から平成まで、四つの時代を生きた猛女でもある。些細なことでも、祖母は私にとっては、まだ大切な生き証人なのである。
私は一時期、昭和という言葉が嫌いになっていた。思いだしたくもない、振り返りたくもない暗い時代。その残像が、どうしても自分から離れなかったからだ。今では、ようやく自分でも、良いことも悪いことも素直に認めるようになった様な気がする。
虫の知らせとか、以心伝心とかよく言われる。私はその前日の朝からなんとなく落ち着きがなかった。誰かの手に何度も何度も、背中をさすられる感じがしていた。祖母の手が、雲の合間をかき分けて、手に負えなかった孫にでも会いに来たというのだろうか。おそらく血のつながった、特殊な磁場でもあるのだろう。
幽霊や怖いものを見た時の、あの身の毛もよだつ思いとは違う。感動した映画や舞台を観た時には、誰でも体の中に電流が通り抜けるものだが、そういう感覚でもない。いつの間にか私の眼からは、祖母への涙がこぼれていた。
無意識に事を構えていても、心の底ではしっかり意識が支えている。人を想う気持ちは、誰にでもそう簡単になくなるものではないらしい。
隣家の屋根に陣取っている、黒い鳥の群れを目にしていた。どうやら町内会の知人のお爺さんが危ないらしい。カラスが人間の言葉のように、不気味に鳴き叫んでいる。
私はよくカラスと目が合う。もし、私が人間でなかったら、彼らは快く仲間に入れてくれるような素振りである。その視線とくちばしの先は、野獣が瀕死直前の獲物を狙っているようでもある。人の気持ちの裏側まで見通すような得体のしれない生き物である。死界から呼ばれて来たのか、死の直前の人の霊魂に誘われてやって来たのか、その鳴き声からでは分からない。私には彼らは、冥土からの使者にも見える。
帰宅途中の夕刻、その家では多くの花輪が並べられていた。
私はその喪服の列に加わっていた。九十歳を優に越えた祖母も、もうそろそろかな、という予感が体の中を走った。好奇心の旺盛な反面、ものぐさな私でもある。不幸な出来事には、出会わない方がいいに決まっている。
私はいつも、あの姉妹の事が気になっていた。結婚して長女が生まれてから郷里へは、二度ほどしか帰っていない。妻の有希子と長女の彩香は祖母とは仲が良かった。その後は、年に数回の電話や、賀状を送るぐらいであった。有希子が病気してからは、祖母との交流は疎遠になりかけていた。
祖母を見舞いに行ったのは、晩秋の頃であった。その時は医者からはあと一週間といわれたものだ。
一ヵ月、二ヶ月、三ヵ月とふんばり、六ヶ月が過ぎた。肺に水がたまり片方が駄目らしい、と医者から言われていた。もう一つの肺にも水がたまり、毎日多量抜いているという。片方の肺を頼りに点滴を受けながらも、冥土からの誘いを拒絶している。
医者も半ば呆れ顔で元気だねぇと、いつもの笑みを浮かべてはいる。祖母とは長い付き合いでもある。私も十歳のころ、花火を目にあてて、手術をしてもらった事がある。高齢だが、しぶとい現役である。死ぬ間際まで聴診器を手放さない勢いがある。それくらい丈夫な方である。祖母より、ひとまわりは若い。彼も内心、祖母の生きようとする堅い意思に、畏敬の念を抱いていたのは想像に固くない。
医学でも予測できない、もどかしさがあったのだろう。祖父がなくなってからは、これまでも、五度くらい入院をしていた。子供のころ、夜中になると腰や体中が痛い痛いと、泣き叫んでいたことがある。朝になると症状はなくなり、その次の夜になるとまた叫ぶ。それが一年くらい続いた。
祖母は、座敷童子(ざしきわらし)にからかわれているのだろう、と父はよく言っていたものだ。東北地方では、昔から家を守る精霊と言われている。座敷童子が多くいると家は栄え、いなくなるとその家は衰える。
そういえば、妻の有希子も実家では、深夜によく子供たちの遊ぶ声を、耳にするという。昔からの言い伝えを妻はすでに体験していた。
祖母は座敷童子にでも、見守られていたと思えたが、実家は栄えたという話は今まで聞いた事はない。座敷童子がいるということは、目では見えない何かが、栄えているという事なのだろう。
担当医からは、何回となく原因不明の病といわれていた。祖母への最後通告はいつも空振りに終わっていた。医者が、何度となく原因を探ろうとしても、医学では説明できない。そういう不気味さが祖母にはあった。
病室にいくと祖母と叔母がいた。祖母にとって長女である清美さんは、父の妹で、七十歳を迎えたばかりである。祖母が入院して以来、私の妹と交代で寝ずの看病をしていたようである。
「たかちゃん、よー来たねぇ、車で来たの?」
「うん、郡山を廻ってね・・・」
「たしか東北自動車道だよね。トンネルは多いし運転眠くなかったがね?うちの俊彦はトラックで事故ばっかり起こしてさぁ。こんど何とか言ってくだせぇ。それと奥さんのほう、もう具合いいんだがね?」
「はぁ、もう五年経ちましたから…」
「もう五年になるんだねぇ、じゃぁもうだいじょぶだがね。彩香ちゃんもういくつ?おおきくなったろう?」
「いま中三です」
「どこにいってるんだっけね?
東京ではミッション系の学校とか聞いてるが。学費たいへんでしょう?」
「はぁ、何とかやってます」
長女のことは、おそらく祖母から聞いたのだろう。学校のことは、今まで叔母は口にしたことはなかった。
十年程前、祖母がまだ元気なころ、彩香とよく外で遊んでいた。祖母は寝たきりとは縁がない。
祖母と彩香はよくじゃれあっていた。娘はその時無意識に、祖母の想いを受け入れていたのかもしれない。彼女の少女時代、過ごすはずだった、あこがれの学校生活は幻に終わっていた。三年前、八十年後に自分のひ孫が、そこへ入学した事を喜んでいた。
清美さんにとって私は幼少のころからのお気に入りのようだった。曾祖父に似て祖父も割合無私の人で、周りからは人望があったと聞いている。
損得勘定が不得手で、大甘で、大風呂敷の性格であったようだ。律儀な反面、堅気風のようには見えなくて、その筋の人にも一目置かれていたという。若い人や困った人への面倒見はよかったらしい。だが、家のことは余りかえりみず、暇が有れば、若い者を家に呼んで馳走をする日々であった。村の行事にも明け暮れていた。祖母の大変さがわかる一端である。そういう風に祖母からは聞かされていた。清美さんは、四人兄弟の長女ということで祖父からは溺愛されていた。私はその祖父の若い頃に良く似ていると言う。
私は腕白で、いつも隣り村の子達と、喧嘩と遊びに明け暮れ、いつ何をするかよく分からない、アブナイ少年であった。
子どもは馬鹿な事をするぐらい元気でなきゃだめよ、と考えるおおらかな人だ。たしかに好奇心と新し物好きは私と似ている。だが、私のものぐさな性格だけは彼女にはない。早い話し、性格的に馬が合う、叔母と甥の単純な関係ともいえる。
小学生のくせに叔父の隠していた、大人の雑誌を読みふけり、若い女のヌード写真を執拗に模写していたりしていた。いつも何を考えているか分からない、人をハラハラさせる甥の気質が、祖父の面影と重なっていたのだろう。叔母としても気になっていたのである。
父の弟が結婚する前、よく男女の幼なじみを連れてきていた。私は成人になっていく美女たちの体の匂いが、たまらなく好きだった。
「孝くん、大きくなったわね・・・」
と彼女たちが半ばからかいながら、私に身を乗り出してくる。
いくら社交辞令とはいえ私は、彼女たちに声をかけられるのが嬉しかったのである。女たちの体から漂うレモンのような香り。豊かで白い胸の膨らみ。スカートからのぞかせていた太腿とふくらはぎ。成人の女たちの存在は、無垢な少年にとっては危険なシグナルでもあった。
私はその衣服の中にいる、隠された肢体をよく夢想していたものだ。今思えば、女の裸を描きたい一心で、美術大学を志すきっかけになっていたのかも知れない。
私はたしかに、女にばかり興味が湧いていた早熟な少年であった。ドラクロアの自由の女神の絵を初めて観たとき、女の乳房の神秘を感じたりもしていた。ロダンの展示会で接吻という作品をみて単純に興奮したりする。悪友と組んで幼なじみの女の子達に、度を越した悪戯ばかりしていた。それでも大目に見てくれる清美さんは頼もしく思えたものだ。だが、祖母には一晩中尻を叩かれていた記憶がある。
「中学に入るというのに、仲間と遊びばっかりだ。勉強もしねでなにやってるんだね」と苦笑いされながら、よく小言をいわれたものである。
「そんなことじゃ大きくなったら、皆に馬鹿にされるのがおちなんだよ。嫁のきてなんかあるもんかね。孝、なんでさ本気ださねぇ?男なら、行けるとこまで行け。悪いことはしても、人はあやめるな。あやめるなら自分をあやめろ」
その後、中学での私の突然変異に祖母は驚いていた。彼女の言葉が刺激になったのだろうか。
いや、たぶん、女の子によく見られたいからなのか、多分そうかもしれぬ。単に思春期特有の反抗期に早く遭遇したのか。それもいえる。初めての中学校の試験で成績が校内で一番最後の順番であった。よほど悔しかったのか、自分で自分を奮い立たせたのだろう。
悪友たちが案外出来が良かった影響もある。成績は順位が貼りだされる。日頃仲の良い女の子に対しても合わせる顔がなくなる。私が突然、がり勉になった理由かもしれない。
陸上部に入り、英語クラブの部長にもなった。英語の弁論大会では初恋の子と共に地区の代表にもなっていた。
祖母の怒りの顔がいつも頭の中をよぎっていた。涙を流すことや人を褒めることはあまりない。
有希子を初めて実家に連れていった時は涙を流していた。たしか、そのときぐらいである。私が五歳のとき祖父が亡くなり、四十代で未亡人になってもう半世紀にもなる。
点滴を受けながら祖母は何気なく新聞を読んでいる。柩に足を半分かけながらもイラク戦争の推移を見ている。この世の見納めに狂気の世界を眺めているのだろうか、三途の川を渡るときでも、その転んでもただでは起きない性格をいかんなく発揮するのだろう。彼女のやりそうなことだ。時折女看護師さんに頼んで、英字新聞を買ってきてもらうという。英語は小さい頃から得意だったようだ。私も幼少時、何気なく教えてもらった記憶がある。
祖母の見舞いの手前、清美さんとあまり長い世間話はよくないと、互いに視線で気遣いをはじめる。
清美さんは私の母と年は同じである。屈託のない笑顔となりふり構わぬ強引なお節介の二本柱が、体の真ん中にびしっと埋まっている。つくり笑いは一切しない人だ。人からは裏表のない性格とみられていて、何処でも人気者である。若い人以上に時代の波に乗るのが素早いのである。祖母の分身の様なものだ。
彼女の体は、ほとんどが骨と皮だけの状態で、生きているのが不思議である。病室の窓から午後の陽光が差していた。それが、クリーム色に染まった顔を照らしていた。首から上だけは、普通の人とは変わらない。言葉と意識は冴え渡るほどしっかりしている。
明治時代から蓄積された、祖母の涙が私をとらえていた。前から隠し持っていた私のある疑念は、そこでは言う資格はないようにも思えた。
私は少し照れながら、
「来たよ」と彼女に声をかけた。
生温かい無数の皺に包まれた彼女の手。体を支配する飛び出た血管が山脈のように見える。それがゆっくりと私の頬に近づいてくる。
「もっと近くに来て顔を見せて」という。
久々に孫を見る鋭い笑みの視線は、相変わらずであった。
「良く来たね。来てくれるとは思わなかったよ」
彼女はたどたどしくゆっくりと口を開いた。
以前、祖母の生まれた年を調べた事がある。明治四十三年(一九一〇年)は、私から見れば賑やかな年に思えた。ハレー彗星が地球に大接近した年で、世界各地でも騒がれていたらしい。ある婦人の千里眼(透視)が話題になっていた。公に東京帝国大学の博士たちが、その実験に立ち会ったという。単葉飛行機が初めての飛行に成功し、南極大陸には探検隊が出帆している。白樺や三田文学の創刊の年でもあった。
そして、二〇〇三年の年には、火星が六万年ぶりに地球に大接近する。人は誰でもある星の下に生まれ、見えない運命や宿命を背負うという。祖母は文字どおり、何かの星の下で生まれ、死んでいくのだろう。彼女は、ごく小さいけれど自分の歴史をつくった。その片隅で一生を終えようとしている。身近な人以外、誰からも感謝される事なく。
大正の末期、勝気な性格の祖母は、地元の女学校を飛び級で卒業した。教員からは将来を期待されていた。後年、叔母や母もそこで学んでいる。噂では教師を目指していたらしいが、実際は何を目指していたかは分からない。小さいころは東京の番町に材木問屋の親戚がおり、キリスト教系の高等女学校を紹介されていたらしい。だが、以前からの許婚である祖父との結婚が早まる。入学手続きはしたものの、良き理解者だった祖母の父が急死したからである。親戚中の反対に目もくれず祖母を最後までかばった祖母の父は、彼女にとっては早すぎる死であっただろう。祖母の米国への渡航の夢も無残に散ったのである。
母が市内の女学校の先生からそういう噂を耳にしたといっていた。祖母にとってひ孫にあたる私の長女がいま、千代田区番町のプロテスタント校に通っているというのは、あながち偶然ではないのかも知れない。
五年前祖母の実家とすべての広大な田畑が人の手にわたった。一家は離散していた。
祖母には実家に父と同じくらいの甥がいた。小さいころはよく私を可愛がっていた。長年ギャンブルに明け暮れ、金銭感覚がまるでないような人だった。
ホラを吹くのが癖で、中国から来た姉妹家族の前に、銀行から借りた山積みの札束を見せ自慢していた。が、そのくせ仕入れた家畜の肥料代は一度も払ったためしがない。その額だけでも、たまりにたまって優に三千万円はこえていたという。土地や動産をすべて売り払っても、まだ三億円の負債が残っていたのである。祖母の甥は絶縁され、失踪して行方が分からなくなっていた。
時折、とうに縁を切られたのにもかかわらず、元の実家やほうぼうに散った元家族のところに出没し、無心を繰り返しているという。運良くもらったお金でまた賭け事で使い果たしていた。
『またか・・・あの馬鹿・・・』
私の実家には、そうはさせないと待ち構えている祖母がいた。彼がやって来る気配はまったくない。祖母は実家がなくなり、情けなく思ったのだろう。さぞかし憤慨していたに違いなかった。おそらく彼女の目に、祖父や祖父の父と、自分の甥の姿が重なってきていたのだろう。祖母は私にも監視の眼を広げた。
直感で私の性格を見抜いたのか、単なる忠告をしたかったのかは分からない。
ただ、本当のところ私も何をしでかすか、不安なのである。
あれはもう、二十年前の話になる。
祖母と父が多額の私費で、中国から残留孤児の姉妹家族を呼び寄せていた。四月のはじめ、父から突然成田へ行ってくれという電話が入った。
その頃、私は仕事のあいまに絵を描き続けていた。銀座四丁目の小さな画廊で、個展を終えたばかりのことである。私が有希子と結婚する二年も前のことであった。私は知らなかったが、すでに来日してくる彼らへのお膳立ては出来ていたのである。
祖父の兄弟の子であるから、その姉妹は父の従姉妹に当たる。公的な補助金も出ていたらしい。
姉妹はそれぞれの夫君と、子供達を携えてやって来ていた。私をはじめ、近親や遠縁では、満州で無事姉妹が、生き延びていたということで、沸き上がっていた。
私もすぐ、勤務先を抜け出して、彼らを出迎えに行った。姉妹たちと父や親類縁者の再会のシーンにはだれもが感動していた。私にとっては、そのことは父が主役だからとあまり深くは考えてはいなかった。
だが、それが、決して忘れてはならない、人間としての信頼の大切さを痛感することになる。そして、じわじわと戦争の空しさを、思い知るようになってくるのである。明るいが気性の激しい姉と夫君、長女と長男がいた。おとなしく繊細な妹と夫君、長男から四男。あわせて十人。
成田での出迎えから郷里の駅まで、地元の官公庁、新聞社、テレビ局の関係者が同行していた。半年も一つ屋根の下で暮らしていると、情が移るものらしい。言葉が分からなくても互いの気持ちは通じ合える。来日した子供達は地元の学校の計らいで、半年間学校に通っていた。
祖父の兄弟は九人いたが、そのうちの一人は母の父、一人を除いて他の六人は日本の各地に嫁や婿として郷里を後にしている。
六男は初め近衛兵の軍人になった。二二六事件のあと、関東軍として満州へ赴く。そこで結婚し二人の子が生まれた。ポツダム宣言の後、米国が長崎・広島へ原子爆弾を投下した。日本の敗戦が濃厚と見るや、ソ連軍が突如、樺太、北方四島、満州国へ侵攻した。
六男とその妻は戦死していた。
その後残された姉妹は、ハルピンと北京の中国人に引き取られた。そこで現地の人と結婚し、それぞれ子どもも授かる。
ある日、中国から平穏な家庭を築いているという、日本語で翻訳された二通の手紙が父に送られてきた。それから相互に連絡し合い、当時の厚生省にも確認を急いだ。日中国交正常化が成立してから十年後の事である。郷里の実家には半年間滞在していた。彼らは地元で歓迎、楽しい日々を過ごしたという。
私は当時、銀座一丁目で仕事をしていた。彼らの来日時と帰国の見送りの時。来日している間、郷里の新発田には月に一度様子を見に行くぐらいだった。
父の知人がボランティアで彼らに基本的な日本語を教えていた。姉妹とその家族は県や市、村、学校、テレビ局の多方面のイベントで歓待され、忙しい日々であったことは記憶にあたらしい。
実家で過ごす彼らはいつも明るかった。母の日々の三度の食事、洗濯物、掃除や父の仕事には、彼らがいつも手伝っていた。三度三度十四人分もの食事の用意は想像を絶する。二百日間それが続いていたのだ。
毎日が宴会の様なものであったらしい。寄付や差し入れは毎日あった。わたしも毎月父に仕送りをしていた。母はあまりの忙しさで二ヶ月で入院していた。その間は祖母が切り盛りをしていたが、祖母と父にとっては嬉しくてたまらなかったのだろう。
私は以前から中国の古典物には興味があった。孔子、三国志、孫子、老子、十八史略などにはまった時期がある。だが、正直いまの中国には興味はない。政治はあまり関心はない。しかし、なぜか歴史の文化や、庶民の良識だけには心が動くのである。そう感ずるのは私ひとりだけではないと思う。
中国語の基礎会話をかじりで会得しようとした。文法的には英語に似ているとはいえ、私にとっては意外と難しいのである。結局、私に出来たのは、一般的な挨拶程度である。筆談も多くなった。
彼らはいつも黙っていることはなかった。子供たちの中に、一人だけ女の子がいた。姉の長女である。
私とは気が合った。十八歳になったばかりだという。彼女の母は北京の小学校で夫と共に、教員をやっているといっていた。恋人は北京大学の学生で彼が就職したら一緒になるという。
彼女の恋人は書道が得意で、書いたものをみせてもらったことがある。日本の書道のものとはかなり違う。
逞しい筆の運びには、見るべきものはあった。
だが、手慣れすぎていて、私には感じるところはなかった。書道については少しは分かっているつもりだった。私は思い込みが激しい。
何かを表現する時は巧拙よりも、どのくらいの思いを込めて、ぶつけられるかどうかにかかっている。
だが、彼の作品に、その気持ちの底を伺うことは出来なかった。時流に乗りたいという、焦りも見られる。姉のほうは本国では、上昇志向が激しいと弟は聞いていた。彼女の恋人の作品を日本の書家に見せ、評価してほしいというのである。それには父もたじろいだらしい。
私の方にもお鉢は廻ってきたが、私は断わっていた。姉の打算的な考えには感心できなかったからである。日本の高名な書家のサインもと、だんだんエスカレートしてくる。
祖母と父は彼女の態度を諌めたが、聞くような人ではなかったらしい。私は知らなかったが、姉が、突然実家を飛び出して、勝手な行動も取るようになっていたと後日耳にしていた。
いろいろなイベントに彼らは参加していた。縁者の家では二週間に一度、持ち回りで彼らを呼び、父と祖母を手助けをしていた。
だれもが、姉以外はおおむね、彼らへの印象は好意的であった。縁者の間では、よく厭味で、姉は祖母に似てるねとも言われたようである。直接血のつながりはないのだが。祖母は気にする様子もなかった。
十月になった。
彼らは、日本での楽しい思い出を胸に中国に帰っていった。

それから十年後、私は杉山と久しぶりに会っていた。杉山の郷里の実家は、私の実家とは川を隔てたところにある。昔は豪農だったらしいが、戦後まもなく、大水害で家も田畑も失ったのを契機に離農していた。彼の父は県の職員になっていた。いまはもう定年で退職している。
大手雑誌社の杉山とは幼なじみである。悪友では一番気のあった一人である。
もうひとり、小さいころ、よく彼のお爺さんに説教されていた男がいるが、今では曹洞宗の檀家の立派なお坊様である。
杉山は悪友の中では、一番出来のいい奴である。明治大学を出て、私と同じマスコミ業界に入った。小さいころは、私が羽目を外していたときは、彼がいつも助けてくれた。悪戯がバレても皆は言い訳は互いに一切しない。そういうときは連帯責任でいつも、境内や河原を一日中掃除をさせられていた。壇家の染川もそうであった。染川は駒沢大学を出た後、地元に戻っていた。学生時代、アルバイトでは時折一緒になったことがある。三人は悪い遊びは人一倍だったが、潔さだけは褒められた。褒められたら、懲りずにまた繰り返す。大人になっても、その性格は内に潜んでいる。大人としての常識人という仮面をつけながら、何とか適応している。
有楽町界隈には、戦後から開いている居酒屋が多い。JR有楽町のガード下に、老女とその息子が一緒にやっている焼き鳥屋があった。私がいつも行っている顔なじみの店である。最近は、OLや夫婦でやってくる客が増えていた。どうやら杉山が雑誌に紹介していたらしい。
老女は八十代半ばの現役で、店や客を仕切っている。祖母と同じ年代のようである。息子はとうに六十は過ぎている。十坪ぐらいの所には二十人ほどしか入らない。カウンターとお座敷があり、いつも盛況である。
白黒テレビや電話器はそのまま残っている。焼き鳥の煙で中は黒味がかっている。あまり奇麗ではないが、その古さが郷愁をそそる。
歯切れのいい老女の声が響いた。五十年もの店での立ち振る舞いは、手慣れたものだ。元日活スターの赤木圭一郎のファンで、彼が事故で亡くなる前はよく店に顔を出していたそうである。それが老女の唯一の自慢。今でも、元映画関係の人たちがよく来る。
「お客さん、何人?二人。じゃ、そこに座って。荷物は棚の上よ。
ビールですか?サッポロですか?アサヒですか?キリンですか?
お酒ですか?レバ?タン?ハツ?
タレですか?シオですか?
御新香はいいの?」
たたみかけるように言われる。商売はうまい。
そのあとに息子が言う。
「お客さん、荷物は棚に立ててね」
「立たないよ…」
「あっ、立たないの?やっぱりねぇ。奥さんに怒られちゃうよ。
シオがいいの?シオがねぇな…」
客がみんな笑う。
息子はいつものように、聞き慣れた下ネタと駄洒落を言う。
「ほれ、ほれ…」
ビール瓶を振り子のようにする。ポンと栓抜きで蓋を取る。自慢気に泡を吹き出さないように、コップに注ぐ。客はいつも、老女と息子の名コンビを見てるのが楽しい。
私と杉山が冗談で、
「俺らにも振らせてよ…」
「お客さん、あんたがた二人もてそうじゃん。でも、女の子あんまり泣かすんじゃないよ。あんまり、振るのはね。自分の振ったら…」
「無理だなぁ、振りようがねぇもん…」
まだ売れない、お笑い系の芸人たちもそれに乗って賑やかになる。
彼らの溜り場にもなっている。
店での話は、彼らに任せたところで、杉山が話しかけた。
「孝、元気なんかい?あの人たち…」
「あの人たちって?」
「ほら、中国の…」
「あぁ、あの…。そうか、もう十年経っちゃったなぁ。元気なんじゃないの」
「ずいぶん、冷たいなぁ」
私も自分の事で手いっぱいで、記憶は薄れかけていたのだ。だが、気にはなっていた。
「俺の元上司から何気なく話しがあってな…」
「何の話しだ?」
「詳しい事は俺も知らないよ。だけど、どうも引っかかってるんだなぁ。なんとなく。俺がとやかく言う事じゃないんだが…」
「俺もちょっとな…」
「ん、どういうちょっとだ」
「いや、なにね。あの時のこと。婆ちゃんと親父が話していた事さ」
「何を聞いたんだ?」
「あと二人いたって…」
「そのことかな。やっぱ。いやね、元上司がね、今北海道にいるんだが、
酔った勢いで泣いてたんだ。なんで泣いてるんすかと言ったんだ…」
「それで?そのことと関係でも…」
「あぁ。その二人のこと知ってるらしい…」
「何だかわかんねえょ。姉妹がもう一組いたってか?」
「そうみたいだったなぁ。つまり、腹違い…」
「おい、根も葉もないこと言うんじゃねぇよ。夫に別にいい人がいた?
ありえないことじゃないけどさ…」
「わりぃ、わりぃ」
「ほんとのことは、お前の元上司が知ってるという事だよな。早い話し…」
「そういうこと」
「なんていう人?」
「堀部さん。鹿児島の人だ。長崎と広島で親戚がほとんどなくなったらしい。苦労して東京の大学出て、今のうちの会社に来たんだ。外務省の取材で知りあった今の奥さんと結婚。すったもんだの末会社を辞めてたんだ。その時はおれの上司だった。部下の面倒見はいいんだが、上とは結構揉めてたよね。中国の取材から帰ってからだったな…」
「なんかありそうだなぁ」
「今度紹介するよ。思い切って聞いてみな」
「ああそうだな。そのうちな…」
当時、中国からの家族が来ている間、父には不可解な行動があったようである。謎の二人の女性が現われたというのである。どういう関係かは誰も知る由もない。
二週間のあいだ大阪と東京に行くという名目で、父が知人と郷里を発っている。同行した知人は、祖母の幼馴染みである夏彦爺さんであった。今ではもう他界している。その孫が、幼なじみの杉山雅彦である。
ちょうど毎年恒例の中国残留孤児達の一行が、大挙して来日していた頃と重なる。
それとは関係があるのかはわからない。あったとしても、実際会ったかどうかも知る者はいない。
堀部という元上司は鹿児島出身の熱血漢であったらしい。
直情的に物を言う彼は上からは、冷たい目で見られていた。編集長にも自分の信念を、貫こうとした頑固者だそうである。
今では会社を辞めたあと、北海道の富良野で奥さんと共に、ラベンダー畑をやっているそうだ。そのかたわら、障害者の子供達をひきとり、施設も自前で作っていた。彼らが自活できるように指導している。七十歳の半ばだが水泳で鍛えた、筋肉質の体はまだ四十代にも見えた、と杉山からは聞いている。
今度紹介するよと言われてから、ずるずると年月が経っていた。
もう、十年ほどにもなる。今年は会わねばなるまい。
真実の世界を確かめるために。

姉妹の家族が帰国した二年後、祖母が一度だけぽつりと、本音を言ったことがある。まだ、杉山から話しを聞く前である。
正月に郷里に帰った時である。私が酒を飲みすぎて、寝てしまったと思ったのだろう。実は私は寝てはいなかった。
「あとで来た二人どうなったかね。かわいそうな事をしたもんだねぇ。そのうち向こうにも行って詫びなきゃだめだのう。それから先に来た二人からは、また金送れとさぁ。ほうぼうに手紙が来たらしい」
と父と話していたことがあった。
勿論私は聞いていないと思っているようだった。
その時以来、好奇心の塊である私のなかに、疑念が住み着いていた。
雑誌社の取材申込みが、頻繁にあった事も明るみに出ていた。父と祖母はそのこと自体は認めていた。だが、如何なる内容なのかは話そうとはしない。頑固な父と祖母の黙秘にマスコミはてこずる。理由は分からないが、公になることは免れたらしい。
中国の姉妹とその家族、謎のふたりの女性との因果関係は迷宮に入った。未だに祖母と父の胸の奥で封印されているとしか思えないのである。当時の公的な文書や書類の行方は依然謎のままである。
だからまだ祖母に行かれては困るのだ。済んだ事はもういいだろうが、と父は頑として私にもその事に対して、口を割ろうはしなかったのである。何事もなかったかのように。

祖父が昭和十七年に召集令状の赤紙が届いた。祖父が三十二歳、父が十二歳のときである。
祖父の弟は母の父である。要害山の向こうにいる、大地主の婿養子として迎えられた。越後の地方議員が、度々出入りするほどの旧家であった。
弟の地主同士との縁が、曾祖父の政治好きに、拍車がかかったのだと祖母も言っていた。
母の実家は代々、村を二分する広大な土地を所有していた。今でいうお手伝いさんが十人程いて、大きな屋敷には三十人ほどが住んでいたという。私の実家も地主ではあったが、田畑の規模はその三分の一程度であった。それでも小作地の数は多かったのである。
母は八人兄弟の長女として生まれ、祖母と同じ女学校に通う。通うと言っても当時は道が険しく、車でも通学はとても無理で、市内に下宿していた。文学少女としての夢も祖母と同じ様に、結婚の話しが来たときはあきらめたらしい。なぜか私の実家に嫁いできたのである。母方の親戚では猛反対だったらしい。父と母はいとこ同士と言う事になる。
祖父の父は無類の政治好きで、村長までやっていた。曾祖父や祖父は、人の関係を重視していた。だが、損得の勘定にうといのが裏目に出ていた。
分家の人たちは、お人よしな一面が利用されたのだと言う。政治にはお金はつきものらしく、票集めにも奔走していた。家での集会や宴会の毎日だったらしい。 いつの間にか、経費は膨れ上がり、田畑の半分以上を担保で失っていたのだ。
日米開戦の前年に曾祖父が亡くなった時に、その事実が判明する。おまけに、祖父の戦地出兵である。農家も土地がなければ、お金を稼ぐ手だてはなくなる。祖母はもちろん、父やその兄弟もかなり戸惑ったらしい。
敗戦後、農地改革で地主という制度はなくなり、多額の借金と十枚ほどの田畑しか残らない。昭和二十二年、祖父が復員してきたが激しい戦地での無理がたたり、仕事をするような状態ではなかった。そして、ほとんど生活するだけの極貧状態の中母が嫁いできている。
朝鮮戦争の終わりの頃に私は生まれた。祖父は復員してから、息を引き取る十年の間、酒だけが生きがいの人だった。初孫の誕生に祖父はたいそう喜んでいたそうだ。何年かは可愛がったそうだが、子が成長するにつれ冷酷になっていった。余りにも祖父の父に似てくる孫の姿に、いたたまれなくなったのであろうか。祖母も以前、何気なくこぼした事がある。私もそんな気がしている。
戦前の多額の借金を返すため、祖母は野菜を売り、父を連れて全国各地に出稼ぎに行く。戦後のインフレーションという強運もあって、借金は棒引きに近い状況になる。あとはお金を稼いで田畑を買い戻さなければならぬと、祖母と父は働きに働く。私も幼少のころは、毎日朝早く起こされた。保育園や幼稚園にいく、同じ年頃の子達を傍目で見ていた。リヤカーで、祖母の野菜売りによく駆り出された。そういうことはしばしばであった。祖母はその合間にいつも本を読んでいた。時折私にも読んで聞かせていた。
彼女は村での行事はそっちのけで、稼ぎに稼いだが、むろん良く思わない人も多くいたが、旧家の本家ということもあり、表立って言う者はいない。あるのは陰口だけであった。祖母は徹底した、守銭奴と見られていたようである。そうしなければ一家は大変な事になる。
いわば大黒柱ということになるのだが、叔母の清美さんだけは、母と同じ私立の女学校を出してもらった。女は学問と愛敬と丈夫な体がなきゃ生きては行けないんだという信念が祖母にはあった。それは今でも変わらない。
清美さんは川の反対側の集落へ、父と母の式と前後して嫁いでいった。父は祖母と共に仕事に追われていたから、中学でもろくに学校へは行けなかったが、向学心だけは旺盛であったらしい。残る父の弟の二人は進学を断念する。
それでも次男は機械工学の方面に進もうとしていた。働きながら高校の定時制を終え、上京して夜間部の大学で苦学をしていた。卒業後は村上の運送会社の令嬢に気に入られ婿養子に入る。
三男は県下でも指折りのマラソンランナーであった。大学の駅伝部からもスカウトが頻繁に来ていたが、家の事情を考えた末断っている。まじめで優しい叔父であったが、高校を中退して名古屋での公務員生活を始める。定年退職したあと、心臓をわずらい三年前、祖母より先に他界してしまう。
彼らにとって富や楽という言葉には無縁であった。祖母は貧乏もここまでくれば、腹をくくって、あとは上がるだけと思っていたのだろうか。その経済的困窮は私の兄弟まで尾を引きずっていた。何とか高校までは行かせてもらったが、その上となると厳しい現実が待っていた。弟や妹は私とは違い、それぞれの将来に夢を抱いていた。
妹は看護学校にいき、 新潟の嫁ぎ先で福祉関係の仕事をしている。弟は実家から地元の新聞社に勤めている。彼は実家想いで父や母の面倒をみながらここまできたが、いまだに結婚はしていない。見合いも数え切れないぐらい紹介されたが。
祖母の人に対する厳しい眼が障壁になっていた。弟の方は兄の私とはちがい金銭感覚が鋭い。頼もしく感じる弟である。実家は弟が継ぐわけだが、後継者がいないことに不安を感じている。
私もいまでは関東の郊外で妻と十五歳の娘一人をもつ、ごく普通のサラリーマンである。
地元の高校をでて一年間は、ろくに職にも就かずよく悪友たちと愚れていた。祖母の一番の心配の種はぐうたらな私にあった。暴走族や夜遊びに耽ける破天荒な孫の姿は奇異に見えたのだろう。
色恋沙汰は人一倍だったが、男女との関係は一線を越えることはなかった。自慢にはならないが、今の妻と結ばれるまでは女は知らなかったのである。ぐうたらでも、意外と純情派だったのである。
実家は鎌倉時代以来の旧家でもある。その前は何処から来たかは知らない。もともとは源頼朝につかえ、後裔は足利尊氏や上杉謙信にも使えていた。そして、その養子である景勝と景虎がいたが、景虎側についていた。佐々木を名乗る武将であった。結局景勝側の勝利に終り、敗走し落ちのびて来たところが、今の実家であるらしい。祖母から子供のころから聞かされていた。
倉田家では、男女の貞節観には無言の伝統があった。祖母だって女である。四十代で夫をなくし半世紀もの間、女としての本性をどれほど犠牲にしてきたか推し量ることは出来ない。貧困と多忙が我を忘れさせていたのだろうか。別の人生を考える暇はなかったのだろうか。不思議なことに、浮いた話は一度も聞いたためしはない。私にとっては驚異であった。
実際の男女関係の話は、村ではうるさいのである。だが、一般的に実際には開放的でもあった。ことに本家では男と女の問題では、何かあったらすぐ噂になるのだ。
出来の悪い孫が心配になったのか、祖母の激しい諌めが久しぶりに私を目覚めさせた。
その後、私は単身で上京し、都内の写真メーカーで三年勤めた。
入学金や学費の一部の蓄えをもとに大学を目指した。幾多のアルバイトをしながら、都下の美術大学を二十代半ばで卒業した。卒業証書を祖母に見せたが、
彼女にしてみれば意外だったのだろう。
「あの子がねぇ…」
と笑顔を見せていた。
「苦労して絵の学校出て、これから何するんだ?」
祖母にとって、私は人騒がせな孫である。この先どうやって食べていくのか、一抹の不安があったのだろう。
私の同期でも、就職したのは数えるくらいだった。教職課程など取る余裕もなかった。中学や高校の教員の免許を取ったとしても、美術の教師になれる保証もない。それくらい採用の枠は少なかった。
大学在学中、小さなデザイン会社を、友人たちで立ち上げた。絵のヌードモデルの仕事を、組合から紹介してもらったこともある。
風俗店のイラストを描いたり、絵画教室を自宅のアパートで開いたり、焼鳥屋に住み着いたりしていた。変わったアルバイトでは、仲間とよくモデルルームへ変装して客を装う、いわゆる、擬似家族などで何とか学費は稼いでいた。住宅業界ではさくら一家ともいう。中堅の広告会社に入ってから、もう二十五年にもなる。念願のクリエイティブディレクターにもなれた。その間、時折弟から来る手紙で祖母の様子を知った。
病室ではゆったりと静かな時間が過ぎていた。
「車で疲れただろ?
うちでゆっくりしていきなさい。先に帰っていなさい」
と祖母が息を切らしながら、小さな声で私に話し掛けた。
「これ。もっていきなさい。わたし、書いた・・・」
祖母はうとうとと眠りに入った。清美さんが首を横に振った。
「読んでみなせぇ。どれどれ。ほら、上手でしょう。
入院する前に書いでだんだよ」
「そうだねぇ」
封筒には二枚の和紙が入っていた。
祖母は書道を三十年以上もやっていた。

『思い立ったが吉日。
長者の万灯より貧者の一灯。
ろうそくは
身を減らして人を照らす。
実るほど
頭下がる稲穂かな。
笑う門には福来る。
心は形にあらわれ、
子は親の後ろ姿を見て育つ。
かわいい子には旅をさせろ。
廉直の額に神宿る。
倉田 サキ』

他の一枚には聖書の詩篇が、何行か書きとめられていた。表向きは曹洞宗でも心の中は聖書で埋まっていたのだろうか。
これまで勝手気ままに、歩んできた私への諌めなのか、激励なのか。
その書を読むと、確かに祖母の生き様や人柄がよく出ている。よく耳にする言葉だが何故か目頭が熱くなる。祖母が普段からよく孫たちに話していたことだ。
それが彼女の私や家族に対する、精一杯の贈り物だと思った。
有希子も、きっとそうよ、私に相づちを打った。
その時が祖母との最後の会話となる。私も勝手に考えるものだと、自問自答を繰り返している。だが、この後に及んでの、執着心が私を襲っている。過ぎた事だからもういいかと、自分に言い聞かせてもみた。だが、ここ二十年気になりつづけていたので、諦めるわけにはいかない。この時の私は祖母をそっとしてあげようと思っていた。
祖母はもう家には戻れない事を、悟っていたのだろうか。私には姉妹の事はもう聞く勇気を失っていた。

父からの電話は、祖母がもう今夜は持ちそうもないから、覚悟するようとの事だった。
妻の有希子は五年前、乳がんの手術をしている。摘出か温存療法かで悩んだが、結局片方の乳房を除去した。腫瘍の塊は直径三センチはあった。女医の執刀で手術は十二時間続いた。
彼女の母は三十代で、同じような病気で他界していた。大学病院では依然放射線治療がある。
妻はリハビリを今も続けている。最近では比較的安定しているが、予断は許さない。各部に転移しないという保証は、まったくないのである。
死と隣り合わせた自然の笑みは、何かを超えた逞しさを感じる時がある。だが、有希子はいま、失意のなかにいるはずである。気丈に振舞っているほど私もつらくなる。
上品で明るい性格が、持って生まれた彼女の天性である。医療も格段に進歩している。それを信じるしかない。
「孝さん、はやく行ってあげたら。
サキお婆さま、今夜が山なのでしょう?」
と私に新発田の実家行きをすすめた。
ミッション系の女子大学を出た麻布のお嬢様育ちと田舎出の、アンバランスな組み合わせは、当時周囲を驚かせた。大学の学園祭で知り合い、絵のモデルになってもらったのが馴れ初めである。幼少から体が弱く出産は無理だと言われていた。
有希子の父は叩き上げの苦節を、絵に描いたような人である。苦労して育てた愛娘を、ぐうたら風な青年に奪われたのだ。私は彼にとっては、とらえ所のない最も嫌われるタイプの男だったらしい。今では、少しは認めてくれてはいるらしいのだが。
まだ、公式に有希子との結婚の許諾は得ていない。結婚当初は、何度も何度も許しを請いにいっても、麻布の屋敷には、入れてもらえなかったのである。式は友人の立ち会いの元、小さな教会で二人だけで行った。彼女は信仰深いクリスチャンで我慢強い。とにかく娘一人は授かった。
父から翌未明、二回目の連絡が入った。祖母が息をひきとる。波瀾万丈の九十四年の人生が幕を閉じた。
私はとうとう死に目には会えなかった。
礼服を携えて浦和インターから東北自動車道に入る。他の高速道路に比べ車窓の景色が豊かなので運転はあまり疲れない。
私は車の手入れはあまりしない方である。中古のカローラは廃車目前のようだが、自分にとっては愛車なのだ。近頃は車の異常音が多くなった。なだめながら、結構な気を使っているのである。いつも恐縮しながらハンドルを握る。
車にも人格みたいなものがある。
可愛がればそれに応えてくれるし、そうでなければ思わぬしっぺ返しがあるものだ。
慎重、短気、ノンビリ屋、冷血、温厚、厳しい、人使いが荒い、など車の運転では、人の性格が手に取るようによく見える。
それから恥ずかしい話しだが、免許をとって間もない頃である。自分が道路を右折するときや、右折してくる車を待って停止しているとき、見知らぬ女がよく手をふってきた。
特に美人の子の時にはどきどきしたものだ。皆手を降って笑顔で私に会釈をするのだ。いまでも右折するときは内心胸が躍る。車が右折するときの単なるお礼の意味なのだろうが、馬鹿にも程があるというのはこの事である。自分で自分を馬鹿にしている。
高速道路は、人生の道に良く似ている。曲がりくねったコースや勾配のあるコース、工事中のコースがあり、同じ道をひき返す事が出来ない。ジャンクションで方向を誤るとそのまま進むか、その先のインターで一般道へ降りてから態勢を立て直し、再び高速道路に入る。
私はその最たるものだ。
急がば回れと良く言われるが、ゆっくり進んでも空回りというのが、私にはよくあてはまっている。
たしかにサービスエリアや、パークエリアでは一息つける。祖母は七十代半ばでようやく休む機会を得たのかも知れない。
祖母は、民芸品作りにも精を出していた。業者からは引っ張りだこで、海外からも注文が来ていた。書道や俳句、英会話を習いながら、時折聖書にも目を通していたらしい。
祖母がキリスト教の信者に、なりたかったのかどうかは私は知らない。実家は昔から曹洞宗だったので、お経を唱える同好会にも参加していた。多彩な趣味と実益志向は祖母の基本だった。
実家にはその日の夕刻に着いた。弟が出迎えた。通夜には間に合った。三千坪の広い屋敷でも松・竹・梅や銀杏等の樹木のおかげで、平屋の家は小さく見える。
自給用の農地もあるから、車の駐車は、周りの道に頼るしかない。居間にある空撮の写真がそれを語っていた。
祖母の実家以外の縁者は顔を出していた。奥座敷には、永眠した祖母の安らかな顔があった。
化粧された彼女の表情を見ていると、今にも眼を開けそうなくらいである。中国の姉妹のことについては、最後まで聞けずじまいであった。
悪友だった染川薫は、今では立派な檀家のお坊さんである。お説教もうまくなっていた。
染川は杉山や私と同様、祖母や杉山のお爺さんから、怒鳴られていた。染川の父でも、手に負えないほどの少年だった。冥土にいった祖母たちもさぞかし、苦笑しているのかもしれない。
葬式・告別式では、親戚の協力を得て、父と弟が取りまとめていた。染川のもっともらしい説教が一時間も続いていた。柩の中から、
『もういい加減、それくらいにしろ…』
と祖母の声が聞こえそうな気がしてくる。
無事葬式も四十九日の法要も、過ぎ滞りなく終えることができた。
喪があけたのでそろそろ、私も考えなければならない。

祖母の四十九日が過ぎたある日、私は長女の通う学校行事に足を運んでいた。久しぶりに市ヶ谷の駅に降りた。私はこれまでは、試験日と入学式ぐらいしか来た事がない。
妻が大学病院で治療があり、出席できなくなった。いわゆる父兄会の代理である。これまではずっと、妻に任せっきりだった。
私立のミッションスクールという事だが、建学の歴史は、明治維新前後までさかのぼる。今では激しい中学受験があり、おいそれとは入れないらしい。
定員があるから、致し方ないのだろうが、運良く長女がここに入れたのは、祖母の見えない後押しがあったからなのか、本人の努力によるものなのかは分からない。私は努力も運の内と、決めてかかっている。聖書の礼拝教育中心のプロテスタント校で、個性的な少女たちが、日々楽しくやっているようである。
祖母も昔、こういうところで、学びたかったのだろうか。時折その状況を勝手に想像する時がある。校則はほとんどなく、服装も化粧も何もかも自由であるらしい。ここに入りたい少女たちが、意外と多いのには驚いた。
学校当局は、すべて生徒の自主性に、任せているようである。但し、礼拝教育には熱心である。教師や親は細かい事へは一切関知しないようだ。求められたら、アドバイスをするだけである。親の心配も多い。だが、生徒への社会での学生らしい姿勢には、厳しいものがある。
長女も周りの子達に刺激されてか、結構面白くて、明るいキャラクターになりつつある。勝ち気なのは祖母ゆずりのような気もする。
私は、宗教、とくにキリスト教には疎いが、直感でこの学校にはある使命が存在しているとみた。ミッションとは一般的に、使命という意味がある。
卒業生は、六年間での学校生活が大切と口々に言う。大学受験というのは、取るに足らない事だという。卒業したら日本を飛びだして、各国での奉仕活動をする子もいるという。人生の中で、人として大事なものは何か。大きな心や視点で考え、奉仕の気持ちをもって行動するというのが、この学校の良き理念だという。卒業生のPR欄で私はそれを目にしていた。
これからの世界はどうなるか分からない。
女子の自主・自立を、明治の頃から掲げて来た校風は、多くの支持を得ているようである。
祖母が昔、この世界で過ごしたなら、また別の人生が待ち受けていたのだろうと、不思議に思っていた。父にとっても私にとっても。

八月になった。北海道にいる元雑誌担当者と会わないかと、以前から杉山に誘われていた。本当の事を聞くことが、出来るかどうかはわからない。納得するまでとことんやる性格は直らないようだ。時には、割り切る事も必要とは思いつつ。とにかく、私はようやく重い腰を上げた。妻の有希子と娘の彩香も連れて、杉山や事務所の関係者も同じ、格安ツアーで行く事にした。
北海道へは二年ぶりである。富良野の堀部夫妻と会う事になる。ここまできたら第三者から聞くしかないのだ。根掘り葉掘りと、話しをほじくり返す結果、叱責されるかも知れない。父もああいう性格だから、祖母のところへ、自分の想いを運んでいくのだろうと思ったからである。知ったところでどうするといわれても、今私には何も出来ないだろう。そっとしてあげたらいいかとも思う。複雑な心境であった。だが、身内として、どうしても知りたいのである。
謎の二人の女は父や祖母とどういう間柄なのか。
羽田からは函館に行き、ニセコ、小樽、最後に富良野というフリープランである。妻有希子と長女の彩香も、久しぶりの旅行で嬉しそうだ。
夏休みの期間なので、羽田空港は、連日家族連れで賑わっている。ジャンボジェットは離陸して高度が十キロのところで、水平飛行に入る。窓からは南太平洋で発生した大型の台風が見えた。至る所に、造形的な雲が周りを取り囲む。まるで、意思を持っているかのように、下界を襲う準備をしている。北海道へ向かう心配はない。
私は杉山にも確認しておきたいことがあった。
「雅彦よぅ、おまえ、お爺さんからなんか聞いてねぇか?」
「なんだよ、急に・・・」
「知らないよな、やっぱ・・・」
「あのことか。聞かれると思ったよ。こっちが聞きてぇぐらいだよ」
「疑って悪かった・・・」
「いいってことよ。だがよ、お前、あまり疑うたちじゃなかっただろ。最近おかしいぜ。お前らしくねぇ・・・。なにビクビクしてんだよ。堀部さんのところに行けば、何とかなるって言ってんだろ」
杉山の言う通りであった。たしかに、私は少しずつ動揺が進んでいた。
「あぁ、そうだったな」
「人の事なんて、そう簡単に分かるもんじゃねぇのさ」
わずか一時間半の飛行なのだが、杉山は酒が強い割には酩酊している。
忘れていた。彼は高所恐怖症なのである。杉山はふて腐れ気味に言っていても人の気持ちには敏感なのである。夕刻に函館空港に着いた。上空二百メートルからの夜景が美しい。函館で一泊し、ニセコで二泊、小樽で一泊。
最後に札幌を抜けて、バスで富良野に着いた。杉山は機嫌がよさそうである。堀部夫妻はラベンダー畑をやりながら、夏期だけの民宿も開いている。
夫妻は障害者のための施設も運営している。民宿は自給自足である。
泊る人は自分で食事を作り、農作業も手伝う。若い人が良く来るという。
堀部氏が出迎えていた。
「堀部さん」
「杉山君」
「しばらくです。こっちが倉田。とうとう連れてきましたよ」
「倉田です。初めまして」
「お初にお目にかかいもす」
「よろしく」
「あっ、家内はいま、子供達と仕事をしつおいもす」
「そうですか」
「そうか、おはんが倉田さぁの息子さぁですか。こん間、お婆さぁ亡くなったとか。詳細は杉山君から聞いておいもすよ。まだまだ長生きすうとおもっておいましたが、残念ござんで。お父さぁは元気なんでしょうね」
堀部氏は精悍な目つきをしていた。視線をあわすと、気持ちが吸い取られるような気がする。あの西南戦争の偉人の関係の人といっても誰も疑うまい。
上野の銅像とあまりにも風貌と体格が似ているからだ。
私は思わず一瞬気を押し込めた。
「はい、もちろん元気でおります」
「そや良かった。お母さぁも大事にしてくいやんせよ」
「ありがとうございます」
「もう昔のことなで、おいも自身があいませんが…」
堀部氏はまだあまり、話したくない素振りである。
「ま、一杯いかがですか。ラベンダーのワインですど。ほら、杉山君も呑め…」
「久しぶりで嬉しいっすよ…。新潟の酒も持ってきました…」
杉山が言った。
「そいどん、何なあ。時代も変わいました…」
「変わりましたねぇ…」
杉山が相づちを打った。
「ま、例のこたあ、後でよかほいならんですか。おいもここいっとっ世間様とはあまい縁がなくてね。いろいろと教えてくれませんか」
「いろいろといいますと…」
「いろいろです…」
堀部氏はかなり慎重である。
私には彼が意識的に、話題を逸らそうとするようにも見えた。
初対面には値踏みをするという話しだ。
九州の人は好きだが、薩摩弁は苦手である。私には彼の一言一言が気になっていた。
いきなり固い話しになった。猜疑心が強く、しらふでの話しではいつもそうなると、杉山は言っていた。
私は何から話しを切り出すか、決めあぐねていた。しばらく無言があった。
堀部氏は、膝をポンと勢い良く叩いた。
「ここ五百年のこっですたい」
「五百年…ですか」
「おいの言う事、大袈裟かと思うのはわかいもす。じゃっどん倉さん、失礼、倉田さぁ…」
「倉でいいですよ…」
「歴史をさかのぼらなにゃ、こん間の戦争のこたあ語れません。おいの親戚も満州や南方で戦死しもした。長崎や広島の原爆いもあおいもした。」
「聞いていると思いますが、私のほうも…」
「言わなくてもよかどど。わかっておいもす。おはんの知いたがっとうこたあわかいござんで」
「そうだ、そうだな…」
杉山は酔っている。
「白人の世界には、白人たちの考えがあいもす。
みんな知ってう事なんじぁんどん」
「彼らの植民地政策。十字架と武器を振りかざして、大航海時代などどいわれてますね。たしかアフリカ大陸で一億人、奴隷貿易、インディアンでも一億人抹殺してますしね」
「アフリカなんかはみんな分割されちゃったもんな…」
杉山が言う。
「日本だけは戦国時代から、彼らの悪逆非道を察知していたんござんで。鎖国をしじぁ間力を温存、明治維新がわいあいスムーズにいった下地を作っていたんござんで。アングロサクソンの彼らはジパングにな黄金があうといって、虎視耽々と狙っていたんござんで。日清、日露、大東亜戦争と続きもす」
「そうですね…」
私は分かったような顔をしてこたえた。
「実は満州国は、彼らが欲しかったとこいじゃったんござんで。米国、ロシア、オランダ、フランス、イギリス、ドイツしかいござんで。とこいが、日本が防衛ラインをちゅうこっで満州国を建設した。彼らは許すはずがあいもはん。白人優越主義に勝ったのは日本だけでした。でん、犠牲も多大でしたね。おはんのご親戚のかたもそうでしたね。満州で取い残された人やシベリアへ抑留された人も多かった。そん数は世間で言われとう通いんそ。おはんの父のいとこん姉妹さぁは運が良かった方ですど。実際生きていたんですから。日本に来られたんんそ。ほんのこてに良かったほいならんですか」
「それはそうなんですが…」
「堀部先輩、前置きが長いっすよ…」
「そうは行きません。筋道は正直に言わなにゃいけません」
「わたしも、彼女たちが見つかって、来日して、歓迎されて、いい思い出を作って帰っていった。それだけでも良かったと思っています」
「そう来なくっちゃね、倉さん。それでよかんござんで。戦争は悲惨なものござんで。いまの政治家はほとんどが、そん悲惨さを知らん。平和の尊さは語い継がなにゃいけんです」
私は彼と話しているうち、謎の女二人については、気にならなくなっていた。というより、忘れることもいいかなという気持ちになっていた。
「堀部さん、あなたから言われて、気持ちが落ち着きました。私が杉山に言った事は忘れてください。わたしの勝手な推測だったんです…」
もういいですとは、我ながら潔よすぎていた。
日頃、失言が多いのは自分自身でも分かるような気がする。
しかし本音ではなかった。
堀部氏は新潟の酒がだいぶ回ってきたらしい。
わたしもそうである。しらふではほんとの事は言わないと、杉山も言っていた。実は、私も彼のふところの大きさを推し量っていた。
「ばってん、おはんな優しか人じゃっどなぁ。倉さん…。まぁ、呑んでくいやんせ」
私は堀部氏に気に入られたらしい。だが、私は薩摩の人と話すのは、本当のところ苦手なのである。杉山の存在は大きい。
「おはんな小さい時、腕白で杉山君と悪かちゅうこつばかいしていたとか」
「バレましたかね。ハハハハ」
「ハハハハハハハ」
笑いが部屋中にこぼれた。
やっと、互いに本音で語れる雰囲気になったようである。
「杉山君の質問にお答えしもんそ。ただし、こや聞き流してくいやんせど。おいもほんのこての事はわかいませんからね。他言無用ちゅうこっで。倉さん…」
「わかってます…。な、杉山・・・」
私は彼に心底から笑みでこたえていた。

ラベンダー畑から堀部氏の夫人が帰って来た。
「おはんか、こちらが倉田さん」
「いらっしゃいませ。妻の律子です」
口元の上品な夫人である。杉山からは、話しだしたら止まらない、と聞いていた。
一本、芯の通った性格のようでもある。気が強そうだが、色気はある。
「初めまして。倉田です。この度はご面倒おかけします。妻と彩香も早速、飛び跳ねています。すっかり富良野が気にいっているようで…」
「お父様によく似てらっしゃいますこと。あっ、いま、子供達のところで手伝ってますよ。夫から詳しい事は聞いておりますよ。わたしも仲間にいれてくださいね。おまえさん、詳しい話は鹿児島の言葉では無理だよ。倉田さんが戸惑うだろう?私のほうから話してあげるわ・・・」
「じゃどん・・・」
「じゃどんも、カツどんもないでしょ」
啖呵を切る江戸っ子気質の夫人には、堀部氏もかたなしである。彼は意外と恐妻家なのである。
「ほら、ここに日記もあるわ。
もういいんじゃないですか。そろそろお話しても・・・」
私には夫人が生前の祖母と、雰囲気が似ているようにも見えた。私の母と同じくらいの年である。私は、老齢だが瑞々しい女を感じていた。
「んじゃ、おはんにまかせる・・・」
「と言いたいけれど、でも、ちょっと、待ってくださいな。私は倉田さんのお口から、申し出がないと、言うべきことではないと思うんです。口が軽いと思われますからね。お父様にも失礼にあたりますし。」
私は夫人から言われて、自分の行為を恥ろうとしていた。なぜそこまで知ろうとしている自分が、ここにいるのだろうかと。
だが、私は言った。
「お願いします。父には内緒で来たんです。
ほんとの事が知りたくて・・」
「そうですか…。分かりました。でも、ひとつだけ。」
「何でしょうか?」
「私たちがいった事、お父様には…」
「もちろん言いません…」
とは言ったものの、自信はなかった。まだ、どういうことなのか知らないのである。話している内に、私は腰を引いている自分に、気が付いた。
「私は今でも、お父様の胸の内が、分かるような気がしてますよ。その辺のところはお含みおきくださいまし…」
「はい…」
「分かりました。いいわね、おまえさん?」
「あぁ、よか…」
夫人は思いだすように語りはじめた。
「もう、二十年も前になりますかね。私は外務省の職員で、夫、堀部洋一は当時雑誌社で社会部の取材担当でした。上司から言われて、たまたまあなたの実家の美談を取材しようとしていました。夫は三回ほどあなたのお婆さん、お父さんとお会いしたはずです。戦争が終わって、四十年ぶりの再会。それも二つの家族全員十人を自分のお金で呼んだんですよね。私も夫も感動しましたね。みなさん半年ほど日本にいましたかね。夫はずっと取材してましたよ。お父様の従姉妹さんでしたよね」
「そうですね」
「しかし、人の運命なんか分かったもんじゃありませんですよね」
夫人は深く息を吸った。
「そこまでは良かったんですがね。あぁ、でも、こんなこと言ってもいいんでしょうかね。おまえさん」
「おはんの思うこつ言ったらよか」
「何があったんでしょうか。ご存知でしたら、何もかもおっしゃってくださいませんか」
「そうですか?」
「おねがいします」
「わかりました。そうまで言われるなら・・・」
私は、以前、杉山の思っていた通り、まだ別の姉妹のことを疑っていた。
「たしか、あの人たちが来てから、三ヶ月目に入った時でしたかね。夫が上司の編集長さんから、中国への取材をと言われていたんです。ある人に会って欲しいというのです。女の人二人を調べて欲しいということでした。おまえさん、覚えておいでかい。たしかそうでしたよね。公で呼んだ多くの残留孤児さんの一行が、日本へ肉親を捜しにくる直前のことでしたよ」
「と言いますと・・・」
「偶然そこに、あなたの関係の人がいたらしいんですよ。証拠の写真と父の形見を二人とも持っていたというんです。血液型の証明書、手紙もですよ」
「それは初耳でした。じゃ、あの家族は別人だったということですか」
「寝耳に水だな…」
「そういうことになりますね。先にあなたの実家に来ていた中国からのご家族と、その二人のほんとうの身元が分かりそうだと、編集長さんが言ってたそうです。夫はそれを確認し、記事にしろと彼に命令されていました。たしかにそのようだと夫は言ってましたね。そうでしょ、おまえさん。でも、深入りしすぎると、それはプライバシーの介入ということで、夫は悩みました。夫と編集長さんの間で揉めていましたね。夫はそういう人の情にはからきし弱いんですよ。こういう顔してるけど。自分で納得しない記事は、書こうとしなかったのです。その二人と上海で会って、夫は涙をながしたそうです。あなたの実家の現状を話したそうですよ。夫は証拠の物は他の人が来ても他の日本人には、絶対見せてはいけないと、本物の姉妹さんに念を押していたんです。編集長さんは夫に対抗して、自分でも独自で調べたそうなんです。なぜそこまで、こだわっていたのかは私にはよくわかりません。際限のない探偵ごっこや勝手なネタ作りには、夫も愛想をつかしてましたんです。あなたのお婆様とお父様は、夫から事情を聞いて仰天したそうですよ。言葉が出なかったといいます。ご自分が呼んだ家族は実は、別人だったのですからね。当然でしょう。すでに来日していた方たちは、すっかりご実家の方たちと溶け込んでいたそうです。 ご実家の仕事や家事を、毎日手伝っていたそうじゃないですか。ただ姉の方だけは、いつも東京に出かけては、交通費やお小遣いを要求してたと聞いています。それはご存知ですか。おそらく知らないでしょうね。
妹さんのほうは静かなひとで、夫や子供達と一緒でした。夫の言うには、血液検査は全員拒否してたそうですよ。姉は自分たちの身元が割れるのが恐かったんでしょう。妹は姉の言いなりでした。でも、子供達には日本に故郷があると、ほんとに思っていたんでしょうね。あの子達には罪はないのですから。
強権的な編集長さんは、おそらく、販売部数の実績を上げる使命があったのでしょう。夫とは別に、ご実家に伺ったようです。でも、夫はその前に、先手を打っていたんです。情にはからきし脆い人ですからね。おまえさんは。辞職を覚悟で、会社の意向に反していたんですよ。あなたのお婆様とお父様に、本物の姉妹のお気持ちを、一部始終打ち明けていましたからね。
編集長さんはお父様から、いつも伺うたびに門前払いをされたそうです。その後、夫は彼に責められました。大義や節度のない雑誌社にいても、自分が駄目になるといいまして、夫は早期退職を決意致しました。私も官庁の職員を辞めました。子供も授かりませんでしたから。夫と二人富良野に越して来たんです…」
「その編集長は、その後どうなさったんですか?」
「いまはもう、その編集長さんもスキャンダルで失職し、昨年病気で亡くなったそうなんですよ。杉山さんはいま、夫のいた雑誌社で同じような仕事をしていますが、良心的で支持者の多い、よい会社になっているそうですね。
しかし、何ですねぇ、お父様も大変でしたでしょうね。他人だった家族を最後までお世話したんですから。本当の姉妹であったなら、もっと嬉しかったに違いありません。そうでしょう、なかなか出来る事ではありませんよ、そうですよ。本物の姉妹の方とも会ったと、お父様は言ってらっしゃいましたね。どんなにか胸が痛んだかお察し致しますよ。無言で彼女たちと別れるときも、人知れず目に涙を流されたとか。
おまえさん、確かですよね。そう聞いてたんでしょ。
お父様は、夫にだけは心を開いてくれていたんです。口が堅いと思っていたのでしょう。でも、それ以上に、夫とは垣根を越えた信頼関係がありましてね。夫も長崎の原爆で皆、いなくなりましたから。事情が少し違うとはいえ、黙っているわけにはいかなかったんでしょう。
昔から、自分が損をするとなれば、誰だって普通なにもしやしないでしょう。大の男が得することばっかり考えてますでしょ。
寂しい世の中じゃありませんか。
公の席じゃぁ、ほんとの肉親であっても、抱き合ったり、お話したり、会見したり出来ないわけですしね。すでに地元の新聞やテレビでも、先に来ていた彼らは話題の人になっていましたですね。
でも本物の彼女たちは、よくお許しなさいましたわね。姉妹さんの勇気と人の優しさは、何事にも変えられないと思うんです。
『父の生まれ故郷については、ずっと胸に抱いておりました。私たちはご親戚に会うだけでも嬉しく思います。上海では養父の世話をしながら、幸せに暮らしています。私たちのことは、どうか心配なさらないでください。実家にいるあの人たち十人は、そのまま帰国させてあげてください。何事も穏便にお過ごしくださることを希望します。私たちやあの人たちも皆戦争の被害者なんですから。郷里の方にはよろしくお伝えください』
と来日する前に夫が涙して聞いたそうですよ。
彼女たちの潤んだ目が、印象に残っているといってましたね。
夫はあなたのお婆様やお父様にも伝えました。
そうでしたよね、おまえさん。
お二人の生母様のご実家は大阪だそうですね。上善は水の如し、とよく言うけれど、あなたのご家族は水のように柔軟で、謙虚で、それでいて頑固な意志と秘めた何かがありますよ。私にして見れば良い事をなさったと…」
「そうだったんですか…」
私はしばらく沈んでいた。
「おいのいうことなくなりもうした・・・」
「お父様や奥様の胸中はわかりますよ。分かりますとも」
夫人は涙を流していた。
「どうもこうも面白くないね、俺は。うちの爺様は死ぬまで、そんなこと一言も言ってなかったぜ。おい、孝・・・」
杉山が酔った勢いで捨てぜりふを吐いた。
夫人がハンカチを目に当てながら続けた。
「みんなあの戦争が悪いんですよ。泣くのは何時の世でも弱い庶民なんですよ。だから、助け合って強く生きていかなきゃ。広告の見出しじゃありませんけれど、時代はいつもドラマチックなんですよ。たとえば、いくら不況の時代でも、悲観して自分から命を絶つなんて卑怯です。ご先祖さんにもうしわけないでしょ。元気に生きていればそのうち、なんか良いことがあるもんなんですよ。恥も外聞もないと、悟ってしまえば、人間貧乏なんかどうでもよくなるもんです。私の農場の作業所で多くの障害児の子たちがいるけれど、毎日みんな自力で頑張ってるんです。ごらんなさい。
みんな目が輝いていますよ。そういうの見てると私も、楽しくなっちゃいましてね。私にとっては、みんないい家族ですよ。ええ、いいですとも」
夫人は東京大空襲で、母以外家族を全て失っていたのである。夫人の母は、女手一つで夫人を大学までやり、外務省の職員にもなった。同じ境遇の夫と共に家族や肉親への思いは人一倍強い。
「有希子さんと彩香ちゃんも、あの子たちと一緒になって、ラベンダーのクッキー作ってましたね。来年は夏の合宿で、彩香ちゃんの学校の生徒たちが、たくさん来てくれるそうですよ。
嬉しいじゃありませんか。
だれでも心配なんかしなくても、ちゃんと周りには人がいる。そうでしょ、おまえさん。杉山さん。」
夫人は朴訥な洋一さんにはぞっこんなのである。
富良野に来てよかったと思う。肉親でもないのに、こんなに親身になってもらえるとは思ってもみなかったからだ。正直言って、そんな人がいることも期待はしていなかったのである。
「おまえさん、あの時よく言ってたじゃないですか。倉さんのお父様が言われた事。人の小過を責めず、人の陰私をあばかず、人の旧悪をおもわず。人には思いやりがないといけませんてことでしょう。
人の非は責めない、寛容が大事だなんて、あなた、なかなか出来る事じゃありませんよ。最初にやってきた十人の家族の方については、お役人のお墨付きがあったというじゃありませんか。私がどうこういうのもなんですが。
ほら、それに和をもって貴しとなす、ってよく言うでしょ。
ことわざなんか若い子たちは、ピンと来ないかもしれません。でも、あとでよく考えてみると、なるほどと思うもんなんですよ。お婆さんとお父様の、その時の心中が分かるというものです。
偉そうに言わせてもらえば、みんなあの戦争のせいなんですよ。倉さんのお父様は、あと戦争が何ヶ月か延びていたら、特攻隊で死んでいたとか夫から聞きました。外地に残された人たちは、みな同じ犠牲者なんですよ。いまでも、肉親の方を探していらっしゃる方は、多いと聞いています。本当の姉妹の方は、人への思いやりという贈り物をされたんですよ。お父様もそう思っていらっしゃるんじゃないでしょうかね。きっと。十人の家族の人もそれは通じていると思いますよ。そう思わなきゃ。傍で見る私らはやってられません。私は勝手にそう思うのですけれど…。
倉さん、ぺらぺらといいたい事ばかりで、申し訳ござんせんね。話し出したら止まらない口でしてね。
そんな私でも江戸時代に戻れば、なんといっても町火消しの娘ですからね。女っ気がないと思われるかもしれません。ほんとは勝ち気な女ほど、実は色っぽいんもんなんですよ。ほらね、ちょっと陰のあるしぐさ、お分かりになります?横顔になんとなく感じますでしょ。私は気は優しいほうですから。ほんとですよ。夫はそんな私に夢中になってしまいましたからね。
ごめんなさいね、私は言いたい事を言わないと、腹の虫がおさまらない性分なんですよ。そうだ、この際もうひとつ言わせてもらえば、杉山くんのお子さん、今度わたしらのところへ養子に来てくれるって言うんです。いま、北大にいってるんですが、それが、なかなか出来た子でして。作業所の子ども達もみんな喜んでくれていましてね。はじめは私と夫は遠慮したんですが。私たちにはもったいないと。そうでしょ、おまえさん」
「おはん、もうよか…」
堀部氏が父に好かれていた理由を、垣間見ることが出来た。
夫人と話していると、夜を更かしそうである。筋が通っていてそのくせ話しが面白い。私を盛り立てているようでもあった。
「杉山、おまえ…」
「孝、黙ってて悪かった。そういうことなんだ。俺には男三人もいるからな。息子の希望もある。妻も了承済みなんだ。今までお前の知りたかった事も分かったし。来てよかったじゃないか。少しはスッキリしたかい?」
「あぁ…」
私は納得したとはいっても、自分を責めていた。
この時ばかりは言葉が出なかったのである。
私は本当の姉妹と直接会ったわけではない。夫妻の言った事は、たしかに事実なのだろう。
父や祖母の当時の胸中は、どんなだったであろうか。今までずっと苦しんでいたに違いない。自分でも、父と同じ立場におかれたら、同じような事ができたかどうかは分からない。
夫妻の告白には温かみがあった。肉親のことも大切ではあるが、人はもっと気持ちを大きく持てと、暗に言われている気がしていた。彼らの自然な生き方や考えが、小さな私のふところを、大きくしてくれる機会を与えてくれていたのである。胸が熱くなっているのがその証拠だった。
夫人が作業場の子供達を呼んでいた。
夫妻は毎日彼らと食事を共にする。自分の子どもの様に接している姿が、私の目の前で、郷里の実家に来日した彼らの姿と、いつのまにか重なっていたのである。

私たちが富良野に行っている間、有希子の父が私の父を訪ねてきたそうである。有希子との一件では和解をしたいと言っていた。
残暑の続く九月では、秋の気配も遅れ気味である。私は父に会いたくなっていた。富良野から帰って以来、私には、本当の姉妹のことを尋ねる気持はすでになかった。父は稲の収穫の準備や村の行事で、あわただしくしていた。母は足が悪く、リウマチ気味で家事くらいしか出来ない。
農作業はまだほとんど父だけである。 弟が実家から車で十分ほどの新聞社に勤めているが、有給休暇を使って時折父を手伝っている。
父が将来家の仕事が出来なくなったら、倉田家はどうなるか分からない。
家のことは全て弟に任せるつもりだが、その次の後継者のことは未知数である。今さら、あれこれ考えても仕方のない事なのだが。それはともかく、私は父と無言でもいいから、酒を酌み交わしたかったのである。
母は祖母とは日頃あまりうまくいっていなかった。越後の山間部でも戦前では、お嬢様育ちで世間の厳しい現実には、辟易していたようである。実家へ嫁ぐのに祖母が反対していたからである。
私の実家と母の実家とは犬猿の間柄だったのだ。それでも、父は母が女学生の頃から執心していた。
母の実家には盆と暮れには、父はいつも挨拶に出向いていた。私が子どもの頃は夏休みには、母とともに遊びによくいっていたものだ。母は親戚や兄弟が多く、従兄弟でも二十人はいたから、遊ぶのには困らない。迷路のような大きな家では部屋の数が、別棟とあわせて三十近くもあった。
戦前では大地主でもあったが、代々、村の人たちからは敬われていた。母の父は祖父の父と性格が似通っており、まつりごとが好きだったらしい。地主同士の確執が激しくなったと母が言う。
母の父は、隣りの地主が公金の横領をしたのを告発していた。それをきっかけに、些細な事でも互いに対立するようになっていた。いまでもそれが尾を引いているようである。
そういう状況のなかで、母は戦後極貧の私の実家に嫁いできていた。母は最初は悩んだそうだが、温厚と素直さで勝ち気な祖母との関係を保ってきていたようだ。
父は自分の事はあまり考えるほうではない。父は義理と人情の人である。十代の頃はめっぽう、喧嘩が強かったらしい。だが、女の子達の間では人気があった。戦前は祖父の戦地出兵で、学校にはいく状況ではなかった。父も特攻隊で南の海で散ることになっていた。
父が玉音放送を聞いたときは、霞ヶ浦でグライダーでの特攻の訓練中であった。まだ十七歳の時である。
祖母は郷里で、一億総玉砕指令により、竹槍突撃の猛訓練中であった。曾祖母はその年永眠していた。男達は戦地に行っていたから、女挺身隊長として覚悟はしていたらしい。青春の日々が無益な戦争で地獄と化していた。
父の戦争に対する憎悪は半端ではない。以前、新聞の読者の欄で父の意見が匿名で載っていた。
新聞社から謝礼の郵便物が、来ていたのでそれが分かった。軍部や官僚の見境のない世論作りが、若者の未来を摘んだという。学徒動員はだれにも止められなかった。
マスコミの眼は、いつも軍部という権力を恐れ、戦争反対の態度をとれなくなっていたのだと、そういう内容のものだった。
それは基本的に、今でも変わらないのでは、と思う人は多い。そういう庶民の犠牲を、当たり前のように受け流す、新保守主義の流れには、父にはどう映っているのだろうか。庶民が知らない間に、法案が次々に成立していく様子はニュースで流れている。
戦争を知らない世代がまた、戦争を美化して同じ過ちを繰り返す。無垢な若者達が、無益な大義を掲げて世界の戦場で散っていく。
父は、歴史なんてそんなものさ、何を言っても俺は無力なんだよ。と子供の頃に私に語ったことがある。
語ったというより、私は父の背中を見てそう感じていた。父は、反戦というより、それを超えたリベラリストとも言える。
父は母と結婚するまでの戦後五年間は、農閑期には東京や関西へ働きに出る。闇市にも手を出したらしい。祖母との歩調を共にしていた。
そういう中、祖母は曾祖父や祖父の遺伝子が、いつ息子の本性に現われるか心配でもあった。
窮乏のときは、確かに家族の絆は深くなるのかも知れない。だが、互いの経済的な気遣いによる、自己犠牲もそれに伴い多くなる。
祖母はいくら生活の為とはいえ、長男の将来を摘まんでしまった自責の念もあったのだろうか。窮地に陥ったら、父が不満を他に当り散らすという不安も祖母にはあった。
だが父は絶対それを出さなかった。何事も話し合いで解決するのが信条のようだった。いつも泰然としていた。父は河原で、石や岩の模様を集めるのが好きであった。その趣味は今も続いている。中国の古典の書物を独学で秘かに読んでいた。
父は人と仲良く酒を呑むのが好きである。仲の悪い村同士の争いごとには、いつも身銭を切って仲介していた。父には人としての些細な損得関係は蔑視している。
だが、なかなか口に出して言うことはない。普段は寡黙で口が堅い。何かあったらお呼びがかかってくる。父はまわりから好かれていた。私とはまるで違うのである。
父は無理なく自然に構えていたのだ。そういう風に自分を仕向けていたのかもしれない。村の行事では酒豪ではあったが、家では煙草以外、酒や賭け事は一切やることはなかった。
あの、中国残留孤児たちの一件にしても、自分を通そうとしていたのかもしれない。角が丸くなったのは、私が東京に来てからである。
郷里の実家では、父と母が笑顔で待っていた。
「かあちゃん、煙草と酒、買ってきてくれや」
祖母がなくなり、しばらく沈んでいたが、今はいつもの父に戻っていた。
「俺、ちょっと墓の掃除にいってくる」
お盆には富良野へ行っていたから、この日は久しぶりに、祖母と話しをしたかったのである。
「ばあちゃん、喜んでだろ?」
「ああ、そんだね」
「まぁ、呑めや」
父は最近、胃の調子が良くないようだ。病院が嫌いで、これまで一度も行ったことはなかった。母や弟の話しだと、全身に腫瘍が転移していると医者から告示されていたらしい。
おそらく、もっても、あと一年と言われていた。知らないのは父だけのようだったが、おそらく本人は、分かっているはずである。
祖母が亡くなってからも、中国の家族からの音信はなかった。本当の姉妹から、来ているかは知らない。自分にとっても禁句のはずであった。
堀部夫妻との約束もある。私は、気持ちを押さえていた。
「中国の人みんなどうしてるん?」
しばらくして、酔った勢いで思わず私は口を滑らしていた。しまったと気づいた時はすでに遅かった。
本当の姉妹のことを、言ったつもりではなかったのだ。
私は苦笑していた。
父は、先に来た姉妹のことを、聞かれたと思っていたのだろう。両方の姉妹の記憶を胸に抱きながら。
ここで私が全てを打ち明けたら、父はどういう態度を取るだろうか。
もしそうだとしても、父は笑って軽く受け流すことだろう。とぼけた顔をしても、何も言わない。そういう光景がふと浮かんでいた。
「孝、眼が真っ赤だよ。どうしたばさ?」
母は勘の鋭い人である。
「いや、ゴミに眼が入ってね」
「まだ、変なこど言う」
母が笑った。久しぶりのにこやかな表情である。
たしかに私は、また父の背中を見ていた。記憶が水とともに海に流れるように思えた。私の疑念はすでに雪解けをしていた。父の胸の内が、分かるような気がしていたのである。私が知っていることは、父は知らないほうがいいと願っていた。父の従姉妹への深い想いが壊れないように。そっとしてあげるのもいいかなと気を遣っている自分に気づいていた。
父は私がその姉妹の事については、知る由もないという、安堵の表情をしているようである。
私は父が一瞬、何かを思い出したように感じた。しばらく沈黙が続いていた。
煙草の煙が父の涙を覆っているように見える。だが父は笑顔で酒を注いできた。
「便りなんかねぇさ。みんな元気そんだよ。
あぁ、たぶん元気…」
父の横顔が遠くの空を仰いでいた。
(了)

Advertisements

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s