紅涙の風景(本編)

※異性愛と同性愛に悩む美弥子の葛藤と、周りの運命。書籍化できないほどの、過激な描写と夢想力を増幅させる行間に取り込まれないようご注意ください。

目を覚ますと、僕の前には二人のキャスターがいる。美弥子とアンナの笑顔があった。ニュースを伝える、彼女たちの息遣いが頬まで伝わってくる。僕は二人の姿が、すぐ目の前にいる錯覚をおぼえた。
さっきまでの美弥子の香りが、まだベッドのシーツで漂っている。
僕はお台場にある、最上階のホテルから外を眺めていた。レインボーブリッジが秋の霧に囲まれている。
1389号室は美弥子の名前を、数字でごろ合わせしたものだ。美弥子はよく縁起をかつぐほうだ。彼女が滞在するホテルの一室は、いつも広告主が支払っている。僕からみるとなんとも羨ましいかぎりだ。
瑞々しい二人の肢体。ピンクと赤で染まったシルクのブラウス。美弥子の白くて深い胸の谷間。混血のアンナ。スタジオの照明で、彼女たちの首筋に汗が流れ落ちる。それが良く映るように、ディレクターの早川が意識的にアングルを指示しているのだろう。あいつのやりそうな事だ。
二人の股間の奥が、一瞬見え隠れする。ミニスカートの中から露出した、悩ましい小麦色と白桃色の太腿。それが、視聴者に覗ける期待感を抱かせているのだ。
早朝では男の局部は、元気印のバロメーターにもなる。彼女たちが画面に出ている間は、男たちの視姦と遺精を誘発する。僕が感じるくらいだから間違いない。近頃、殿方が奥方に内緒で、ビデオの録画に奔走する。
殿方は早起きになっているという。家庭でのティッシュペーパーの消費量も、増しているという噂だ。スタッフは、男の猥雑な潜在意識を高視聴率であぶり出す。
たった五分間のニュース番組でも、他の局の番組でも、美弥子はアンナと共に人気者である。広告主からの、CMスポットへの相乗り希望は跡を絶たない。TV局と広告会社の担当営業は、ほくほく顔である。
SM作家の悪友、望月春男からはよく電話がかかってくる。僕とは小学校からのつきあいだが、中学からは別々となる。美弥子と僕は私立の学校へ進んだ。
望月は川越の生まれで、小学校のとき都内に家族が出てきた。その後、両親を亡くして、都立の高校を中退していた。彼はその後転職を繰り返している。
彼の下積みも長いが、僕の方はもっと長くなりそうである。このまま無名で僕の人生は終わることも考えられる。僕はそれでもいい。男たちが存在しなくても、女がこの世にいればそれでいい。幾分開き直りもあるかもしれない。
彼は何気なく、自分の体験をもとに投稿していた。もう五年も前のことだ。彼は運よく作家へのきっかけをつかんでいた。それまでは、十年程の間、互いに会ってはいない。彼は売れっ子官能作家になっていた。
僕は時折彼からの依頼があれば、ゴーストライターも引き受けている。彼が困った時だけである。近頃はそういう本が売れている。このところ、望月は創作に行き詰まっていたようである。ただ、僕のオリジナル作品については、誰にも手の内は見せない。
望月はまだ結婚はしていない。いま、彼には安達麻里という華道家の愛人がいる。彼女の年齢や身元は、望月はまだはっきり分からないと言っていた。望月の初めての出版記念パーティーで、彼女はその会場の振り付けを担当していたらしい。僕もその時いたが、望月との親しい間柄になるとは予測できなかった。
おびただしい花の群れは絶景だった。情念と爽やかさが同居した創作群は会場を明るくしていた。僕から言わせれば、彼女は望月には全く不釣り合いに思う。傍目には、聡明で色白な秋田美人であるが、実際の年齢は想像だけでは分からない。確かに、美形でぱっちりした眼、愛くるしい仕種、上品な話し振りは人目を引いていた。僕は直接話した事はない。それに、会場の隅から見ていたのではっきりした風貌は覚えていない。小柄で痩せ気味の彼女は、かなりの高齢のように思えた。僕の見た限りでは五十代から六十代のように見えた。吸い込まれるような雰囲気を持った女のようだった。夜になれば人が変わるというもっぱらの評判である。望月が性の対象にもならない女にはまっている。その訳は彼にしか分からない。
望月は、美弥子の表情はいつも刺激的であるという。
美弥子を観ていると、猥雑なイメージが湧いてくるんだ、書けそうな気がする、今度一度是非紹介してよ、と以前から言われていた。美弥子と望月とはまだ面識はない。
しばらく僕はそれを先延ばししていた。悪友といえども、僕は彼が信用できなくなっていた。美弥子は誰にも渡したくない、という保身が僕を襲っていた。美弥子とは、互いに童貞と処女を喪失した仲だ。その後も姉弟のような愛人のような、ただの友達のような関係が続いている。互いのプラスとマイナスの磁力のようなものが、変幻自在に現われる。
女好きの僕には、彼女や望月に言う資格などはない。何をやるのにも、それは人の自由である。
僕には美弥子への嫉妬が、いつのまにか芽生えていた。最近彼女は望月に、興味があるような素振りを見せはじめていた。
不況の影響で、TVのCMも敬遠されるようになった。毎年二兆円もの民放の広告収入は伸び悩んでいる。各民放の番組の質の低下と低俗化は、歯止めがかからない。番組の人材が慢性化しているとの風評もある。
CM効果などにはかまってはいられない。TV局では高視聴率確保が、広告収入への生命線である。視聴率測定への疑問も巷であふれている。インターネットや家電のデジタル化の普及で、今までの視聴率測定の方法が激変すると、TV局や広告会社としてはダメージが大きい。全面的に営業の再構築が必要となる。それはズブの素人の僕でも分かる。
美弥子の画面は、一般視聴者の女たちからのクレームはあったが、表ざたにはならない。倫理面でも特に問題はない。個人的な体の特徴や服装が、目立っているに過ぎないという局長の後押しもあった。
一般視聴者の意見はいつも軽視されている。彼らは視聴率にはあまり関係がないからだという。望月は、昨年までモニターをやっていたそうだ。
視聴率世帯のモニターは、関東では六百世帯に過ぎない。一世帯は十五、六万世帯にあたる。それが自動的に現実的な虚構を作り出す。全国でも六千世帯余であるという。そのデータはCM料金に反映する。その不確かな数値にTV局は一喜一憂する。
望月は以前、官能サスペンスに、取りかかろうとしていた時がある。取材のためTV業界の暗部を取材していた。彼が入手した全モニター世帯の極秘データを見たことがある。
データを入手してから、望月には毎日のように無言電話や、脅迫まがいのメールが届くようになっていた。それは僕にも飛び火していた。僕には関係ないと思っていても、自宅のパソコンには脅しのメールが多くなる。早急にメールアドレスを変えたばかりである。アドレスを知っているのは、美弥子と母、望月だけである。それ以後、僕はケータイは使わない事にしている。
部屋中モニターと機器だらけの毎日は、僕には耐えられない。望月はパソコンおたくだから出来たようなものだ。
僕は原稿を書くノートパソコン以外にはうといのである。
街や電車では、誰もがケータイと睨めっこの光景が目立つようになって久しい。 僕には異様に見えている。逆にその人の行為には面白さを感じることもある。ケータイには監視的な役割もあるように僕には思える。刑事事件では、メールの交換データが解決への糸口になるという。全ての通信傍受は知らないところで捉まれている。ケータイが便利そうでも、僕は監視されるのが厭なのである。ケータイはそのうち、人間の行動全てを把握するようになる。プライバシーなどは全てなくなり、地球の周り全てが丸い檻となる。それは動物探査機の役目も果たすだろう。僕はデジタル社会は格別便利だとは思っていない。
人はアナログ志向が一番いいと思っている。このところ、IT社会の弊害も目立つようになった。望月はお前の考え過ぎだよ、ばかばかしい、そんなこと考えたって一文にもなりゃしないぜ、などと口を酸っぱくして言われたばかりだ。でも僕には、どうしてもケータイはわずらわしいのだ。持っていても、いまだに使うのを躊躇している。
後日、僕は気が進まないが、望月の家へ美弥子とお忍びで行く予定を組んでいる。
美弥子の人気は、今のところ安泰のようだ。レギュラーは週に五本はある。
後輩たちにとっては憧れのキャスターである。美弥子は、アイドル歌手の西田アンナとペアを組むようになっていた。
デビュー当時、沖縄生まれのアンナは薄幸を売り物にしていた。沖縄基地の黒人米兵と日本人の母をもつアンナは、その癒し風の美貌と豊潤な体で若者を魅了していた。アンナの父は今では出世して、本土のペンタゴンに勤務している。母も渡米している。アンナは時々会いに行くという。彼女は米国プレイボーイ誌のプレイメイトガールになったほどである。体つきは美弥子とあまり差がない。
アンナは僕より二歳若いが、当時は男たちのオナペットとして、一世を風靡していた。僕も彼女に、はまっていたその一人である。自慰は痛くなるまで繰り返していた記憶がある。僕が美弥子と関係する少し前のことだ。
アンナは突然アイドルを引退し、都内の私立大学に身を隠した。それまで芸能スクープの餌食の毎日であったが。四年間の沈黙の後、米国に留学。留学中は男性誌のモデルもつとめていた。三年前に帰国し、報道キャスターとして再出発している。まだ、独身である。僕には洗練された彼女が眩しく映っていた。
近頃は美弥子との同性愛が女性雑誌で、取りざたされている。それほど互いに惹かれあっているようだ。噂だけが独り歩きする。取材は憶測だけの虚構の世界を作る。
美弥子とアンナのことは、事実かどうかは僕には分からない。美弥子はそのことは、僕には話さない。興味はあるが僕には干渉する気はない。
美弥子が部屋を出てから、僕はテレビをつけっぱなしで寝ていたようだ。
早朝の六時だというのに、美弥子の体力にはいつも驚かされる。
未明の三時頃には、僕は美弥子の悩ましい胸や股間に顔を埋めていた。僕は美弥子と一体になっていた。
女に犯される快感。女に攻められる幸福感。今の僕は女を無償で支援するために生きている。ぐうたらなヒモ男だ。それに近頃は、夢想と一時的な記憶の喪失をなんとなく覚えるようになった。都合の悪い事は忘れるようになった。曜日の感覚もおぼろげになる。睡眠不足が長く続いているせいだろう。
女に虐げられ、そして女を癒す。男なのに女になりたい願望。男としての欲情。壊れかかったアンバランスな感覚。特異な性器の存在。それが僕の基本になっていた。マゾヒストの最たるものだ。僕はそう思っている。思っているというよりも、そう感じるしか今は術がないのである。
水泳で鍛えられた彼女の肉体は、衰えるどころか日増しに逞しさを誇示していた。どこからそういう女の精力が出てくるのかは、僕には理解出来なかった。
美弥子は三十五歳になった。僕とは中学から大学の途中まで一緒であった。
彼女の肌の艶やかさ。奔放な性格。情欲を生ませる清潔感。健康的な肢体。長い黒髪。白い肌。大きな胸。美形で上品な顔立ち。若い娘たちとは遜色がない。昨夜の彼女はそれを証明していた。
「大介。私って、人面獣心なのかしら?」
「何だよ、それ…」
「いま、私、獣になっているの…」
僕は美弥子の言った意味を察していた。
僕の舌は、いつものように、美弥子の恥丘を目がけていた。TV局の隣にある高層階のホテルでは、同業者の客が多い。
タレントや業界人の唯一の隠れ家となっている。
「大介のそれを貰ってから、仕事に行くわ。だから思いきり私を突いてきて。そうじゃないと私。駄目になりそう。私、今日一日、生きていけないような気がするの。お願い。無理を言ってゴメンね」
僕は美弥子に頼まれれば、断わるということは出来ない。女の涙には弱い。
「大介。お願い、急いでちょうだい。刺激が欲しいの。後ろからお願い。ほんとに後ろからだけよ。上と下両方にしてね。でも、今日、前は駄目よ。時間がないの。したいだろうけど。ゴメンネ…」
顔立ちからは想像できない口振りである。美弥子は自分の胸の膨らみを指差した。美弥子は、自虐的になる自分によく陶酔をする。
「うん、わかった…」
美弥子はすぐ四つん這いになった。ベッドのシーツは、豊かな乳房に押し付けられた。美弥子の顔と両腕が乳房の膨らみで宙に浮く。
美弥子の手慣れた自慰で、すでに膣の中は濡れていた。僕を受け入れる準備は万全の様だった。美弥子は後ろからお願いと執拗に要求してくる。
僕は、美弥子に忠告をした。
「美弥子、いいのかい?今日は普通にしたら?」
といったが、美弥子は
「何を言ってるの。私、壊れてもいいぐらいなの。なんでもいいから、
早く、早くして」
と美弥子は譲らない。声を荒立ててきた。
「痛くなったら遠慮なく言うんだよ…」
美弥子は相づちを打った。
美弥子は後位でのアヌスでの痛さは、一度で懲ているはずだ。膣への挿入ならともかく、別のところとなると話は違う。
僕だってアヌスはあまり好きではない。だが、美弥子の大きな尻の塊は情欲を生んでいた。僕はたまらず美弥子のお尻に顔を寄せた。美弥子の香り。
僕は彼女の要求通りにした。
僕の太い鋼鉄は美弥子の膣の中に深く侵入した。
美弥子はぐんぐん声を荒くしていった。美弥子の腰が痙攣をはじめた。
「大丈夫?」
僕は美弥子にささやいた。美弥子は無言で耐えていた。美弥子は、
「あそこにも…」
と言った。僕はそれを抜いて、アヌスにも一度だけ挿入した。
美弥子は我慢が限界のようだった。僕の大きさではやはり危険に思えた。美弥子の体は必ず壊れる。僕は察知して、それをまた通常の位置に戻した。
美弥子は捨て身で、侵入した先頭部を膣で締めつけた。僕も痛いと声をあげた。激しく吐く息。オルガムスが美弥子を支配していた。僕の白い液が美弥子のなかに激流する。しばらくして、それが交接部の入り口まで逆流していた。
それでも固い鋼鉄は、凄まじい往復運動で、激しく美弥子の局部を突きに突いた。美弥子はイク時はいつも無言であえぐ。首を振りながら放心する。女はオルガムスを感じる時には、余裕のある言葉は吐かない。美弥子はギリギリまで眠りつづけた。
美弥子とのこういう関係は十代から続いている。共に絶頂を極めるのは難しい。
美弥子は僕が彼女の一部だと錯覚している。僕自身もそう思っている。僕もそうだが、彼女も思い込みが激しい。女は勝ち気な性格でないと、この世界ではなかなか生き残れない。
姉御肌の美弥子は僕以外の男を寄せ付けない。僕以外の他人には、自分の弱みは見せたくないのだろう。
美弥子は一人の時は、もっぱら自慰の世界に身を置いている。最近、彼女は西田アンナにも目を向けるようになった。
両親に捨てられた少女時代の傷跡は思ったより深い。僕にはそう思えた。僕は気が弱いから、美弥子の勝ち気なところに憧れている。
彼女は僕の浮遊感に拠り所をつかんでいた。僕の女の遍歴には寛大だが、僕への所有欲は恐ろしいくらい強くなっている。
美弥子はベッドの上では、僕には容赦しない。いつも過大な要求をしてくるのだ。美弥子は、女の情念をさらけ出してくる。僕は彼女には、弟のように思われている。僕は彼女の癒し療法師みたいなものだ。
美弥子は原宿で生まれた。幼少の頃、両親が離婚。その後それぞれ再婚している。生みの両親は、それぞれ子をもうけている。美弥子は母方の弟のところに預けられた。厳格な教育一家で、姓が小林から青山に変わる。いわゆる養子となっていた。
青山幾太郎は今では国立大学の法学部の教授で、学長候補になっている。大学の独立法人化と、法科大学院設置に向けて多忙の毎日である。
町子夫人は今では、私大の文学部の名物教授である。美弥子の話しでは、若い頃、美貌を武器に根回しに奔走していたという。彼女は非常勤講師から一気に教授へと進んでいる。
彼女には二人の姉妹がいる。姉の美樹、妹の佳織もそれぞれ講師である。翌春にはそろって助教授になることが、内定で決まっているようだ。町子夫人の働きかけもあるのだろう。美弥子とは差別的な扱いであった。
僕は美弥子以外、その家族とはまだ面識がない。青山一家は表向きには善良な一家のようである。養子の美弥子だけは、母のコネでマスコミ業界に入った。
僕は麹町で生まれたようだ。父の名は知らない。知っているのは大物の実業家という事だけである。中学の頃は片親へのコンプレックスが凄かった。美弥子との出会いで、僕は癒しを受けていた。美弥子と関係した後の事だ。離婚間際の四十代の悩める女とのふれあいがあった。
たしか高校の卒業式の会場で、母のそばで座っていた。妖艶な美人妻だった。僕は最初のうちは、単なる話し相手だけのつもりだったが、互いにに情が移ってしまう。大学に入ってから、僕はその人妻との深みにはまり、逃避行したこともあった。その時期、僕は自信を喪失していた時期でもある。美弥子はその時、僕に手を差し伸べてくれていた。その人妻は元の鞘におさまり、立ち直っているらしい。
最近、僕のところに、その人妻らしき女からメールが届いていた。アドレスを教えたわけではない。断定は出来ないが、もしそうだとしたら、と一瞬考えた。もう、十六年も前の事だから、六十半ばの老婦人にはなっているだろう。僕は大学は二年で中退している。性格上僕はサラリーマンには、無理だと母に言われた。自分でもそう思う。いまだに、女の手のひらでさまよい歩いているのだ。
母瑞江は高級料亭の美人女将で、当時は名を馳せていたらしい。母は死んでも父のことは口を割らないだろう。そういう、ちゃきちゃきの江戸っ子の女だ。転んでもただでは起きない性格だが、涙もろいところもある。
今でも赤坂で店を開いている。現職の政治家や高級官僚、各界のVIPクラスの大物が出入りしているようである。僕が出生した翌年からだから、店の看板も三十五年は続いている。
いまだに三文文士にもなれない僕は、母からの仕送りが続いている。近頃は美弥子からも、生活費の一部を渡されるようになった。僕には恥というものはないようだ。恥はあるがそれが当たり前になっている。
母は、八雲大介の名が世に出る事を願ってはいるが、なかなか独り立ちが出来ない。母の住まいは赤坂のマンションだが、秘密の住まいもあるらしい。
母はその場所は絶対教えてくれない。二人だけの世界があるのだろう。僕は口は一切挟まない事にしている。女の遍歴が絶えない僕は、普通の結婚などとは縁が遠いように思えてくる。妖艶な女への憧れとその不摂生がそうさせているのだろう。
美弥子は美弥子で、当たり前の結婚などは考えていない。なすがままだけが生きがいの毎日なのである。

市ヶ谷のマンションではもう十年が過ぎた。美弥子は表参道の両親に近いところに住んでいる。
久しぶりに僕はぶらりと街に出た。何も考えずに街角を歩く。どこでもいいから一日中電車に乗る。書くのは夜がほとんどである。
僕は女の観察をするのが好きなのである。時と場所は選ばない。僕は出来る事ならすべての女の体の中に入りたい。身も心も。そう思う時がある。
妄想や想像は自由で無限大だ。誰にも迷惑はかからない。非常識や不道徳は思いのままだ。だから、目にするどの女とでも一緒になる事が出来る。
僕は女に生かされている。いつも女に助けられていた。女がいないと生きていく糧がなくなる。彼女たちを、癒してあげるのが生き甲斐になっていた。僕は後先は考えない。
女に限らず顔の表情、服装、立ち振る舞い、話し方、金銭感覚、体の匂いでだいたい何の職業か家庭環境かは想像できる。身近な女は行為の前でも、名器かどうか当たるようになった。
若い女、良妻賢母の女、怪しい女、生真面目な女、高齢の女まで、想像上はみんな僕の女なのである。自惚れや思い込みも、ここまでくれば上出来だ。
僕はサービス心が多すぎると、いつも美弥子に言われている。誰にでも優しい。自分にも甘い。人にも甘い。自分からは女は求めない。じらすわけではないが、女からの要求があったときは舞い上がる。要するにつかみ所のない、弱い男の象徴のように見えるようだ。僕は娼夫だと美弥子は冗談で言う。だが、女たちはみんな僕に甘えてくる。僕は男以外は、来るものは誰でも受け入れる。
美弥子は北海道での取材で、しばらく東京にはいない。
街角の喧燥。生き生きと闊歩する女たち。彼女たちの健康そうな体つき。笑顔とおしゃべりは、僕の身が震えるときだ。
僕は女から発する、あの独特の香りが好きなのである。仮面の中の闇の視線。女子中・高生の制服にはまだ青っぽい無邪気さがある。いくら股間すれすれの短いスカートを目にしても、僕は彼女たちに女は感じない。女ではなくてまだ少女である。健康的な脚部はまだ子供の域を出ない。女を感じるのは、僕からすれば十八歳を過ぎてからである。不健康になってから女の歴史は始まる。
旧約聖書では、女は男の肋骨から生まれるという。非現実的でお仕着せな宗教観には興味はない。本能だけが人間の生きていく糧。
理性や良識の仮面がないと社会は成り立たない。だが、それも当てに出来なくなっている。
女たちの夜の寂しさは毎日必ず訪れる。僕はそれを癒す王子様。僕はそういう馬鹿な自分に得意げになっている。死んでも直りそうもない。
美弥子には縛られているという感覚はない。僕も美弥子を縛らない。女と男の本性の世界では、自由な感性が空気の役割をする。僕と美弥子は互いに酸素吸入の弁のようなものだ。僕はそれがないと生きてはいけない。
人ごみのなかにいると都会の鼓動を感じる。良くても悪くても。
渋谷の横断歩道で倒れている女がいた。
三十代の身持ちの硬そうな女だ。
「どうしました?」
「ええ、ちょっと気分が」
「すごい汗ですよ。大丈夫?」
女は膝をすりむいていた。服装は乱れていた。僕は一瞬、よからぬ事を想像していた。何かあったのだろう。女は必死にこらえている風にも見える。僕は何も考えずにいた。条件反射という奴だ。僕はその女を肩で抱きながら、急いで横断歩道を渡った。
女は中肉中背で色白の美人である。首筋に女の色気を感じる。眼元が涼しく話し方も知的で上品だ。なにか思い悩んでいる目である。
雰囲気では、美弥子に少し似ていなくはない。美女の息遣いが僕の体に伝わった。香ばしい女の香水があった。僕には好みの女だ。
僕の気がどんどんその女の中に入っていく。女は喉が渇いているようだった。
大声を出し切った声の嗄れも感じた。
破れたストッキングから、白い膝小僧が出ている。少し血が出ていた。奇麗な脚だ。スカートの奥がちらりと見える。桃色のパンティーが砂で汚れていた。砂がまだ真新しい。
白い太腿とふくらはぎが悩ましく思った。
内股にあざも見えた。僕は気になっていた。僕は流し目で見て見ぬふりをする。女は僕の目に感づいたが口には出さない。女は怖そうに両膝を身構えた。
僕は薬局でとっさに救急セットを買っていた。
この時、僕は大学を中退した年、自転車で横転した美弥子を思い出していた。それは互いに、処女と童貞を喪失したきっかけにもなった。美弥子も脚に怪我をしていた。僕はこの女にも、似たようなきっかけを感じはじめていた。
それが何なのかは分からない。
「膝から血が少し出てますよ。消毒しましょう」
女はたぶん逃げ腰になっている。見ず知らずの長髪の変な男が、優しくしているのだ。女なら誰でも疑う。それが自然である。
「いいですのよ。大したことございませんから。ほんとに…」
「そうですか。でも傷からばい菌が入りますよ。塗ってあげましょう…」
「…」
女は無言だった。
ほんとは私のことなんか、放っておいて欲しいんだけれど、という顔をしている。僕はその言葉が女から、出てきそうな気がしていた。
その時は素直に謝ればいい。周りは歩行者の人だかりだ。女は僕に警戒するのをやめていた。気丈を装っている。
「ほら、出来た。これでしばらくは大丈夫でしょう…」
「ごめんなさいね。いま、お薬代お支払いいたしますから…」
女は伏し目がちに言う。
「そんなのいいんですよ。当たり前の事しただけですから」
「それはいけませんわ…」
「いえいえ。それより近くの病院にでも…」
「もう大丈夫ですわ…」
「そうですか…」
「それじゃぁ、お礼にお茶でもいかがでしょう。そうさせて下さい…」
女は少し疲れているようだ。
「でも、僕急ぎますから。じゃ、これで…」
僕はなにも急いではいなかった。美女を相手に、少し照れくさかっただけのことである。ほんとは、逆にゆっくりと食事でも誘いたいくらいである。放ってはおけない。癒したい。そう感じさせる女である。
「そうおっしゃらずに。そこのお店だったら、お手間はとらせませんでしょ…」
物腰の柔かい言葉だ。育ちのいい女なのだろう。
女は申し訳けなさそうに僕を誘った。
見栄を張るのにも限界がある。とうとう僕は相づちを打った。
見ず知らずの女との会話は、どういう事情であれ、僕はいつもわくわくする。そういうのはしばらくぶりである。
「何になさいます?私エスプレッソ。あなたは?」
「アメリカン」
「すみません。知らない方に、こんなにまでしていただいて…」
「いいんですよ。そんなこと…」
「そうでした。あなたのお名前お聞きしていなかったですね。よろしければ教えていただけませんか?」
「名前ですか…」
「ご迷惑?」
「いえ…」
「見ず知らず同士ですものね。失礼ですよね…」
僕は自分の名はあまり名乗ったことはない。互いに知らないのもいいと思っている。相手が言うまで言うつもりはなかった。
「私、青山といいます」
「八雲です」
「八雲さん…」
女のほうが積極的になってくるのが僕には分かった。だが、目は寂しそうである。女の横顔に一瞬影をみた。やはり何かあったのだ。
僕は相づちを打つだけにとどめた。
女は初対面の僕に身上を語りかけた。僕には話しかけやすいのだろう。僕はいつも女の聞き役に回る。結構これまでに、女にだまされたり、振り回されたり。でも、それが僕に満足感を生んでいた。
分かっていながら女に流される。歩くぐうたらな男の代名詞。美弥子には、それが僕を放っておけない理由だと言っている。
僕自身はそれが普通だと思っているが、他から見れば普通ではないようだ。人にはせっぱ詰まったら、逃げ道は用意させておいたほうがいい。女はどこにも逃げ場がなくなったら、どうなるだろうか。後先のことはどうでもよくなる。自分を殺すか、相手を騙すか、妥協するかということになる。
女は誰でもいいから自分を受け入れてくれる所をさまよい歩く。僕は来る女は拒みたくない。僕は癒してあげたいのである。
女は身上を話すが、おそらく心の隅では僕を疑っている。女は男に悩んでいる顔だった。何かの板ばさみになっている。感じていても僕は言えなかった。
「私、そこの大学に勤めているの。八雲さん、お仕事は?」
職業を聞かれて僕は戸惑っていた。何といえばいいんだろう。駆出しの作家だなんて嘘はついても虚しくなる。
まだ僕は駆け出しにもなっていない。ゴーストライターだなんてとても言えない。サラリーマンという手もあった。
しかし、真っ昼間からジーパンとサングラスでは、嘘はバレる。サラリーマンはやった事がない。
「広告関係…」
僕は無考で言った。それが無難な線だった。
「制作の方ですか。それとも。わかった。ディレクターとかプロデューサーとか、カメラマンとか…」
「まっ、そういったところです…」
嘘をつくのもたまには面白い。一度きりだから気は楽である。
「お名刺いただける?」
「いけない。忘れてきちゃった…。今日はロケハンなもので…」
「ロケハン?電気屋さん?」
「そうじゃなくて、ロケーション・ハンティング。環境の事前調査。つまり街並みの下見。取材です…」
僕も分かったような事をよく言うものだ。
身振り手振りの自分を笑っていた。
「そうですか。いろいろ大変ですね」
話しを作るのが大変なのだ。
「大学では何してるの?」
「教授の助手をしてるの。今、講師…」
「じゃぁ、そのうちあなたも教授だ…」
「そうね。そのうちね…」
女は気を取り直そうとしているのを感じた。教授と何かあったのだろうか。
女の話し方には影があった。気になる女だ。
「これ私のケータイの番号なの。書いておくわね」
「僕はもってないから…」
「私もあまり使わないのよ。あると疲れる場合もあるし…」
「疲れるんだ…」
「そう、疲れるの…」
女の目に涙を見た。
僕はそれ以上聞かない事にした。傷ついたばかりの女に気を遣っている自分。
彼女に電話などかける動機もない。この時はそういう気持ちだった。
「じゃ、僕そろそろ…」
「ごめんなさい。ほんとにありがとう…」
「気をつけて…」
「私、ここでタクシーを呼ぶわ。もう大丈夫よ。家が近くだから」
「そう、じゃ…」
僕は女を見送っていた。いい女だよと、僕の下心が言い寄ってきた。
ほんの二時間の間だが、たしかに僕は善男を装っていた。
手の中には女の書いたメモ紙があった。
僕の中に心地よい予感が走った。

望月からパソコンにメールが入っていた。
『八雲へ。至急会いたい。銀座のいつもの店で待っている。明日の午後六時』
『Re:了解。詳しい話しはその時に。では…』
十月の銀座界隈では秋の紅葉が近い。OLたちのアフターファイブはいつ見ても僕には眩しく映る。美しい情欲を隠し持った女たちのたくらみ。香水の群れ。
七丁目にあるバーのカウンターでは、望月は女を連れていた。望月は和服の時が多い。
この日、僕は、珍しくネクタイをしていた。傍から見ればまともな勤労者に見える。彼は憔悴し切った顔である。少し痩せたようだ。
「よう大介。元気だったか?」
「まあな…」
「彼女とはうまくいってんのか?」
「まあな…。こちらは?」
「M社の一色みどり女史だ。よろしくたのむ」
「一色です…」
彼女に名刺を渡された。黒の網タイツがよく似合う女だ。エンジのセーター。セミロングのブーツ。均整のとれたふくらはぎ。引き締まった太腿。官能系の編集者だとすぐ分かる。僕はまだ売れない身だから、相手を気にする必要もない。編集者特有の雰囲気があるが、彼女が望月の愛人だと僕にはすぐ分かった。
僕は、彼女は何処かで見たような気がしていた。
三十路を迎えたばかりの彼女は、知的な怪しさがある。
たしか望月はSMのビデオマニアだった。最初の彼の作品はそういう物が多かった。そうだ、あの時の女だ。僕はみどりさんが、望月とのシーンに出ていた事を思い出していた。自作自演のあのSMシーンだ。
絶対あの女だ。僕は確信していた。家には彼に貰ったDVDの映像がある。だが、今は口には出せない。ろうそくと緊縛での痛みのシーン。望月の異様な顔とみどりさんの妖艶な泣き声。いまでもやっているのだろうか。
「八雲です。よろしく…」
「今日は無礼講だ、大介…」
「いつもそうだろ…」
望月がそう言う時はいつもの事だ。僕に原稿を頼む時の合い言葉である。
「大介。みどりは大丈夫だ…」
「大丈夫だって?ヤバイのはお前のほうだろ…」
「悪い、悪い。みどりは仲間だ。心配すんなって…」
「八雲さん、望月さんに書いてあげてるんですってね…。女の闇をうまくついていて。本性の部分の表現がとってもいいわ。最近売れた本あなたが、書いたんでしょ?いまこの人にはそういうの書けっこないもの…」
「…」
「みどり、あんまり、あからさまに言うなよ。大介が困ってるだろ」
「平気さ…。俺は全然困らない…」
「八雲さんも、そろそろ日の目を見るわよ、きっと。私には分かるの…。女の第六感…」
「俺はどうなる…」
「あなた最近ちょっと変よ。困った時だけ人に頼るなんて…」
「分かってるよ、そんなこと。いま、だめなんだよ…」
「しょうがないわね。売れっ子のくせして。印税が少し入ったくらいで、うつつを抜かすようではね…」
「なんだよ…」
「まぁ、まぁ、そう喧嘩しないで…」
望月は出来上がっている。
「分かった、わかった。考えておくよ…」
「すまんな、大介。恩に着るよ…」
「でも、今度が最後だよ…」
「わかってる…」
この二年、そういう事の繰り返しだった。もう十回目だ。
「ほんとに最後だぜ…」
「あぁ、ほんとに…」
望月は明日には、たぶん、もうこの約束は忘れている。僕には分かっていた。僕は本気だった。いつまでも、ゴーストライターなんかやってはいられない。
善意もこれまでと、僕は家を出てくる前から決めていたのだ。
「場所変えようぜ」
珍しく僕のほうから彼らを誘った。
「ゴメン、大介。おれちょっと向こうまで」
望月はTV局との打ち合わせの様だった。彼はこの日に限って妙に落ち着きがなかった。彼の作品、つまり僕の書いたものが、単発でドラマになるという。
「何だよ。用が済んだら、はいそれまでよかい?」
「だから、みどりが相手してくれるからさ。頼むよ…」
望月はみどりに耳打ちして、現金入りの茶封筒を渡していた。
「知ったことか…」
僕は思わずみどりさんに本音を吐いた。
銀座通りから一本入った道。地下一階に小料理屋があった。僕がよく美弥子と行くなじみの店である。七十代半ばの女主人が一人でやっている。客はみどりさんと二人きりだ。
女主人の勝子さんは密通で子を宿し、女の細腕一つで息子を大学まであげていた。相手は大手新聞社の役員をやっていたが、今は他界している。
彼女は年に一度、一ヶ月ほど南米へ行く。一人旅。それが若さの秘訣と言っている。ナスカの地上絵が店の周りにかかっていた。十年前、僕も美弥子とツアーで行った事がある。
「んもう。あの人はいい加減なんだから…。ごめんね…」
「いいんですよ。そんなこと。言っても分からないところがあるから、あいつは…」
「八雲さん…」
「あなた、どうしてそんなに彼の肩を持つの?」
「別に理由はないけど。単なる幼馴染み…」
「それだけ?」
「それだけ…」
「男の人っていいわね。友情ってとこかしら…」
「変な友情。お互い馬鹿なところがあるから、気も許せる。そんな感じかな」
「ほんとに馬鹿なんだから…」
「そうかも…」
「乾杯しましょ。今日はとことんお付き合いするわ」
「無理しなくても。あいつのそばにいてあげたら…」
「今日はたぶん行っても先客があるようなの」
「あいつも好きだからな。またTV局で女あさりか」
「でもほっとけないのよ…」
僕は美弥子が気になっていた。望月との接触もありえない事ではない。
みどりさんは、涙もろいところもあるようだ。目を閉じてビールを呑む彼女。その喉ごしに僕は憂いを感じた。ストレスもたまっているように見える。小麦色の肌とキュートな体つきは望月の好む体型だ。
彼女の生の姿は知らないが、望月にとっては引き付ける何かがあるのだろう。僕にもなんとなく分かってきた。
「みどりさん、どこの生まれ?」
「イギリス。でも中学の時帰国したの。父は商社に勤めてたから、小さい頃からハワイ、イギリス、ドイツの日本人学校を転々としてたの。だから日本語って難しく思えたわ。お友達もあまり出来なかったわね。結構コンプレックス持ってるのよ、私…」
「ふうん。そういう風に見えないけどな。じゃ、バイリンガル…」
「でもないの。英語の日常会話少し覚えただけ。中途半端なの私…」
「こっちに来てからは?」
「うん、なんとか国立の女子大まで行ったわ。いまは、ほらこの通り…」
みどりさんは少し開き直っている。
みどりさんはA型のさそり座らしい。僕はA型の女が好きだ。十代での人妻もA型だった。知的で常識派。完全主義者。大和撫子。緻密な性格。神秘的。
僕はAB型の魚座だ。美弥子はO型の天秤座。望月はB型で水瓶座だ。星占い好きの僕は、つい勝手に人の性格を想定する。
血液型や占星術はあまり当てには出来ないが、神秘的で僕には面白い。
「お二人さん、沖縄の泡盛呑んでみる?」
女主人が言った。
「私、もらうわ。あなたもどう?日本のお酒はおいしいわね」
みどりさんは酒豪のようだ。軽く一瓶を空ける勢いだ。
僕も一緒に付き合ってしまう。
「お二人さん、いくらなんでも、ちょっとペース早すぎない。
後が大変よ。大丈夫?」
目の前の光と空間は歪んでいた。僕は意識が無くなりかけている。みどりさんもこの日だけはまいっていたらしい。
女主人とみどりさんの、話し声だけは聞こえる。彼女たちに割って入る女の姿もあったような気がする。よくは覚えていない。
僕は誰かとタクシーに乗ったようである。その後、ホテルの一室に運ばれたらしい。意識が雲の上にいる。天井がぐるぐる回っている。まだしばらくは酒が抜けそうもない。ベッドの上で僕は眠ったらしい。
しばらくして、僕は誰かに肩を揺すられていた。僕は意識がまだぼんやりしている。応答は出来ない。だが、下半身だけは妙に息づいていた。鋼鉄が一人歩きしている。僕はおそらく、まな板の鯉である。誰かになすがままの状況であること。
僕は自分が他人のように思えた。股間の鋼鉄が生温かいもので包まれていた。僕は仰向けのようだった。両手は縛られていて身動きが取れない。そういう感覚だった。鋼鉄が何かに塞がった。水のような音が長く続いた。塞いでいる影が、激しく上下に動いているようだった。
僕は息が苦しくなった。何かで喉を絞められているようだった。僕は股間の力でそれを払いのけようとしていた。でも、重みでそれは難しく思えた。相手は分からない。影に声をかけても返事はなかった。僕の中から塞がったものに液が飛び出した。
僕は力が抜けていくのを覚えた。鋼鉄はまた何かに包まれた。僕はなかなか意識が戻らない。時間の感覚はなかった。
鐘の音で目が覚めた。朝陽が僕の裸を照らしていた。和光の時計台は六時を指している。ベッドの横には誰もいない。股間がまだ痛む。僕の両手と手首には黒いアザが出来ていた。
メモ紙がおいてあった。
『おはよう、八雲さん。昨夜は大変だったのよ。
ホテル代は払ってあるわ。お先にね。よかったわ。いろいろとありがとう。
それじゃ、また。みどりとあなたは二人きり…』
どうやら僕は彼女の相手にされたらしい。でも、僕は彼女を怨む気はなかった。不思議な爽快感が僕を包んでいた。

美弥子が六日ぶりにメールを送ってきた。小樽での取材が終わったので明後日アンナと帰るという。近頃、美弥子はアンナに夢中になっているようだ。野生のような眼差しと小麦色の肌。アンナの父はアフリカの先祖の血を引き継いでいる。均整のとれたプロポーションはアイドルの時とは違う。
夫婦でもなく、恋人でもないのに、僕が美弥子のことが気になるのは不思議である。だが、やはり空気以外の何者でもない。僕もアンナの事には興味があったから、気持ちが少し浮ついてきている。
この日の朝、僕はいつもの喫茶店でくつろいでいた。店内は近くの学校説明会を前に混み合っている。四十代位の母親グループが僕の横にいた。この日の朝刊の記事が話題になっている。三人は知り合いの仲のようだった。僕はうとうとと半睡しながら耳にしていた。
「ねぇ、読んだ?凄いわね。お婆様が言ってたわ。あの時と似てるって…」
「あの時って?いつの事よ…」
「たぶん、本でしか読んだことがないけど…」
三人の声が震えている。
「戦前のことだと言ってたわね。男のあそこを切り取って、何日か逃げまどって…」
「怖いわ、私…」
「事実だから仕方ないわ。私、男には同情出来ない…」
一人の女が冷たい口調で話した。
「犯人は誰かしらね。指紋もないようだし、部屋の中は奇麗だったらしいじゃない…」
「やっぱり女でしょ。遺恨かなにか。被害者は女癖が、かなり悪かったらしいじゃない…」
僕は店を変えようと思った。自分の事を言われているようで、僕は落ち着かないのである。
「たしか売れっ子作家よね。愛人もたくさんいて。本望じゃない。うちの主人も布団の中で隠れて読んでたわ。男の願望なのよ。変態的なこと。私は興味ないけれど…」
「私だって…」
「うーん…。私も」
冷たい口調の女は少し考え込みながら、返事をしている。
こういう巷の中では本音は言えないのだろう。彼女たちの言葉の中に、仮面の裏側を感じた。僕は普段は新聞はあまり読まない。彼女たちの話しを聞き、僕は何気なく朝刊の社会面を見ていた。
一瞬、僕は自分の目を疑っていた。新宿のホテルでの変死事件の見出しがあった。被害者はあの望月であった。
女たちの会話から、戦前の有名な猟奇事件のことだろうと思った。相手の女が付き合っていた男を殺害し、局部を切り取る。それを何日も自分の体に隠し持っていた事件だ。
以前、当時の写真や記事を、図書館で覗いた事がある。加害者の女は安達麻里に顔が少し似ているといえば似ている。望月はいつも物事の擬似性を楽しむ傾向にあった。ムーフィングソフトで写真を加工してみれば、イメージ通りに仕上がる場合もある。作者の思い込みも当然生まれてくる。パソコンマニアの望月は、それを安達麻里に見せたが、笑みを返すだけだったという。
もし、その女が生きていれば、百歳近くにはなっているはずである。写真を加工すると、風貌も肌の感じからも、安達麻里に限りなく近くなると言っていた。望月は軽く遊びのつもりでやったのであろう。だが、そんなことは、常識からいっても有り得ない。
たしか、その事件は、昭和十一年の226事件の後の五月におこっている。数々の映画化と小説の題材にもなっていた。僕から見れば、その時の女の気持ちも分からぬでもない。
男の全てを自分だけのものにしたい。『…二人きり』という血で筆跡を残した女は、相当思いつめていたのだろう。
もし僕がその女だったら、やはりそうするかも知れない。時折、自分自身が怖くなるときがある。その女の情念に、僕は共感するところがある。胸の奥底では誰もが抱いている。男と女の間では、熱く慕いあう情念や純真性は必ず存在する。
望月の事件は、まだ僕にとっては遠い対岸の火事のように思えている。だが、身近かな友人が、それと似たような事件に巻き込まれたのだ。僕は背筋が凍りつく衝撃にあった。局部はどこに行ったのか。犯人は誰なのか。僕は今夜は眠れそうにもない。
事件当時、望月の部屋は綺麗に片づいていたそうである。そこには、僕のペンネームを記したフロッピーや、メールの送信記録もあったはずである。近いうち、署から参考人として、お呼びが掛かるかもしれない。それは仕方のない事だ。ぼくは憂鬱になっていた。彼と関係した女たちも参考人として、事情聴取を受けていたが、アリバイはみんなあったようである。安達麻里やみどりさんも、一応事件の参考人として出向いていたらしい。事件当時、安達麻里は京都で過ごしている。みどりさんは事務所の編集で帰っていない。事件は長引いて、迷宮入りの可能性があるように僕には思えた。
みどりさんとの一夜から五日が過ぎた。新聞では事件は昨日の夜だったらしい。その夜は、僕が彼のために原稿を書き上げた時でもある。関係者でアリバイがないのは僕だけかもしれない。その夜は誰にも会っていないからだ。
通夜は遠い縁者だけの集まりになった。僕は通夜だけには出向いた。彼の住んでいた紀尾井町の高級マンションは、まだローンが払い終わっていない。安達麻里は資産家のようだ。そのマンションは買い取るそうである。
翌日夕方、美弥子から連絡がはいる。色々なことが有りすぎて、僕にはこの一週間は長く感じていた。美弥子顔が恋しくなっていた。彼女に逢えば少しは気はまぎれる。
インターホーンがけたたましく鳴り響いた。美弥子だろうと思った。そういう時は決まって彼女の機嫌が悪いときである。みどりさんや渋谷の女、望月の事件のことは美弥子には直接関係はない。僕の問題だ。ただ、予定していた望月との約束は、彼の怪死事件でお流れになってしまった。美弥子には最低限の事情は言わなければなるまい。
美弥子も望月には興味は持っていたが、単なる官能作家への好奇心に過ぎない。僕は美弥子に何気なく望月の事件のことを話すつもりだ。だが、彼女は男の情死は気にするような性格ではない。あっ、そう…、と言われるのが関の山である。話すのはやっぱり、控えたほうがいいのかも知れない。
「ただいま。大介…。いる?」
「いま開けるから…」
美弥子は部屋に入るなり、僕に激しく接吻をした。いつもの香水と違う。
「ねぇ、大介。一緒にシャワー浴びて…」
美弥子は僕に言った。僕は美弥子に疼いている女を感じていた。一週間ぶりに美弥子の裸を目にしていた。美弥子は生理前だと僕は察知した。乳房や体にむくみが有ったからである。だが、体は引き締まったような気がする。
アンナと何かあったのだろうか。美弥子は僕と朝までやるつもりなのだろうか。彼女にはフラストレーションが溜まっている。そういう時はいつも、きまって僕にそのはけ口を求める。美弥子はもうひとつのはけ口を見つけたような気がする。男には分からない女だけの秘密の世界。
僕には美弥子の肌に接すること事態が嬉しい。僕にとって、男と女は局部の交接だけが全てではない。気持ちの絶頂感。放心。自由。いたわり。僕は美弥子だったらイクまで果てる覚悟はある。その後のことは何も考えない。
ボディシャンプーで美弥子の全身を擦る。浴槽で僕と美弥子は、全身白い泡に包まれる。僕は必死で情欲をこらえていた。美弥子はいつでもOKの目線を僕に流している。僕は、激しく体を美弥子に擦り付ける。僕には珍しく抑制が少し働いていた。僕の中で何かが変化している。
大きくなった僕の局部は、美弥子の乳房の餌食になった。だが、それはまだスポンジのような役目だ。美弥子は見境がなくなっている。僕は無心で彼女を洗っているに過ぎない。僕は内心、美弥子をじらしていた。
焦る美弥子の美しい顔。交接前の涙。僕は美弥子の発情した乳首を、ひとさし指で刺激した。美弥子はあぁ、もうだめ。ちょうだい、と言ったが、僕はあとで、と言った。美弥子からの要求があれば、僕は場所など選ばない。だが、この日に限って、僕は浴室ではあまり燃えないのである。美弥子は先に浴室を出た。美弥子は誰かとケータイで話している。
「美弥子。そこに置いてあるから…」
僕は美弥子の着替えは、いつも新調したものを用意している。ブラジャーのサイズはJカップなので特注である。買いに行く時、僕はデパートへは女装で行くことが多い。女装の時は電車の中でよく痴漢に遭う。僕はされるがままが多い。局部だけは拒否していた。男であることがバレるからである。
僕はよく痴漢の犯人を尾行する。何故、男はそうなるのかという好奇心もあった。やられている女の子を救ったのは数えきれない。僕には彼女たちを守る使命がある。全ての女は僕自身だからである。
僕には女性ホルモンが多いようだ。それに気づいたのは中学生の頃だった。局部意外、骨格や白い肌のすべすべ感が女の子たちより、より女の子に見えていた。男の教師より、女の教師の方からの関係を迫られたこともある。その後、僕は内緒で豊胸もやってみたことがある。美弥子もそれには呆れていた。
美弥子はバスローブで身を包んでいた。白いパンティー。特大のブラジャー。アンナはもっと凄いんだろうな、と僕は夢想している。美弥子だって凄い。
「なに、ボーッとしてるの。今日はなんか変よ、大介。それにそのアザはどうしたの?」
「なんでもないよ」
「誰かと喧嘩でもした?」
「どこかで打ったみたい。考え過ぎじゃないの」
「私が嫌いになったの?」
たしかに美弥子は僕を勘ぐっている。僕は何となく、とぼけようとしている。一瞬、望月の件が頭にあった。
だが美弥子の存在がそれをすぐ忘れさせていた。
「またそういうことを言う」
美弥子はよく涙を流した。彼女のけなげな涙だ。僕はいつもそれに惹かれる。僕は美弥子が要求していることは、言葉で言わなくても分かっていた。僕はいつものように美弥子を癒してあげようと思った。
「来て」
美弥子は仰向けになった。いつもの情欲が走った。
僕は美弥子の紅い局部を優しく、口で攻めていた。美弥子はあえいだ。僕の両手は美弥子のブラジャーにあった。その先端を指で擦る。美弥子はブラジャーを外した。乳首の大きさがみるみる大きくなった。美弥子は自分で乳房を呼び寄せ慰めている。
「今日は何してもいいのよ」
僕は一目散に美弥子の乳房に、鋼鉄を挟んだ。柔らかな摩擦。至福の時だ。僕の動きで、大きな乳房が波の振動を繰り返した。僕の情欲が一番湧くときだ。一回目の白い液が胸の谷間に激流した。
僕はしばらくして、美弥子の膣に挿入した。速度はゆっくり目にしていた。美弥子は行為の前から夢想しているように思えた。アンナのことなのかは分からない。そういう気がしただけである。
美弥子は正常位の途中で僕に話しかけた。
「ねぇ、大介…」
「何?」
「また考えごと?」
「美弥子のことだけだよ…」
「ならいいんだけど…」
僕は意識の中では何も夢想していない。美弥子は不安なのだ。なぜ?僕はこの時は美弥子だけのつもりのはずだった。
彼女は僕の意識の裏側がよく見えるのだろうか。僕は一瞬、渋谷で会った女とみどりさん、アンナの事が頭に浮かんでいた。感の鋭い美弥子は、それを見逃さなかった。
「あっ、ダメだ…」
「もう?」
僕はこの日の美弥子はいつもと違う事に気づいた。美弥子の中に僕は自分の液を出していた。力が抜けた僕は、仰向けになった美弥子を激しく抱きしめた。美弥子の心臓に耳を当てる。
僕は赤子のように、美弥子の巨大な乳房に埋まっていた。体が一体になったというのに、美弥子と僕には寂寞感があった。
美弥子からいつもの要求がない。あの積極性がないのだ。美弥子は他の事を思っている様子だった。なにか新しい世界。そのような充たされた眼をしていた。美弥子は、僕がいつでも籠の中にいる小鳥だと思っている。
これまで、僕はその状況に満足していたような気がする。でも、ここしばらくの間、僕は籠の中にいるのが息苦しくなっていた。僕は海原を飛び回る鳥になろうとしている。美弥子は、それが不安になっていたのだろう。
僕は美弥子と西田アンナとの噂は、信じないように努めていた。それが、今では、はかない思いとなりつつある。僕は美弥子は責めるつもりはない。美弥子も僕の自由を拒むつもりはないだろう。
体と体の一体感。壊れそうで壊れない、見えそうで見えない、身勝手なジェラシーを生む。お互いに不確かで束縛されない信頼感もあった。揺らいだら揺らげばいい。彼女もそう思っているはずだ。
しばらく、離れたほうがいいと僕は思った。その後は、また自由に考えればいい。男と女を本能的に感じればいいのだ。答えはそこにある。
「大介。私しばらく、日本を離れようと思うの…」
「えっ?」
美弥子はシャワーで体を流し、着替えをし始めた。
美弥子は言い出したら、後には引かない。僕は諦めてうなづいていた。
「そうだな。君がそういうなら、僕は何も言わない…」
僕には引き止める気はなかった。彼女にだって自分の世界がある。何であろうと納得がいくまで極めればいい。ぼくはそう思っていた。
「また、戻りたくなったら、いつでも戻ればいいよ…」
「大介。ゴメンネ…」
美弥子は自分を律する事が出来ないことに、苛立っている様子だった。
「僕は見送らないよ…。たぶん…」
「…」
美弥子はケータイの着信に耳を置いていた。
「あっ、私。いまから出るわ…」
相手は女のようだった。
「落ち着いたら連絡するわね…」
「無理しなくていいよ…」
僕はそっけなく言った。もっと優しく言えばいいのにと、自分を責めていた。
突然の別れに僕は動揺し始めていた。部屋のドアが開いた。美弥子が午後の逆光に吸い込まれていた。
僕の中には、美弥子の体温だけが残っていた。

美弥子が成田から発って一週間が過ぎた。カリフォルニアの何処にいるかは分からない。アンナと一緒に行ったようである。気の向くままの生き方は彼女らしい。でも、僕は少し寂しさを感じている。美弥子の薫りと息遣いが恋しくなっていた。
深夜、誰かが僕に、またメールを送ってきていた。二人の女のようだった。送信者のアドレスには見覚えがない。一人はイニシャルがFSとある。もう一人はMI。メールアドレスは三人以外には教えた覚えもない。
一人目の女のメールを見た。
『謹啓 お元気でいらっしゃいますか。もうかなり昔になりますわね。あなたのアドレス、ある方から教えていただきました。失礼をお許し下さいませ。ほんとに懐かしいですわ。あの時はほんとにありがとう。あの時の、あなたの心づくしで、わたくしも何とか立ち直る事ができました。お礼を言います。大介さん、ご迷惑でしょうが、今度わたくしと逢っていただけないでしょうか。あなたにお話したい事が山ほどあるのです。あと一人わたくしの知人ですが、ご一緒させてもよろしいでしょうか。ご無理でしたら、よろしゅうございます。今度の日曜日。舞浜駅の改札。午前十時。待っています。TDLも久しぶりです。ご都合が悪かったら、返信して下さいね。目印は赤いスカーフにサングラスです。お手間はおかけいたしません。わたくしの名前はその時にでも。では…。敬白』
言葉の言い回しから、年上の女である事がわかる。以前から不審なメールが届いていたが、やはり、その女だろうと思った。僕は何時も取りたてて用もないので、OKの返信をした。僕はあまり用心深くないので、女であれば、、会ってくれと言われれば断る必要もない。ただ、人から礼を言われるほどの記憶は僕にはないのである。覚えているのはあの時の人妻しかいない。それに僕の事を知っているのだ。
『たぶん…』
忘れかけていた事が脳裏に浮かんでいた。
『まさか。でも、なんで今ごろ…』
僕のイメージ通りだとしたら、その女はもう六十代にはなっているはずだ。二人のお婆さん相手で一日を過ごす。それを考えると、僕の気持ちも沈みがちになる。人違いかもしれない。やはり断ろうと思ったが、逢ってみたいという気持ちが先に立っていた。ボランティアだと思えば気は楽になる。
(たまには、それもいいかもしれない…)
もう一人の女からのメールがあった。
『わたし。みどり。あの時は大変だったわね。お疲れ。わたしも酔いが回っちゃって別のタクシーで帰ったのよ。知らない女の人があなたを連れていったまでは覚えているの。その人の歳は幾つぐらいだったかな?そのあとはねぇ。よくおぼれてないわ。無事だった?アドレスは望月が生前に教えてくれたの。ゴメンネ。メール迷惑だった。でも、ちょっと心配だったので。望月のことがショックでこのところ眠れないの。しばらく旅に出ます。それじゃ、また。みどり』
一人目の女はあの人妻である事、二人目はみどりさんである事は分かったが、僕の中に不安と焦りが迫っていた。すると、みどりさんと別れたあとの女は誰だったのだろう?僕には見当がつかなかった。みどりさんとは今度会ったほうがいい。そうすれば、見当も少しはつくようになるだろうと考えた。
僕は昔の人妻と会う事にした。不安定な精神状態で人に会うのは、好きではないが、彼女に会えば少しは気が、紛れると思ったからである。
日曜日の十時に舞浜の駅に着いた。あいにくぐずついた天気で、朝から霧雨が降っていた。TDL人気は依然衰える気配がない。子供たちには夢の国に見えるのだろう。
薄いサングラスをかけた、二人の女が傘をさしていた。車椅子の婦人が傍らにいる。ペアルックの紺のジーパンのスカートとエンジ色のセーターがよく似合う。女はあの時の容貌とあまり変わっていない。それ以上に奇麗になった気がする。僕は、はっきりと当時の事が頭に浮かんでいた。車椅子の婦人は笑みを浮かべていた。軽く会釈を交わした。
「八雲…大介さん?」
「はい。そうですが…」
「お久しぶりですわね。わたしです。文絵です」
「文絵さん?やっぱり、そうだ。僕のほうこそ…。そのー…。なんて言ったらいいか…。」
「懐かしいですわ…」
「お元気そうで安心しました」
「わたくしの母ですの」
「あなたが大介さん。よろしくね。娘が以前お世話になったようで。しかし男前だねー、おまえさん…」
「お母さま、失礼でしょ…。ごめんなさい…」
「いえ、そんな。こちらこそ…」
車椅子の婦人は、気丈そうで肌も若々しくみえた。若い時は美人だったのだろう。僕にはその形跡を見る事ができる。一瞬、望月の愛人と風貌が交錯していた。だが、絶対人違いのようだ。そんなはずはない。
「もう九十も終わりに近いですからねぇ。冥土の土産にと思って、娘に連れてきてもらったのですよ…」
でも、やっぱり僕の何処かに疑念が起きている。絶対歳を偽っている。どう見てもその娘と、たいして変わらない体つきなのである。肌は幾分しわが目立つが、手入れ次第では熟女にもなる。
「ほらほら、お母様、またそんな事をいう。脚を怪我したぐらいでなんですか。ほんとは歩けるんでしょ…」
「それもそうだ。ごめんねぇ。でも文絵…。今日はこれでいいのよ。大事は取らなくっちゃ。年なんだもの。ねぇ、大介さん…」
車椅子の婦人は茶目っ気がある。一瞬だが、僕に笑みの視線を向けた時彼女の妖気を感じていた。
「もう、秋なんですね。紅葉も楽しみだわ…。あの時もそうでしたわね…」
文絵さんは当時も、今ごろの季節だと言いたい素振りだった。
「そうでしたね…」
僕にもおぼろげながら、あの時の情景が浮かんできた。
「ねぇ、早くいきましょう。チケット買わなければ…」
車椅子の婦人は気もそぞろである。すっかり童心に帰っているようだった。
「わたしはパレードが見たいから、お前は大介さんと好きなところへお行き。たまには一人で楽しみたいんだよ。なぁに、大丈夫」
「じゃぁ、気をつけるのよ」
「じゃ、行きましょうか。文絵さん…」
僕はこの日は、文絵さんと二人きりでいたかった。
「今日は混み合っていますわね…。少しぶらぶらと歩きませんか?」
「いいですね」
「思い出しますわね。あの時の事…」
「はぁ…」
ネズミのキャラクターが、僕たちを取り囲んだ。サービス精神が旺盛な事。中の人間は熱そうだった。
「いま、どうしてるんです。文絵さん…」
「主人とはあれ以来、仲良くしてるわ。母があんな感じでしょ。もういつも大変なの。じっとしてられない性分なもんだから」
「じゃ、一緒に暮してるってこと?」
「そうじゃないんです。別々です。わたくしは時折、母の様子を見に行く程度です。今だから白状しますけれど、母は若い頃、人を殺めたことがあるのです。理由は分かりません。でも、何年かの刑期を全うして更生したそうです。母は興味のあることには、片っ端から手をつけていましてね。今でも現役ですのよ。母は自分のことは他人に話しちゃいけないよ、と言われておりますので、余り詳しくは申せません。実は、母が浅草を出て、都下のあるお寺で捨てられていたわたくしを、養子にしてくれていたのです。同じ頃もう一人養子になった妹がいたのだけれど、それまでの経緯はわかりません。母が五十を過ぎたあたりと申しておりました。母とはわたくしが嫁ぐまで一緒に暮らしてました。その後、妹は妻子ある男と駆け落ちをしていました。気性の荒い妹でしてね。若い頃の母によく似ていると、周りからよく言われていたものです。今は母と平穏に暮らしています。母と一緒にお花の世界にいるようです。わたくしが、今の主人のところに嫁いで来るときは、母から猛反対されました。子供が出来ない体でどうする、お前は何処に行っても上品だから可愛がられると思うが、お前は片親なんだし、そんな立派な家柄には無理だよ、と言われました。それと、母の本名は相手の方には、一切言わないようにとも釘をさされていたのです。主人の家は代々の名家で、不動産業を手広くやっておりました。そのため、わたくしのような海のものとも、山のものとも分からない女を迎え入れるのには、親戚中で問題になっていましたね。母はその家の事情を知ってから、さらに激怒していたのです。主人もわたくしのことを、大事にしてくれそうでしたからわたくしはそれでも、勝手に承諾したのです。家族の温もりを知りませんでしたから結婚には憧れておりましたね。しばらく母とは離縁状態でした。結婚して何年か経ってから、主人はやはり子供が欲しいといってきたのです。外で何人か子を作り、わたくしはよくお妾さんの代理で、子供の学校行事に参加させられていたものです。高校の卒業式のおり、偶然、あなたのお母様のそばの席でしたからね。彼女とは話しが合いましてね。今でも時折お会いしますよ。彼女もいろいろとご苦労されていたようですね。大介さんと会ったのはその時が初めてでした。当時はわたしも家庭や生い立ちのことで凄く悩んでいましたでしょ。事情が少し似通っていたからでしょうかね。あなたもよくわたくしとお付き合いして下さいましたわね。無理強いしたみたいで。遅れ馳せながら礼をいいます。あなたのお母様にもすっかりご迷惑おかけしてしまって。伊豆の旅館で何度か御一緒でしましたよね。懐かしいですわ。いま思うと、楽しかった。あなたもお若かったから、わたしくも覚悟をしてたのですよ。情欲の目をぎらぎらさせて。でも、あなたはわたくしの体を求めなかった。指一本触れようとはなさいませんでしたね。とても寂しくは思ったけれど。それでよかったのでしょうか。後悔してませんか?普通だったら、その気になれば出来たはずですよ。わたしくしが求めればあなたも応じたのでしょうけれど。そう言えば、美弥子さん、お元気ですか。あなたを連れ戻しにいらっしゃった方でしたよね」
「元気でやっているようです。今、日本にはいないようですが…」
「そうなの。奇麗な方でしたね…」
「…」
僕は少し言葉が詰まっていた。
「ごめんなさい。余計な事言ったかしら…」
「いえ、いいんです」
「…」
文絵さんもしばらく沈黙している。赤茶色で染め上げた長い髪。鮮度はいい。
僕は話しを続けた。
「今思えば、僕も父のことで悩んでいたころですね。母は正妻じゃないし、僕はこの世では裏の人間。そう自覚するしかなかったんです。文絵さんと話していると何だか気が落ち着いてきたものだから、女なんだけれど身内のような気がして…。思い切って、関係してしまえばよかった。そういう悔いもあります」
「まぁ、そんなことおっしゃって。心にもない事…」
「ほんとですよ」
「でも、もう、こんなになっちゃった…」
「そんなことないです…」
「ほんとに?」
「ほんとです…」
文絵さんの目が潤み始めていた。小さな企みのある目だった。
「大介さん。お話はまた後でするとして。ねぇ、あれに乗らない?」
僕と文絵さんはお化け屋敷のツアーに乗り込んだ。二人掛けの椅子でぴたりと体を寄せ合う。建物の中は暗い照明だった。エステやダンスで鍛えている文絵さんの体の感触は柔かい。僕は手を握られていた。彼女の歳のことなどもうすっかり忘れていた。明らかに六十代の肌ではなかった。あの頃と同じだった。僕はしばらくして文絵さんを女として見るようになった。危険な兆候だった。いろいろな作りもののお化けが僕たちを襲ってくる。文絵さんはその都度声を上げて、僕に抱きついてきた。彼女の手は時折僕の股間に手をやっていた。彼女は謝っていたが、物の弾みでない事は分かっていた。僕は代わりに文絵さんのふくよかな胸に手を当てた。僕は不可抗力を装った。文絵さんは、あらっ、と言って笑みを浮かべる。僕はただ文絵さんを見つめていた。文絵さんも僕を見つめる。眼差しはあの時と同じだった。照明が暗くなると、文絵さんは生娘に見えた。ツアーの終わる頃になると、自然に抱き合うようになっていた。
「ごめんなさい。わたくし…」
「いえ、僕こそ…」
「あの…」
「はい」
「今日シェラトンでお部屋取ってるの。よかったら…」
「…」
僕は何も言わず首を縦に振っていた。
僕と文絵さんは手をつないで、彼女の母のいるところへ向かった。
「遅かったわね。何処へ行ってたの。あっちこっち回ったから疲れたねぇ」
「そのようですわね。ふふふ」
車椅子の婦人は杖を携えながら、両足で立っていた。車椅子は一時の間借りていたらしい。文絵さんは機嫌が良さそうだった。顔が火照っている。僕と会って少しは気が休まったのだろうか。僕もなんとなく躁状態になっている。
「ホテルへ行って休みましょうか。じゃ、車のあるところまでいきましょう」
赤いBMWを運転する文絵さんは、A級ライセンスを持っている。
「わたくし車がないと生きていけないの」
「ほんとに車きちがいなんだから…」
得意そうに颯爽と運転する文絵さん。その横顔が夕日に照らされている。
文絵さんは料理を部屋までオーダーしていた。最上階のスイートルームには部屋が三つある。海辺が見えて、新婚でも人気のある部屋だ。
食事が終わり、文絵さんの母はシャワーを浴びてから、寝室に入った。
「大介さん、先に行ってきてくださる」
僕は先にシャワーを浴びた。この先何があるのか僕は想像していた。たしかに心の何処かで気が引いているのが分かる。文絵さんが僕の後で入った。脱ぎ捨てられた下着から淡い香水が漂う。ガラス越しの文絵さんの体は逞しく見えていた。サイボーグのような均整のとれた体つき。筋肉質のようだった。香水は僕の好みだ。不安だが、いくぶん期待が走っていた。
二人とも浴衣になっていた。文絵さんの視線が、僕の股間にいっているのがわかる。恥じらいながら、他に目を向けようとしている。文絵さんは両手で長い髪をなびかせた。妖艶さが部屋の中に流れた。
「もう一度、ワインお呑みになりません?」
「いいですね…」
互いに酔った方がいいという暗黙の了解だった。離れすぎた歳への気遣いも僕にはあった。男女の関係は以前はなかったから、気恥ずかしくなっているのだ。理性の仮面がなかなか外れない。美辞麗句などいくらでも言えるが、プレイボーイみたいに言葉を放っても、互いにしらけるだけだ。女はそんなに単純ではない。情欲が僕を迎えに来るまで待つしかない。二人の部屋は赤紫の薄明かりだけになった。
「大介さん…。わたくしのことまだ好き?」
僕は文絵さんに誘導されていた。無意識にうなづいていた。冷静な判断はここでは無意味だ。
文絵さんは口に含んだ赤ワインを、僕の口に移した。筋肉質の白い肌はスポーツ選手特有の弾力性がある。
「わたくしにまかせてくださる…」
僕たちはダブルベッドのある別の寝室に入った。僕は言われるままにした。文絵さんは僕の局部をめがけていた。そして、頬を寄せていた。うわー、大きい、と言って口の中へ入れた。ウナギのように軟らかかった僕の性器が硬くなった。情欲が僕に迫る。
文絵さんは腹ばいになって股間を僕の顔に向けた。僕は仰向けになっている。僕は文絵さんのクリトリスを目にしていた。僕はそこを舌で攻撃する。文絵さんの心臓の鼓動が速くなった。
「もう、五年もこんなことなかったの、久しぶりですわ」
と文絵さんは小声で言った。
文絵さんは、ペニスをくわえるのがうまいと僕は思った。とても上品な攻め方だ。子供が出来ない彼女には、唯一の癒しの世界なのがわかる。彼の夫は愛人のほうに身も心も向かっているのだろう。
僕は文絵さんが哀れに思った。好きにしていいんですよ、と僕は言った。文絵さんは嬉しそうに僕のペニスを口に入れながら首を縦に振る。彼女の温い涙が僕のペニスを洗っていた。
しばらくして僕は文絵さんの白い太腿を攻めた。ダンスで鍛えられた悩ましい脚。僕は燃えて来るのを感じていた。文絵さんは小さな声で喘いだ。母に聞こえるからと言う。淑やかさは普段と変わらない。女は誰でも、セックスをすればただの動物だ、みんな同じだというのは的を得ていない。男の身勝手な思い込みなのだ。僕にも少しはそういう気持ちがあったが、今は違う。
僕は珍しく彼女の体を全身舐めまわしていた。
「あぁ、わたくし、わたくし。もう、いや、いやですわ。
もう、ダメです。壊れそう。お願い、おやめになって」
「少し痛いと思うけど、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
文絵さんは美弥子とは違う。愛のとらえ方と性の実際。文絵さんは老齢だがそれなりの魅惑がある。確かめてみて僕はそう感じていた。文絵さんはアクメに達しそうだった。僕の太い鋼鉄が文絵さんの中に入った。いやいやと喘ぐ文絵さんは、自分の豊かな乳房を両手でつかんだ。僕は赤い乳首を擦ってやった。あえぐ文絵さんの顔が、僕のピストン運動を勢いづけた。文絵さんは膣の中まで淑やかにみえた。突いても突いても奥がない。だが、その時が来た。女の股間は僕にとっては蜜のようなものだ。甘そうな恥丘とクリトリス。杏を縦で割った蜜のゲート。神秘的な水の出口とアヌスの深み。僕の目の前にそのすべてが待ちかまえている。男と女は有史以来それが唯一の交流地帯。宗教を超えた甘美な世界がある。
文絵さんの体の中に、僕の樹液が大量に入っていった。文絵さんはイッたようだった。そのあと僕は、クリトリスをゆっくりと口で被った。文絵さんは単純に体の一体化だけでは、満足しないような顔つきをしている。文絵さんはまだ僕の知らない大人の愛を知っている。きっとそうに違いない。その証拠に、現に僕がうろたえているではないか。僕は女を極めるにはまだまだ浅い。その深遠さがまだ分かっていない。文絵さんとこうしていると素直に受け止める僕がそこにいた。僕と文絵さんはそのあと裸のまま眠った。
日の出が僕たちを照らしていた。文絵さんは、起きてすぐシャワーで体を清めた。
「お目覚め?大介さん」
文絵さんは僕と離れられなくなっている。僕はそう感じた。
「これからも時折、わたくしと逢っていただけるかしら?ご都合のいいときだけでいいですから」
文絵さんはうつむき加減に言った。僕は迷わず首を縦に動かした。おそらく僕も離れられなくなっている。でも、僕にはまだ確信は出来なかった。これからは彼女の言いなりになるのだろう。それもいい。僕はそういう自分に納得している。彼女から見れば僕は餌食になった小羊にでも見えている。たしかに僕はそう感じていた。
「大介さん、あなた変わっていないわね。うれしいわ…」
文絵さんに僕は唇を奪われていた。ドア越しで彼女の母が見ている。
「ご馳走様。文絵。あまりご迷惑かけるんじゃないですよ…」
「お母様ったら…。いやですわ。見ていたのですか?」
「いいじゃないか。誰にも言う訳ではないでしょ」
僕は無言だった。その婦人は不敵な笑みを浮かべていた。

望月の四十九日の法要が過ぎた。事件の捜査は足踏み状態の様であった。
エントランスロビーからインターフォンが鳴った。
「八雲さんのお宅でしょうか」
ドスのきいた声であった。どうみても堅気風の男とは思えなかった。僕は、しばらく、居留守を試してみた。インターフォンの音は、なかなかおさまりそうもない。十回ほど過ぎたあたりから、女の声に変わっていた。みどりさんと呑んだ後の、不可解な出来事。それ以来、僕は幾分ナーバスになっていたのだ。不安と自己防御が強くなっている。いくら女の声でも女だとは限らない。声帯模写の得意な奴はいくらでもいる。だいいち、誰ともアポなど入ってもいないのだ。
来る時が来たと思った。僕は気持ちを入れ替えようとしていた。事情聴取が遅れてきたと思えばいいのだ。
そうだった。考えてみれば、僕は以前から覚悟を決めていたのだから。変に取り乱す必要はない。それにしても、捜査の進展が少し遅いような気がする。事件が起きてから二ヶ月近くも経っているのだ。迷宮入りの公算が大になったと、マスコミでは話題になっている。唯一僕にはアリバイを裏付ける自信はない。だが僕は自分の立場を正直に言わねばなるまい。なにもやましい事はしていないのだから。危惧など抱いても仕方がない。
僕はようやく重い腰を上げた。
「はい、そうですが・・・」
「ちょっとお話を伺いたいのですが・・・」
「あのー、どちら様でしょうか?」
「突然のことですみません。お手間は取らせません。望月さんのことで。伺ってよろしいでしょうか?」
僕はエントランスのドアを解除した。
「どうぞ」
「失礼します」
五十代の男と三十代の女が入ってきた。声のイメージとは違い、気さくな親子という感じである。二人とも薄いサングラスをかけている。
「失礼いたします。実はこういうものでして・・・」
山崎探偵事務所 所長 山崎治夫
名刺にはそう記されていた。
「探偵事務所・・・」
「驚かして申し訳ない・・・」
「いえ、そんな・・・」
「山崎といいます。こちらは山崎準子」
「山崎準子です。よろしく」
「お二人は同じ苗字ですね」
「ええ、まぁ。どうしようもない子でして…。この子はまだ駆け出しなものでして・・・」
「娘さんですか?」
「はぁ、まぁそういうことに。」
「今日はお忍びで父に付いてきましたの」
「それは、それは。僕はすっかり警察の方かと・・・」
眼光の鋭いところは職業柄致し方ないが、顔のほうは似ていない。親子であればどこかの遺伝子が顔にでてくるはずだが、それが見受けられない。
山崎は探偵には見えない。柔和な顔立ちだが、芯がありそうである。幾多の修羅場を潜り抜けてきたようで、人情も細やかに見える。加害者がいくら罪を否認しようとしても、雰囲気的にそれが出来にくくなる。たしかに場数を踏んだ存在感がある。要するに嘘はつけない。
「父は以前刑事でしたの・・・」
「そうでしたか。僕でもお役に立つ事があれば…」
二人は平身低頭な話し振りである。
「でも、警察じゃなくて、どうして探偵社のかたが・・・」
「ま、そのことはあとで・・・。しかし、いい眺めですなぁ。この一等地で最上階。うらやましい。わたしなんか未だに借家ですよ。小さい時に母親を亡くしたものだから、娘が嫁にいくまでは苦労をかける。」
話題を逸らす理由でも、あるのだろうと僕は思った。
普通の家庭の味を知らない僕には、逆にうらやましく思える。
「最近は高いビルばかりどんどん立ってしまって。ここのマンションは地ンは地下みたいなものですよ」
自宅のマンションは十階建ての最上階だが、超高層マンションの建設ラッシュで、近頃はすっかり目立たなくなってしまった。南面のバルコニーには余り陽が当たらなくなっていた。
「はははは。まぁ、そうご謙遜なさらなくても」
「…」
山崎は本題に入った。僕は笑顔の裏で身を構えている。
「望月さん、大変なことになりました。お悔やみ申しあげます。ショックでしたでしょう?」
「はぁ、それはもう・・・」
「現場の捜査陣も手詰まり状態になっていましてね。後輩から私に何かあったらよろしく頼むと泣きが入りまして・・・。もちろん、私個人としての立場からですがね・・・」
「そうだったんですか・・・」
「戦前、同じような事件があったことはご存知ですよね」
「阿部定さんのことですか?」
「よくご存知ですね。そうです。資料では猟奇とか奇異な事件だとかありますが。どう思いますか?八雲さん…」
「そう言われてもですね。巷で得た情報だけですが・・・」
「そうでしたよね。無理を申し上げて、申し訳ない」
「僕は何処にでもある男女の事件と思っていますが…」
「当時は226事件のあった年で、軍部が政治のイニシアチブを握ろうとしていた時でもあります。巷では閉塞感が蔓延していたそうですね。当時の人の気持ちの中では、定さんにみんな拍手していたとか聞いています。彼女は愛していた男の一物を、何日も肌身離さず持ち歩いていたんですよ。逮捕されて連行されたときの彼女の笑顔を見て、私は正直言って安堵感というか女の達成感みたいなものを感じましたですね。死んだ伯父の言うには、明るいスターのような女だったそうです。裁判所でもかなり戸惑ったんでしょうね。前例がありませんから。予審調書を読んでみてもそれがうかがえるんですよ」
「仕事上とはいえ、お詳しいですね」
「なにね、私の伯父が事件当時、蒲田の警察官でしたから、事件の一部始終の資料を残しておいてくれていたんです。定さんとは話もしたそうです」
「たしか、六年の刑でしたが、恩赦で五年で出てこられたんですよね」
「そうですね。でも、模範囚でしっかり更生したそうですよ。というか、しっかりと自分を貫いたということなんでしょうかね。結婚の申し込みも殺到したそうです。個人的には同情するところもあります」
「僕もです」
「五十歳位まで浅草で働いて、その後結婚して、離婚して、座長になって自分の事を題材にした劇で地方を回ったそうですね。その後の消息は分かっていません」
「たぶん、僕はまだご健在だとは思いますが・・・」
「そうですか。確かなことは言えません。私はもう人生を全うしたんじゃないかと踏んでいますがね。しかし、なんですね。殺された望月さんは、当時の定さんの相手とよく似ていた。不思議なものです。輪廻転生でもないでしょうが、今の時代でも同じような事がまた起きた」
「で、あれは見つかったんですか?」
「いえ、まだです。現場では指紋も証拠の凶器も見つかっていません。関係したかたのアリバイも完璧です」
「困りましたね」
「そこでです。八雲さん、望月さんのその他の女性関係ご存知でしたら、教えていただけませんか」
「すみません。僕はそこまでは」
「そうですよね。いえ、ご参考の為と思いまして。お分かりにならなかったら、もうそれでいいんです」
「すみません」
「ところで、八雲さん、おたくは、今どういうお仕事なさっていらっしゃいますか?ご迷惑でなかったらお話していただけませんか。他言は一切致しませんので…」
もう調べは済んでいるはずだ。
「もう、お調べになっているのでは…」
「これは失礼。昔の職業病というやつで。今も同じですが」
「僕はまだ無名作家で、はっきりいって今は無職です」
「ここはあなたのお住まいですか?」
「いえ母名義のマンションです」
「そうですか。わかりました。生活費はどうしていらっしゃいます?」
「母からの仕送りでなんとか」
「そりゃぁ、たいへんだ。はやく有名になってくださいよ。でも楽しみですねぇ。夢があって」
「そうでもないんですよ。焦ってばかりで・・・」
「たまには何処かの雑誌に載せているんですか?」
準子さんが尋ねた。
「生活費稼ぎにね。ゴーストライターもやってます」
山崎とその娘は目を合わせた。
「そうとくれば話しは早い。八雲さんは、望月さんに何度か書いてあげていましたよね?その本はいつも売れていたとか…」
「そうです。何回か…」
「わたしも何度か読みました…」
「おまえはちょっと黙っていなさい…。その話は後で…」
「ごめんなさい…」
「現場にフロッピーディスクがあったんですが、たしかに八雲さんのですよね?」
「そうです」
参考人というより半ば誘導尋問に近い。
「確認したところ、被害者のパソコンにあなたからのメールが、添付ファイルと一緒に送られていました。死亡時刻の前後です。三回ほど」
「そうでしたね。思い出しました」
僕は当時睡眠不足で、半分眠りながら書いていたようだ。
「しかし、望月さんも、まだお若いのに惜しい事をしましたね。これからという時に。わたしは来年定年で、これが最後の仕事になりそうです。うまく加害者を割り出せたらいいんですがね。ひとつご協力願えませんか」
「もちろんです」
「あなたのアリバイは、とれていますのでご心配なく。暑の方でも疑ってはおりません」
「ありがとうございます」
「上からのお達しもあったようでして…」
「お達し?…」
山崎はそれ以上言わなかった。僕はその意味が分からなかった。想像だが、たぶん、母が何らかの根回しをしたのだろうと考えた。母に言ってもその事は一切話さないだろう。いつもそういう母だった。
「実は私も今日は休日でしてね。お邪魔するつもりはなかったんです。娘が個人的にあなたに会いたいと、頻りに言うものだから」
「実は父に黙って、あなたたが別名で載せている短編が好きで、雑誌社に問い合わせたんです。でも本名は断られました。望月さんが別の雑誌でコラムを出していた頃、友人に仮名ですが、この辺で住んでるとお聞きました。たぶん、あなただろうと。やはり、書いてあげてたんですね」
「はぁ、まぁ…」
「準子。今日はこれぐらいで、お暇するとしようか」
山崎は何かを思い出したかのように言った。
「えっ、もう?・・・」
「そんな、お気遣いなく。コーヒーでも」
「そうはいきません。せっかくの仕事の邪魔をしては…」
「そうですか。それじゃ、後日また…」
「こんどは私の家にでも来ませんか?さいたま市の緑区で静かなところです。娘も手料理が少しは作れます。私もですが…」
「はい、そうします。伺います…」
「それじゃ」
「八雲さん、父とお待ちしてるわ…」
「八雲さん」
「はい」
山崎の目が少し厳しくなっていた。
「あなたにお会いしてから、気になってはいたんですが…」
「なんでしょう」
「準子、先に表で待ってなさい」
刑事はしばらく考え込んでいた。
「つまり。ですね」
「単刀直入におっしゃってください」
「名もない探偵の老婆心と思ってください。つまりですね。あなたも望月氏に似てるようなところがある。私の勘ですが、お気を付けたほうがいい。特に女性関係には・・・」
「そう言われましても。困りました」
山崎は僕の日常生活を把握しているような気がした。確かに彼の言う通りかも知れない。女に対してあまりにも無防備過ぎるところがある。人がいいというか、物を知らないというか。
「私の単なるたわ言だと思ってください。気になったもので。つい・・・。お許しを…」
「いえ、いいんです…」
帰る二人の後ろ姿はよく似ていた。父と娘の風景。僕には父の風景がない。
僕にとっては余韻の残る親子に思えた。

◎登場人物・相関図・展開

・八雲大介
・八雲瑞江(母)
・青山美弥子(幼なじみ)
・青山幾太郎(美弥子の継父)
・青山町子(美弥子の継母)
・青山美樹(美弥子の姉・従姉妹)
・青山佳織(美弥子の妹・従姉妹)僕と渋谷で会った女
・小林正紀(美弥子の実父)
・伊集院瑶子(美弥子の実母)
・望月春男(SM作家)変死で他界
・安達麻里(望月の愛人で華道家・資産家・年齢不詳・身元不明)
・香山勇太(僕の友人・広告会社)
・早川時夫(TVディレクター・友人)
・一色みどり(編集者・望月の愛人)
・西田アンナ(元アイドル歌手)美弥子と同性愛志向の女
・神田京子(美弥子のライバル)
・相川光夫(プロダクション社長)
・村田一輝(頭取)
・佐久間盛夫(実父)会社会長(化粧品メーカー創業者)
・佐久間文絵(実父の夫人)
・その他

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